第16話 女子高生、逃走

「どうして……」

 ターゲットは倒れこむ。その心はなくなってしまっている。

 当の犯人は無表情だ。

「どうしてこんなことをするの!」

 忘れてしまうのだ。

 彼らにかかると、嫌なことを忘れるかわりに、記憶もぼんやりしてしまう。

 そんなことは、きっと間違っている。

 横暴だ。

「忘れたほうがいいことだって、あるでしょう?」

 言葉は穏やかにエリーを切り裂いている。後方には、きざな男性の姿があった。

 心なしか、仮面の下の表情は怒っているように見える。

 言葉につまった。

 忘れられるなら、コンピューターのように、完全に削除できたら。恥ずかしいことや消し去りたいことがない人間なんて、たぶんいない。

 エリーだって。

 できることならきれいさっぱり抹消したい過去の一つや二つを持っている。

 だけど人から無理やり消されるなんてことは。

「こんなことは……違うと思う!」

 一瞬部屋がしんとした。

 息を吸い込む音が聞こえた。

「ごめんね、エリーちゃん。ここで問答する時間はないみたいだ」

 足跡が近づいてくる。マントを翻し、月影は消える。

「待って……!」

 エリーの願いも虚しく、相手の態度は崩れなかった。

「……時間の無駄なので」

 サハラもストールを大きく広げ、一瞬で姿を消した。

 エリーが伸ばした手は、所在なさげに宙に浮いたままだった。

「……逃げよう、警察だ」

 拘束から解かれたシオンは、エリーに近づく。

 現実へ引き戻される。

 音が戻ってくる。

「月影、エリー!今日こそ捕まれ!」

 存在感のある声が近づいてきた。

 大方朧下だ。

「……うん」

 捕まるわけにはいかない。

 身体を奮い立たせて、窓ガラスを割り、夜へと溶ける。

 一体なにが正しいのか、正しくないのか。

 エリーにはわからない。


 黒衣をはためかせ、月影はあるマンションのベランダへと降り立った。

 鍵のかかっていない窓をがらがらと開け、フローリングの床に倒れこむ。

 足首だけがベランダに飛び出しており、覗き見る存在がいたとしたら、殺人現場を思わせるような状態だった。

「せめて足を入れて」

 見えない声に無言で従い、月影は膝を折り曲げる。次いで緩慢に腕を動かし、仮面をとった。

 靴は消え、服は変わり、ぐったりとした男性が現れる。

 開け放たれたままの窓は、姿を現したサハラによって閉められた。

「お疲れ、サクヤ」

「……お疲れ、ユイ」

「一体なにを悩んでいるの」

「……僕らの、手法」

 カヘンを回収するためとはいえ、心ごと奪う。

 それが許されるのか。

 聡明な公務員は、隠された問いを漏れなく読み取った。

 ストールがばさりと姿を現し、ついで魔法使いが現れる。

「無料で知らない間に憑いていた悪いものを回収するあげく、負の感情まで引き受けている。むしろこっちがお金をもらってやるべき案件だとは思わないかい?」

「それは……」

 商売人か経営者の思想だと、思う。

 だけど言えない。

「とにかく、ああもエリーとバッティングしたらこちらに支障が出る。次こそはあっちを踏み台にするよ」

「それは、しないと」

「だめだ。やらなきゃやられる」

「……」

「サクヤは、自分が負けてもいいのか?」

 負けることを自ら選ぶのは、自ら惨めな思いをするという選択をするのは。

「……いやだ」

「なら、言うとおりにしろ」

 夜が、更けていく。

 部屋の主は、寝返りを打ち、暗いままの天井を見上げ、目元を腕で覆った。


「エリー」

 ベッドに突っ伏した枝里子を、遠慮がちに窺うのはシオンだ。

「……ごめん」

「謝らなくていい。俺たちの、サハラの対策が不十分だった。俺の責任だ」

 おまえのせいだ、と言われなかったことには安心する。

 同じくらい、自分の責任を回避したことに安堵した自分を軽蔑する。 

 できたかもしれないことを、目の前でできなかったことは、つらいのだ。

「私は、どうしたらいい?」

「これはあくまで推測なのですが」

 サンゴは迷ったようだが、それも一瞬だった。

「月影とサハラは、思いのほかすぐ近くにいる気がします」

 枝里子はうつぶせに寝ころんでいたが、枕から顔をあげた。

「そうでないと、こちらの裏をかくような行動が立て続けにできるはずがない」

シオンが考え込んでいたのは数瞬だった。

「サンゴ、この部屋にも、防御魔法かけてくれるか?」

「ええ。ただ、時間をください」

「家電との兼ね合いが難しそうか?」

「まあ、多少の手間はかかりますが、できないことはありません。シオンには無理ですけどね」

「言ったな!もう手伝ってやんねー」

「あ、そのほうがいいです。防御魔法に不備が出ると大変なので」

「ってめ」

「ふふ」

 暗いところにうずくまっているのも、潮時かなと思う。

 枝里子は電気をつけた。

 本当に、本当に。

 彼らには、とても助けられている。

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