第六章 五年後

 五年の月日が流れました。


 カテリーナ王妃にとっては、実に活き活きと才能を開花させた五年間でした。母親譲りのもてなしの手腕は、ますます磨きがかかりました。リチア様の若いころをほうふつとさせる、美しい女主人として、社交界での存在感をますます高め、今や社交界における扇の要としての役割を誰一人として疑う者はありませんでした。カテリーナ王妃、三十一歳、未だ子供はありませんでした。


 他方、ピエトロ国王は、生きながらにして死んだような五年間でした。みんなの言いなりになる五年間、回ってくる文書に自分の名前をサインし続けるだけの五年間でした。思えばあの時、マルティーノ投獄の文書にサインした時に、自分自身をも、玉座という牢獄に閉じ込めてしまったのでした。ピエトロ国王、二十九歳、未だ王妃との夜はぎこちないままで、侍女のアリスに下の世話をしてもらっていました。


 侍女のアリスは二十三歳、変わらず王妃付きの侍女として働いていました。アリスは、適齢期になっても結婚しようとはしませんでした。周囲の人がわけを訊くと、「カテリーナ様にお仕えすることが私の幸せですから」と答えるのが常でした。結婚したらカテリーナ王妃のそばで働ける時間が減ってしまうと思ったのです。それほどまでにアリスは、カテリーナ王妃を敬愛していたのでした。


 一方、ピエトロ国王に対しては、アリスはこの五年の間に、ずいぶんといい加減な扱いをするようになっていました。


 そもそもの発端は、ピエトロ国王が、一時の気の迷いでアリスにチップをやってしまったのがいけなかったのです。ピエトロは、アリスが喜んでくれると思って、ある日、「いつもすまないな、これはほんの気持ちだ」と、金貨を一枚、アリスのエプロンのポケットに押し込んでしまいました。次の日曜日、アリスはピエトロ国王の性器をもてあそびながら、図々しくも、「今日は、ほんのお気持ち、いただけないんですか?」と囁きました。ピエトロ国王はすっかりうろたえてしまって、「だってお前、あれは…」とだけ言って口ごもりました。それから「お前、この私をゆすろうというのか」と凄んでみましたが、下半身丸出しで、相手に大事なところを握られ、快楽に悶えながらでは、いくら凄んでみたところでただ滑稽なだけでした。アリスはくすくすとおかしそうに笑って答えました。


「だって王様、私はただ、王妃様から『清潔に保つように』とだけ言いつけられているんですよ? これは王妃様には内緒でほんの気持ちでサービスをしているだけなので…」


 笑いをかみ殺しながら、アリスはヌルヌルに濡れた先端付近を細い指先で、円を描くように撫でました。ピエトロ国王はたまらず腰を引き、降参しました。


「わ、わか、わかったから、来週、今日の分も合わせて、持ってくるから」

「くすくす、恐れ入ります~」


 こうなってしまっては、もう力関係は覆ませんでした。なお悪いことには、ピエトロ国王の性器は、こんな状態でいつもよりも固くなっていました。身分も年も下の小娘に笑われ、手玉に取られて、それで普段より興奮してしまっていたのでした。


 このことがあってから、アリスは、ピエトロ国王から、毎週金貨を一枚ずつ受け取るようになりました。侍女の仕事は忙しく、ぜいたくをする時間はありませんでしたから、それが五年も続いた今、アリスは自分の部屋の隠し棚の中に、だいぶ貯め込んでいました。


 ジョヴァンニは、りりしく、美しく、立派に成長しました。この五年間、リチア様のお屋敷で暮らしていたのですが、リチア様は近頃足が悪くなってしまったため、かいがいしくリチア様のそばに控えて様々な用事を肩代わりしていました。相手方を訪ねては「リチア様の使いで来ました、ジョヴァンニです」と言うのが決まり文句になっていましたので、王宮のどこに行っても「リチア様の使い」として親しまれるようになりました。特に、王宮勤めの女性たちにとってリチア様は神にも等しい存在でしたから、そのリチア様の使いということはすなわち天使だという理屈で、本人不在の噂話の中では、「天使」とあだ名されていました。実際、そのあだ名は決して誇張ではありませんでした。森の妖精のような美しさの内側から、男性的な美しさが少しずつ顔をのぞかせつつありました。背はすらりと高く伸び、背の割には細い手足のしなやかな筋肉や、声変わりしたての少しかすれたような声が、大人の男になっていくのを予感させました。透き通った美しいグレーの瞳は、時折物憂げな顔で何事かを深く考えこむとき、ミステリアスな影が差し、見る者を魅了せずにはいませんでした。ジョヴァンニ、十五歳、春の盛りでした。


 ジョヴァンニは、リチア様の使いという身分で、王宮のどこへでも入っていくことができましたし、持ち前の顔の良さと人懐っこさで、誰からも愛されました。好奇心と向上心の強い少年でしたから、行く先々でいろいろな人からいろいろなことを教えてもらい、自分で復習しては、幅広い学問や技芸を身につけていきました。


