蒼空『アルフィード』の公爵・ニノ
なつき
彼女と雷
第1話黒き雷
その雷は誰よりも自由に蒼空を翔る。漆黒の輝きを一条、蒼空に残して、どんな鳥よりも軽やかに鮮やかに、遥かなる高みを目指して翔抜ける。
蒼穹を自在に翔びしその雷の名はーーライテイーー。
全ての海に航路を持つと云われた島国『エステリア』。そのエステリアでも、いや、世界でも一番最初に『空』に領地を持ち。風の精霊達と鳥人達、そして人間達との橋渡しをした功績から『遥かなる蒼空』の意味を持つ古代語を家名にした『アルフィード公爵家』、その初代当主である人間の少女『ニノ』。これはまだ、彼女が蒼き空の中を我が世界と決め、生きる直前のお話である。
亜麻色の髪を天使の翼みたいに広げた髪型に快晴の青空みたいな蒼い眸をした少女のニノは。太陽が昇るのと同じぐらいに早く布団から起きた。まだ弱い太陽の光が室内をぼんやりと照らす様を見ながら、傍に脱いでおいた薄手の長袖シャツを手に取ると。着込んで大きく伸びをする。身体を起こさないと水汲みにも行けないからだ。そして次に紺色の上等な作りのマントを羽織る。着込む際に荒んだ箇所や解れた箇所がないかどうかの確認は怠らない。だってこれは大事な物、先生からの贈り物だから。マントに傷一つ無い事を確認して、ニノはそぅっと木で出来た扉を開いて廊下に出た。この家は四十年前にとあるお金持ちの住んでいた家だったらしいが、先生が研究と実験の為に大金をはたいて買い取ったらしい。その為、二人暮らしにはあり得ない程に部屋数が多いが、殆どの部屋は資料室か実験室。または先生の昼寝用の部屋と応接間になっている。
その廊下をひっそりと軋みの音を立てながら、ニノは玄関へと向かう。途中に先生の部屋があるため、起こさないように足運びを変えて進む。もっとも先生は感が良いので、多分起こしてしまうだろうが……それでも配慮は大事だし、その配慮に気が付かないような鈍い先生でもない。先生の部屋に差し掛かったその時、一旦止まって中の気配に耳を澄ませる。まずは中に人が居るかどうかを確認する事を、ニノは心掛けている。尤も一番の原因は。先生の部屋にうっかり確認せず入ってしまい、着替え中の先生と出くわして赤面したのが理由だ。
(でも普通、赤面するのはご婦人の着替えに出くわした男性の方じゃないかなぁ……?)
ニノは眉根を寄せて唸る。先生は今年で二十才の男性で私はまだ十三才の少女。やっぱり逆な気がしてきたのだった。
まぁそんな事はさておいて、気配を探る限り誰も居ないみたいだ。あまり珍しくもない事だ。先生は夜更けに出ていく事は結構多い。大体が薬草摘みか木の実取り、もしくは夜を楽しみに散歩だろう。帰って来ていないなら、別に気を使わなくてもいいので足早に外に出る事にした。
玄関を開けば顔を覗かせた太陽の光芒が眸に飛び込んで眩ませる。ニノは小さな細い腕で顔を覆うと、光に慣れるまで眸を細める。今日は快晴、そろそろこの国も春を越えて初夏の気配が訪れてきている。やがて慣れると、戸口に置いてあった水桶を片手に井戸に向かって駆けて行く。草やぶを切り開いただけ、といった感じの道をニノはどんどん速度を増して走り。地面からほんの少し、跳ぶように駆ける。目指す井戸は街の外れ、ニノの住んでいる家とは反対方向にあるからあまり疲れる走り方は出来ない。かといって遅いと出来る事も出来なくなってしまうから、体力を気遣って走らないといけない。全力で物事に当たるのも大切だけど、余力を残すのは大事な事だと、先生もそう言ってたし。
でも、ニノは走る。誰よりも速く走る事、それはニノが心から好きな事だった。自分の大好きな事に力を使うのは気分がいい。それが全力全開ならなおさらいい。大草原に放たれた駿馬のように、鮮やかに、軽やかに、ニノは駆ける。
そうやって走り抜けていると、井戸に辿り着いていた。
「おはようございます!」
ニノは井戸の前にいた老婆に朝の挨拶をした。
「はい、おはようニノちゃん。今日も元気だねぇ」
何十年を人生の波で揉まれて漂白したような声音で老婆は答えてくれた。
