第28話 文筆業、人を雇う

「はい……はい、それは構いませんが……みどりさん、大丈夫ですか?……それならいいんですが……はい、今は手は空いているので大丈夫です。……はい、それでは」

 枝里子が電話を切ると、消されていたラジオが再びつけられる。

 家主とはまた別の人間が気を利かせた結果だ。このようなささやかな気遣いが、枝里子にはありがたかった。

「編集の、みどりさん?」

「はい、このまえエリーを逃がしたせいで、朧下さんが職場でかなりしぼられたみたいで、みどりさんが落ち込んでるんです」

そして伝えられた締め切りは、実際の締め切りよりも一週間遅い、という凡ミスをされたのだ。

 自分たちのせいでもあるけれど。ここで沈痛な表情を見せない。

「また飲み会を開いてもいいですね」

「はい」

 キッチンではトントンと野菜を刻む音。

 穏やかな古城の声は、枝里子の耳に穏やかに入ってくる。

 ただの文筆業と、フリーの人間。平穏な朝だった。

 そんなときに、チャイムが鳴った。

「誰でしょう、こんな朝から」

「……嫌な予感がする」

 枝里子はノートパソコンをスリープモードにする。対応しようとした古城を手で制した。

「はーい」

 インターフォンに応答すると、にこにことした顔が大写しになる。

「枝里子?かぼちゃの煮つけもってきたよ?」

「げ」

「……片岡さん?お知り合いですか?」

「エリー、水くれないか?水道使えなくて」

 薄紫長髪の主が、回復した顔色でのんびりと実体化する。どこかで調達した甚平をさっそうと着こなして。

 髪色をのぞけば、江戸時代の青年と言った体だ。こちらの世界に違和感なく溶け込んでいる。西瓜かアイスを持っていればもう完璧。

「それは水道の開栓をなんとかして。というかぶっちゃけあとにして、帰って」

 時間があれば絵になるポーズ(実写)を試したいけれど、現在そんな時間的余裕も精神的余裕もない。

「なんだよ、つめてえな」

「ごめん古城さん、ベランダから伝って自分の部屋、戻れる?」

「なんですか藪からぼうに、僕むりですよ、というかそんな修羅場が今から来るんですか!?」

 古城のつっこみもむなしく、鍵が開く。

 今日に限って、チェーンロックはかけていない。

「枝里子起きてる?来ちゃった」

「あー……」

「がちゃりとドアをあけたら、そこには愛娘の他に男の影が一人、性別不詳の方が一人……」

 仙人のような笑顔で、好々爺とした初老男性がお出ましだ。

「……枝里子?」

「お父さん、来るときは連絡入れてっていったよね?あと合鍵持ってるとはいえ勝手に入らないで?」

「抜き打ちじゃないとこういう現場おさえられないだろうが!お父さんはこういうことさせるために枝里子の一人暮らし許可したんじゃありません!!」

「三十路の娘に向かっていきなりなに言いだすのほんとに!っていうか誤解してるから認識を改めて!あとかぼちゃの煮つけが入ったタッパー振り回さないで!」

 振り回されたタッパーを紙一重でかわした古城からは、なんとかしてくれという懇願が発射されている。

「水滴飛び散るでしょ!」

「そっちですか!?」

「大体君はこんな時間からなんで娘の部屋にいるんだ。え?いったい君は!枝里子のなんなんだ!」

「片岡さんは、ぼ、ぼくの、こ――」

「こ――」

 こから始まる単語、恋人。

 きっとそれをコンマ一秒で連想したのだろう。

 タッパーが大きく振りかぶられた。

「雇用主で、ぼくは雇われ者です!」

 タッパーがぴたりととまる。

「……枝里子、いくら男っ気がないからってそういう仕事をさせるのは」

「ねえなんの想像してんの?家事労働者とその雇用主って関係なんだけど」

「……そこの長い髪の人は?」

「留学生でーす、エリーさんの家でショートステイしてまーす!」

「そうですか」

 納得するんだ。

 枝里子は父親からタッパーを回収すると、キッチンへと静かに置いた。


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