 リチア様付きの侍女たちと仲良くなっては、紅茶の美味しい淹れ方を教えてもらい、茶葉なしのお湯だけで何度も練習をしてうまくできるようになって初めて、リチア様に自分で淹れたお茶を出しました。剣術の先生と仲良くなっては、基本の攻防の型を教わり、空いた時間を見つけては木の枝を相手に何度も繰り返しその型を復習しました。身分の低い馬丁や庭師でさえも、ジョヴァンニにとっては最大の尊敬に値する家庭教師になってしまうのでした。こんな調子で、ジョヴァンニは様々な技芸を自分のものにしていきました。


 ジョヴァンニにとっての学問の先生は、もっぱらカテリーナ王妃でした。ジョヴァンニとカテリーナ王妃は、血縁関係としては、再従姉弟またいとこにあたるのですが、ジョヴァンニはカテリーナ王妃を実の姉のように慕っていました。


 リチア様もそれをよくわかっていましたので、カテリーナ王妃に用があるときにはなるべくジョヴァンニを使いに出すようにしていました。「これを届けて、カテリーナがひまそうだったら勉強を見てもらっておいでなさい」。リチア様はよくこう言ってジョヴァンニを送り出しました。


 ピエトロ国王がカテリーナ王妃の居室を訪ねたとき、王妃がジョヴァンニの勉強を見ている、ということも珍しくありませんでした。二人はソファに並んで座り、肩を寄せて勉強していました。ピエトロ国王は内心穏やかではいられませんでしたが、前のように夜に寝室にいるならばともかく、昼間に居室に一緒にいることを咎め立てするのはあまりにも変なので、何も言い出せませんでした。そういう場合、ピエトロ国王は、ぎこちない様子で王妃に用件だけを伝え、ジョヴァンニには「しっかり学びなさい」と形ばかりの励ましを送って、そそくさと王妃の居室から退去するのでした。


 ピエトロ国王のあずかり知らぬところで、もっと大胆な場面もありました。ジョヴァンニとカテリーナ王妃はいつものように肩を寄せ合って座って勉強をしていたのですが、切りのいいところまで勉強が進んで、今日はここで終わりにしましょうかという雰囲気になりました。そのとき、ジョヴァンニが、「はあー、疲れちゃいました」と、カテリーナ王妃の膝の上に頭を投げ出して、膝枕のように倒れかかって甘えたのでした。


「まあ、いけませんよ、お行儀の悪い」

「えへへへ」


 ジョヴァンニはカテリーナの膝の上にぐりぐりと頭をこすりつけました。カテリーナのドレスはいい匂いがしました。


「ちょっと、やめなさい、やめなさいったら」


 カテリーナも、半分笑いながら、制止になっていないうわべだけの制止をしました。ドレス越しに、思春期の少年特有の高い体温が、カテリーナの膝に伝わりました。


「もう、お行儀の悪い子は、こうだ!」


 カテリーナは、ジョヴァンニの脇腹に手を伸ばして、脇腹をこちょこちょとくすぐりました。ジョヴァンニはキャッキャと身をよじって笑いました。ジョヴァンニはジョヴァンニで、器用に腕を伸ばしてカテリーナの脇腹をくすぐりました。二人でキャッキャとくすぐりじゃれ合っているのを、侍女のアリスだけが隣室で声を聞いていました。


 しばらくじゃれ合った後、ジョヴァンニはカテリーナ王妃の膝の上に頭を乗せたまま、はあはあと呼吸を整えていました。カテリーナ王妃も手を止め、呼吸を整えました。そのとき、ぽつりと、ジョヴァンニが呟きました。


「はあー、僕が王様だったらよかったのに」

「どうして?」

「僕が王様だったら、カテリーナ様とずっと一緒にいられるのにな」


 カテリーナ王妃は、何と答えたらよいかわからず、黙ってしまいました。ジョヴァンニもそれ以上何も言いませんでした。そうして、膝枕をして二人でしばらく黙っているうちに、ジョヴァンニはすうすうと寝息を立て始めてしまいました。


 膝の上で無防備に眠るジョヴァンニの前髪を撫でながら、カテリーナ王妃は考えました。もしわたくしに子供ができていたならば、そうして子供が大きくなったならば、こうして膝枕をして頭をなでる未来もあったのかしら。でも、わたくしももう三十一。子供を望むにはもう後がない歳になってしまった。ピエトロ様はわたくしを見てもびくびくと怖じ気づくだけで、わたくしを愛してくださる様子はみじんもない。それならばいっそ……。


 そこまで考えて、カテリーナ王妃ははっとして我に返りました。今の罪深い思考を打ち消すように静かに首を横に振り、膝の上で平和な寝息を立てている天使の前髪を、優しく撫でました。

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