「はい! 元気だけが取り柄です!! ……ところで今年は水が持ちそうですかね?」
迷い無く老婆の水汲みを手伝いながら、ニノは心配気に井戸を覗き込んだ。ここから見る限りは大丈夫そうだが……今年は雨が少なかったから、夏を越える時が心配なニノだった。
「そうじゃのう、街を支えられるだけ水が有るかは不安じゃ……」
「先生に相談してみましょうか?」
ニノはたっぷり水の入ったつるべ桶から水を老婆の桶に移してあげながら、提案してみた。
「元王室学士の『ルーティス』先生にかい? それならいい知恵を貸してもらえそうじゃ! よろしくお願いね、ニノちゃん」
「はい! 判りました!!」
元気良く返事をしたニノ。
「……ところで、ニノちゃん? 今度ルーティス先生にうちの孫に勉強を教えてはくれないか。それとなく、聞いてはくれんかのぅ?」
「多分……大丈夫だと思いますよ? 暇な時に行ってあげるように頼んでおきます!」
「そぉかい、それはありがたい……。孫にはいい知恵持って、王室か貴族のお抱えになって。裕福に生きてもらいたいもんじゃ」
「そうですよね……」
話ながら、ニノは自分の桶に水を入れる。
「そう言えばニノちゃん? ルーティス先生には良い人はおらんのかい? もしよければうちの孫娘などでも、のぅ」
「んー……なんか無理そうだけど……とにかく伝えてみますね? じゃあさようなら!」
ニノは老婆に手を振って、家に戻る。後二、三回は水汲みをしなければ。水が足りなくなる可能性がある。
ニノは水が並々入った桶を両手に持って、来た道を戻る。今は走らない、水がこぼれてしまうし、なによりも重すぎて走れないのもあるからだ。走り出したいのを必死に抑えてニノは道を行く。
「先生にお嫁さん、かぁ……。うーん、無理なんじゃないかなぁ……」
老婆との会話を思い出して、ニノはぽつりと呟く。聞かれていれば失礼極まりない科白だけれど、ニノは当然だと思った。
先生のルーティスは確かに王室学士の称号を持つ人で、学士だけれどこの街に来てからは農家の手伝いをこなしたり便利屋みたいな事をしていたり。時に知識を貸して、皆を助けたりしている街の誇りな人だ。
でも、でもだ。どうにも先生には想い人が居るのではないかと思う節が十二分にある。雨を眺めている時、木陰で天を仰ぐ時。遠くを見つめるその瞳は、誰かを待っている瞳だからだ。
(多分……その人に出逢う迄、ずっと独りじゃないかなぁ)
ニノにはそう感じられた。
かといって、ニノは先生の傍に居ようとは全く思わない。だって先生の心には、その誰かが居るんだし。何よりも、ニノには明らかに『引き取った生徒』として接しているのが良く解るし。
そうこう考えていれば家に着いたので。ニノは水を瓶に入れると、一息ついた。もう少し水を汲んで来て、瓶をいっぱいにしておく必要がある。二人で住んでいるので、水はそこそこあればいい。取り過ぎは皆が迷惑する。
「さて、と。もう一度行こっかな?」
大きく伸びをして、桶を片手に取ったその時。
青空に一筋、漆黒の亀裂が走る。
「……! 何アレ!?」
ニノは驚いて目を凝らした。亀裂は横一文字に蒼空を走ると、一旦高度を落として地面へと向かう。そして地面すれすれを超低空飛行をしながら、ニノの目の前で螺旋を描いて上昇し、空の彼方へと消え去った。
それから心持ち遅れて、耳を貫く轟音が辺りに響き渡る。
雷だ、アレ……! いつの間にかニノは。雷が消え去った方向へと駆け出していた。
あんな綺麗な黒い雷見た事無いよ! それに雷が自在に空を翔ぶなんて! 何、何なんだろう! ニノの心には恐怖心は一つも無かった。それよりも興味深いばかりだ! ニノは水汲みを忘れて雷を追いかけた。
その黒い雷を追いかけて、ニノは街中へとやって来ていた。さっきの雷はこちらの方へと翔び去ったはずだから、この場所で聞けば何かしらの手掛かりが得られるかも……! ニノはそう感じて、街中にいる人を探した。しかし早朝だからか、街はひっそりと静まりかえっている。
(……? 変なの? あんな雷が現れたのに、誰も出てこないなんて……?)
