第八章 疑念と破局
王妃懐妊の報せを耳にしたピエトロ国王の最初の気持ちは、安堵でした。「王妃との間に子をもうけなければいけない。そうしないと国家が混乱に陥る」という重圧は、解放されてみて初めて分かったことですが、ピエトロ国王にとってかなりの負担になっていたのでした。
ひとまず安堵した後は、あれこれと気を揉み始めました。男の子だろうか、女の子だろうか、仮に女の子だったとしても仕方ない、カテリーナが一人娘だと思われていた時に計画されていたように、女王にして婿を取らせてしまえばいい、とか、乳母はどうやって選定すればいいだろう、養育係は、家庭教師は、とか、そういったことをあれこれ考えては、執務室の中をぐるぐると歩き回ることがよくありました。(そういったことは後宮の女官たちに任せておけばよいのであって、国王自らが気を揉む必要はないことでした。)ピエトロ国王はそわそわして落ち着きませんでした。カテリーナ王妃との愛の証が、命をもって生まれてくるということが、うれしくてうれしくてたまらなかったのです。
しかし、しばらくすると、ピエトロ国王の胸に猜疑心が巣食うようになりました。王妃の胎の中の子は、本当は自分の子ではないのではないかという疑いが、ピエトロ国王の心にまとわりついて離れなくなったのです(もっとも、それは結局正しい疑いだったのですが)。その疑いが強まったのは王妃とジョヴァンニが親しく話しているのが聞こえてしまった時でした。
ある日、ピエトロ国王が王妃を訪ねて居室の前まで来ると、中からジョヴァンニの声が漏れ聞こえてきました。ジョヴァンニは、リチア様の使いでもなく勉強のためでもないのに、カテリーナのところへ来ることが多くなっていました。
「この子が大きくなったら、次の王様になるんですよね?」
「そうね、男の子だったらね」
扉越しに聞こえるジョヴァンニの声は、妙に嬉しそうでした。なぜお前がそんなにうれしそうなのか、と、ピエトロ国王は胸の内で訝りました。
「あ、今、動きましたよ!」
「もう、気のせいよ、ジョヴァンニったら。まだ自分で動ける大きさではないもの」
これではまるで夫婦の会話ではないか、とピエトロ国王は思いました。しかし、二人仲睦まじく、王妃のお腹をジョヴァンニが撫でているところへ、どんな顔をして割って入ってよいか、わかりませんでした。ピエトロ国王は扉越しに声を盗み聞いただけで、そのまま踵を返しました。
このことがあってから、ピエトロ国王は王妃とジョヴァンニとの不倫を疑わざるを得なくなりました。そんなふうに疑う自分に嫌悪を覚えながらも、ジョヴァンニが視界に入ったりジョヴァンニの噂を耳にしたりすると、意識せずにはいられないのでした。
疑念を晴らす方法もないまま時は過ぎ、とうとう、元気な男の子が生まれました。宗教画に出てくる愛の天使のように手足がぷっくりと丸い赤ん坊でした。瞳は透き通るようなグレーでした。
これは決定的だ、とピエトロ国王は思いました。国王も、王妃も、瞳の色は青で、ジョヴァンニがグレーなのでした。
ピエトロ国王は、王妃が一人でいる時を見計らって、問い詰めることにしました。そうせずにはいられませんでした。
「カテリーナ、少しいいですか? 聞きたいことがあるのですが」
「何でしょうか」
「あなたは、私に告白すべきことがあるのではありませんか?」
「突然何をおっしゃるのです? まあ、おかけになって」
カテリーナ王妃は、動じた様子もなく、ただ国王のおかしな言動を不思議がるようにして、国王に椅子を勧めました。ピエトロ国王はくじけそうになるのをこらえて、振り絞るようにして問い質します。
「あの子の…マルコの父親について、あなたは私に言うべきことがあるのではないかと、訊いているのです」
マルコというのが生まれたばかりの王子の名前でした。
「おかしなことを言う人」
カテリーナ王妃は、ただ不思議そうな顔をするだけでした。とぼけるのも、ここまで肝が据わっていれば強いものです。
「そうですわね、あの子の父親についてということならば、わたくしはその人を愛しています、とだけ、お答えすることにしましょうか」
「今、『その人』と言いましたね? つまりそれは、私ではないということだな?」
「バカなことを言わないで。私が愛しているのがあなたでなければ、一体誰だというの?」
カテリーナ王妃は、自分からは決してジョヴァンニの名を出すまいと固く用心していました。それで、ピエトロ国王のほうから切り込まざるを得なくなりました。
「では訊くが、なぜマルコの瞳はグレーなのだ?」
「そんなこと、神様でなければわかりませんわ。あなたの目はなぜ青いのかと聞かれても、困るでしょう?」
「私の目が青いのは、父の目が青かったからです。だがマルコは違う。私もあなたも、青い目ではないか」
「それではあなたは、わたくしがグレーの瞳の男の人と不倫をしたと、そう仰りたいの?」
カテリーナ王妃の対話術は絶好調でした。玉虫色の言葉遣いは決して尻尾をつかませることなく、質問に質問で返して逆に相手の言質を取るスタイルです。このような政治的な対話術が一向にうまくならないピエトロ国王は、逆に訊き返されて、「そうだ」と答えてしまいました。
