第五章 改革と失脚

 とはいえ、ピエトロ国王も、夜の生活で悶々とする日々ばかりを送っていたわけではありません。国王としての仕事を、着実に進めていました。特に財政の分野では、大きな改革ができると考えていました。


 元々海運や貿易が盛んだったこの国では今、投機的な先物投資家が様々な商品の価格を乱高下させており、それによって庶民の暮らしに影響が出るほどになっていました。もともと下町に生まれたピエトロ国王は、王宮の誰よりもその切実さを知っていました。お酒や小麦でさえ安い輸入品に国内生産が押されていましたが、輸入品は値段が安定せず、パン屋の棚にパンが並ばない日もありました。農場を経営していた一家が農場を手放して路地裏の貧民街に流れてきて詐欺や掏摸の片棒を担いでいるなどという話も珍しいものではありませんでした。


 青年ピエトロは庶民としてそれを肌で感じてはいたものの、どうしてそんなことが起きてしまうのかまで考える力はありませんでした。しかし今、国王になって、マルティーノ補佐官をはじめ様々な家庭教師の教育をみっちり受けてみて、生来の怜悧な頭脳でそれを咀嚼してみると、現行の貨幣経済の仕組みと問題点が明確に見えてくるようになったのでした。


 ピエトロ国王は、国内の農工業を保護して需給を安定させ、また生活必需品の価格を安定させるため、小麦や衣類など、国内で生産できてなおかつ生活に欠かせない商品について、輸入品に高い税金をかけることにしたのです。また、先物取引所に国の機関を設置して、市場価格を乱す恐れのある取引を禁止する仕組みを構築しようとしました。


 これは想像以上に難しい事業でした。商家の貴族の反対にあったのはもちろんのことですが、それ以上に、取引監視の公正さをどのようにして確保するかが、非常に難しい課題でした。ピエトロ国王とマルティーノ補佐官、それに王宮づきの経済学者たちは、膨大な資料とにらめっこしながら、頭を突き合わせてああでもないこうでもないと対策を練りました。


 マルティーノ補佐官も、経済学者たちも、ピエトロ国王の発想力や分析力の明晰さを高く評価していました。ピエトロ国王本人には、どこまでがお世辞でどこまでが本心かわからなかったのですが、補佐官や学者たちは本気で国王のリーダーシップに惚れこみ、なんとかしてこの事業を成功させようと意気込んでいたのでした。ピエトロ国王はやりがいを感じていました。社交界の付き合いや夫婦生活という面では息苦しい王宮だけど、これは庶民育ちのぼくにしかできない仕事だ、これで国民の生活を安定させるんだ、これを成功させるためにぼくは国王になったのかもしれない、などと思っていました。


 そこへ、思いもよらない横槍が入りました。


 マルティーノ補佐官がその地位と立場を利用して公金横領をしているという匿名の告発があったのです。


 マルティーノ補佐官は身柄を拘束されました。そして、補佐官と懇意にしていた人々を除外して、王宮で役職を持つ貴族たちによる調査委員会が設置され、マルティーノ補佐官の公金横領の実態が調査されることになりました。


 もちろんピエトロ国王も、それから協力してくれていた経済学者たちも、その調査に関与することはできませんでした。マルティーノ補佐官の息がかかっていると思われているからです。


 ピエトロ国王は、マルティーノ補佐官がまさか公金横領に手を染めているなどとは考えられませんでした。ここのところ何週間も、寝ても覚めても、財政改革のことで頭がいっぱいになっていたのです。公金横領などできるはずがありませんでした。


 調査の結果、マルティーノ補佐官は、ピエトロが国王に即位するよりもずっと前から、補佐官の立場を利用して国庫の資金に手を付けていたと発表されました。そして、その地位を利用して、横領した金で自分の息のかかった御用学者を雇い、王室の家庭教師を自分に都合のいいような人選で固めて、王室と財政改革とを裏から操っていたということになったのでした。


 舞踏会や夜会においては、貴族の高官たちは、国王に同情的にふるまいました。善良な国王様は悪党どもにずっとだまされていたのですね、おかわいそうに、でも大丈夫、王様は根っからあの悪党の一味なのではなくて、本当は心の正しい王様だということを、我々はちゃんとわかっていますよ、と、貴族の高官たちは誰一人として例外なく、マルティーノや経済学者らだけを悪者にして、善良なピエトロ国王は悪くないものとして扱うのでした。


 ピエトロ国王には、マルティーノを擁護することはできませんでした。「王様は騙されていただけですよね」という貴族たちの言葉の裏には、「まさかマルティーノをかばったり恩赦を与えたりするようなことはしないよね」という圧力が込められていることは、いくら鈍感なピエトロでもわかりました。面と向かってマルティーノを擁護して自分も悪人のうちに数え入れられてしまうのが怖かったのはもちろんのことですが、そういった舞踏会や夜会は大抵カテリーナ王妃の主催したものでしたので、そういう場で賓客と異論を交わして後でカテリーナ王妃に叱られるほうが、ピエトロ国王にはもっと恐ろしかったのでした。


 数日後、国王の執務室に、書類が回ってきました。マルティーノ元補佐官の、無期限の投獄を命ずる文書に、国王のサインが必要なのでした。ここまで外堀が埋まっていると、もうサインしないわけにはいきませんでした。


 ピエトロは、ペンにインクをつける手を止めて、瞑目しました。


 王子として王宮に入ってからこれまでの日々、常にそばでマルティーノ補佐官が支えてくれた日々を想いました。なぜ、どうしてこうなってしまったのだろう。ピエトロの目に涙が溢れました。しかし今となってはどうしようもありません。震える手で、国王ピエトロ・シモーネ・デル・マスカルポーネの名においてマルティーノ元補佐官の無期限の投獄を命ずる文書に、サインをしました。


 財政改革の事業は頓挫しました。中核にいたマルティーノが投獄され、協力していた学者らも公金横領の供与を受けていた疑いで職を追われていたので、もう改革どころではありませんでした。社交界では、改革の計画自体、悪人マルティーノの発案による悪だくみであるかのようにして、貴族たちの噂話の話題に上りました。


 結果、輸出入や先物取引は今まで通り、いや、今まで以上に活発に行われました。貴族や豪商は、はした金でカードのギャンブルに興ずるような軽い気持ちで投機的な取引に興じ、庶民の生活必需品の価格を乱高下させました。ピエトロ国王は心を痛めましたが、できることは何もありませんでした。舞踏会や夜会で貴族が投機で設けた話や身持ちを崩した話を聞いては、なるべく波風を立てないように曖昧に微笑むのでした。


 ピエトロ国王は、高官たちにとって都合のいい、無能で従順なお飾りになりました。貴族が国政に関与するのは今や簡単なことでした。舞踏会や夜会で、ピエトロ国王とカテリーナ王妃が一緒にいるところで、要望を口に出しさえすればいいのです。同席した他の貴族が賛同の意を表してくれれば、なおのこと結構でした。そういう場合、ピエトロ国王が、カテリーナ王妃のいる前では、うんと言わずにはおれないことを、みんなよく心得ていました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る