あれだけの荒々しい轟音を立てて翔び去った雷に気がつかないなんて。ニノは不思議でならない。それにいくら早朝だからって、水汲みをしている人達は起きていてもおかしくないのに……?
「ニノ、どうしたんだい?」
不意に、声がかかる。まるで聖域みたいな平原を渡るそよ風みたいな優しくて、だけどしっかりと力に満ちた声音だ。
そして、ニノはこの声に聞き覚えがあった。出会ってから五年間、ずっと聞き続けた声だから。
「ルーティス先生?」
振り返ったニノの眸に、光を織り込んだような白髪の青年が映る。中肉中背の、しっかりと力仕事もこなせそうな、それでいてしなやかな見た目の青年だ。
そして、闇色の綺麗な黒い瞳をしているのも特徴の一つだ。闇は本来、恐怖の対象となるのだけれど。彼のは違う。透き通った闇、とでも云うべき色合いだ。光を織り込んだような白髪が聖なる光なら、こちらは一点の曇りも無い聖なる闇……といえた。
「ルーティス先生! おはようございます!」
元気良く挨拶をするニノに、青年ルーティスは、
「おはよう、ニノ。物珍しい雷でも、追いかけていたのかい?」
と、尋ねた。
「えっ? 先生も見えたんですか?」
疑問を渡すニノに、ルーティスはあぁと頷いて蒼空を仰ぐ。
「あれはここ最近、この国に出るようになったものだ。詳しくは家で話してあげよう。ところでーー」
樽を三つ背負ったルーティスは、ニノを見て一言呟いた。
「今年は水不足になりそうらしいね、ニノ。何とかしなくてはね……」
もう見抜いていたらしい。ニノは相変わらず凄いなぁと感服した。
「後、帰って荷物を置いたら水汲みをしないとね? ニノ、雷を追いかけていてあまり汲んでいないんじゃないかな?」
「あ……ご、ごめんなさい……」
しおしおとうなだれるニノにルーティスはくすりと春先の日射しみたいな微笑みを浮かべて「反省して改めるなら、問題はないよ」と、付け足した。
「あの……先生?」
ニノは先を行くルーティスに追い付きながら、
「この樽……何なんですか?」
と尋ねた。
「これかい? これは昨晩港町で巻き上げたコショウと辛子ーー所謂香辛料の樽さ。今度行商人に売って差額を貰うのさ♪」
ご機嫌にウィンクしたルーティスに、そんな貴重品どこで手に入れたのだろうと、ニノは眉根を寄せる。そして、ふと。先程の言葉使いに気になる処を思い出した。
「先生……『巻き上げた』ってどういう事ですか?」
「あぁ、それはね……港町に行って海賊達とカードをやって掛け金代わりに『巻き上げた』のさ!」
……。
「あの……いいんですか? そんな事しても?」
ニノは疑わしげに、尋ねる。そんなニノにルーティスは、
「彼等は酔っ払っているからね、問題はないよ」
しれっと返したのだった。
「よく勝ちましたね?」
ニノは樽を眺めて疑問に思う。樽一つに香辛料が満載と考えると、三つ分だからかなりの財産だ。蔵でも建てれそうな勢いだった。いくら酔っ払っていたって……ここまで巻き上げられるとは考えにくいのだけど……?