「最近よくジョヴァンニと会っていたでしょう。彼との間に何かあったのではありませんか?」
「いやだ、ジョヴァンニとの不義を疑っていらっしゃるの?」
カテリーナ王妃はうんざりした顔を作りました。
「あのねえ、こんなことをいちいち説明するのもバカらしいけれど、隔世遺伝ってご存知です? わたくしから見て母方のおじい様、つまり母リチアのお父様は、グレーの瞳をしていたのですよ。その血は母にもわたくしにも現れなかったようですけれども、たまたまマルコがそれを濃く受け継いだのですわね」
ピエトロ国王はリチア様の父親のことまでは知りませんでした。会ったこともありません。
「あなたがジョヴァンニのことをどこか快く思っていないのは薄々感じ取っていましたけれど、何も王妃との不義の罪をでっちあげてまでジョヴァンニをいじめることはないのではなくて?」
ピエトロ国王はもう何も言い返せませんでした。「変なことを疑ってすまなかった」と詫びて、カテリーナ王妃の居室を退くほかありませんでした。
決定的な亀裂が走ったのは、或る日のお茶会のときでした。
カテリーナ王妃は、お披露目の意味もあって、マルコ王子を抱いてお茶会に出ました。お茶会の参加者は、皆、口々にマルコを褒めたたえました。マルコが泣けば、元気がある証拠です、赤子はこうでなくっちゃいけないと褒め、マルコがおとなしければ、なんて賢い子なのでしょうと褒めました。つまり褒める口実は何でもよかったのです。君子の相が出ていますなどと易者めいたことを言う者さえいました。
ジョヴァンニはリチア様の付き添いで出席していました。ジョヴァンニは、みんなが口々にマルコ王子を褒める輪の中に加わって、ピエトロ国王の聞いている前で、不用意にもこんな褒め方をしてしまいました。
「わあ、かわいい! 天使みたいですね!」
ジョヴァンニは、自分が陰で天使とあだ名されていることを知らないわけではありませんでしたが、全然気にしていませんでした。一方、ピエトロ国王は強烈に反応しました。この青年は、自分が天使と呼ばれていることを知っていて、それでいて王子マルコを「天使みたい」と形容したのだ、これは暗に王子マルコが自分の子であることをほのめかしたのではないか? 疑心暗鬼のピエトロ国王は、今やなんでも悪いほうに考えてしまうのでした。
お茶会が終わるころ、ピエトロ国王は、ジョヴァンニが一人でいるすきを見計らって、そばへ寄り、耳打ちをしました。
「ジョヴァンニ、話がある。あとで私の執務室に来なさい」
夕方、ジョヴァンニが国王の執務室を訪ねると、ピエトロ国王は薄明るい窓を背にして真っ黒い影のように立っていました。
ピエトロ国王は単刀直入に切り出しました。
「マルコの父親は誰だ、ジョヴァンニ」
ジョヴァンニは、この言葉を聞いた途端、顔を真っ赤にして俯きました。言葉こそ発しなかったものの、心当たりがあることは明らかでした。ジョヴァンニは、カテリーナ王妃ほど厚顔無恥に、しらを切りとおすことはできなかったのです。
ピエトロ国王は、ジョヴァンニのこのしぐさで、不義を確信しました。
かっと頭に血が上ったピエトロ国王は、壁にかかっていた細い剣を二振り取ると、一振りをジョヴァンニのほうに投げてよこします。決闘をしようというのでした。立会人もなければ両者の明確な合意もない、決闘の体をなしているとはとても言えないような申し込み方ではありましたが、ジョヴァンニが剣を受け取り、ピエトロがジョヴァンニに躍りかかってしまった時点で、もう止めることはできませんでした。
ピエトロの剣戟を、ジョヴァンニはよく捌きました。二人とも、人を相手に打ち合うのは初めてでしたが、基本形を繰り返しおさらいしていた分だけ、ジョヴァンニのほうが腕は上でした。ジョヴァンニはしかし、攻めませんでした。不義の負い目もありましたし、自分が国王に怪我をさせてしまうのが恐ろしかったのです。
ピエトロは激しく打ち込みましたが、そのことごとくをきれいに捌かれていました。苛立ちと自棄があったでしょうか、ピエトロがあまりに大きく深く踏み込んだ瞬間、ピエトロの剣を払ったジョヴァンニの切っ先が、ピエトロの頬をかすめ、頬に赤く、真横に大きく、傷をつけました。
そのとき、執務室の扉が勢いよく開きました。
「二人とも、何をしているのですか! おやめなさい! 今すぐ!」
駆け付けたカテリーナ王妃の気丈な一喝で、決闘は幕を閉じたのでした。
ジョヴァンニは、王宮を去り、修道院に入りました。初めからそういう予定だったかのように、カテリーナ王妃とリチア様が手を回したのでした。
ピエトロ国王とカテリーナ王妃の関係は、ますます冷え切ったものとなりました。ピエトロ国王は、カテリーナ王妃の不義を確信していましたが、カテリーナ王妃はどこ吹く風でした。「事実無根の言いがかりですわ。ありもしないことを騒ぎ立てていたずらに混乱を招くのはおやめなさい」とでも言わんばかりに、平然と公務を続けるのでした。
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