「あぁ、イカサマをやって勝ったんだ」
またしてもしれっと返すルーティスに、ニノはあんぐりと大口を開ける。
「イカサマって……いいんですか?」
「ん、その代わり
なるほど、上手くカードゲームを楽しませつつお互いが欲しい物同士を交換できるようにイカサマを使ったらしい。多分先生の事だから、相手が勝ったように思わせたに違いなかった。とても先生らしいイカサマの使い方だなぁと、またしても感服するニノだった。
「ところで先生?」
「ん? なんだい?」
「その……
「あぁそれかい? 大丈夫だよ、ちゃんと効能はあるし、他の交易会社の社長にも教えてきた。とっても喜んでいたよ。……さて、帰ろうか。ニノ?」
ルーティスが歩き出したので、ニノも慌ててついていった。
ほんの五年程前、貧しい村に住んでいたニノは『口減らし』の為に奴隷商人に売られていたのを思い出した。それに関しては仕方ないと、今でも思っているし、親達を恨んでもいない。だって村は貧しかったのだ。私一人分だって……皆を圧迫する。ただ一つの不満は……もう少し高値を付けてくれたって良かったのにと思う事だ。だってあんな金貨十枚じゃ、家族が三ヶ月裕福に生きて終わりだからだ。まぁ、これでも破格な金額らしい。良かったと思わないと。
そんなある日、貴族達の競売に賭けられた私は。そこで先生ーールーティス・アブサラスト先生に出逢った。
貴族達が金額を吊り上げる中、先生はすっと手を挙げて「金貨三十億枚!!」と、叫んで金貨の入った袋を投げつけたのだ。これには皆が呆気にとられて、私は難なくルーティス先生の奴隷として落札された訳だ……。
しかし。
落札されたあの日から。私は一度たりとも奴隷扱いはされていない。どころか、無茶な仕事は何もさせられた事はない。毎朝の水汲みだって、あれは先生が楽しそうにやっているのを私がしてみたいと言ったから私の仕事にしてくれたのだし。繕い物も料理だって同じ理由だ。私は最初からーー多分、学士のーー候補生という扱いらしい。
「先生、朝ごはんは何にしますか?」
思い出の海から帰ってきた私、ニノは。ルーティス先生に問いかける。
「麦のおかゆでいいよ」
対するルーティスは。樽を見つめてふむと唸る。どうやら保存場所を考えているらしい。
「キャラバンの連中が来るのは後一月後だ……取り出しやすいところがいいだろうな」
かまどに薪を入れている間、ルーティスは保存場所をあれこれと思索していた。
「ところで先生?」
「ん、何だい?」
「あの黒い雷……何なんですか?」
火が少し弱いので、薪を入れて火力を上げながら。ニノは聞いた。
「あぁ、アレは『ライテイ』……と、便宜上呼ばれているんだよ」
「……? ライ……テ、イ。ですか?」
ニノはルーティスの方を振り向いて、疑問を渡した。ルーティスはニノをまっすぐ見つめて頷くと、
「あれは雷の中で生命体へと進化した個体だ。まっ……所謂新種の生き物というべき存在でね、古い魔術めいた言い方をすれば、『精霊』になるんだよ」
くすっと笑い、ニノの疑問をかき消してくれた。
「……でも、進化するものなんですか?」
でもそれはそれで、新たな疑問が沸き上がってくるわけだ。
それを聞いたルーティスはニノ……と、優しく諭すように、
「新しい生命というのはね、人間の形をしているだけじゃないんだよ。色んな形で産まれてくるものさ」
と、説いた。それを聞いたニノはなるほど、確かに猫とかイルカとかハヤブサとかいるもんね……と、納得した。
しかし……とルーティスが呻く。不安を覚えたニノが肩越しに見やれば、ルーティスは窓の外をーー遥か蒼穹を見据えている。どうしたのかと思うニノに、
「産まれてくる命は必ずある形をとっていてその形をとる限り、その形は必要とされている筈だ。あの黒い雷……どのような存在意味をもっているのかな?」
ルーティスは独りごちただけで、ニノには何も言わなかった。その真理そのものといった
黒い雷、ライテイ。言われてみればニノも疑問に感じた。雷の姿でわざわざ大空を翔びたがるなんて……。
ーーあ。
(……もしかして、『速さ』を極めたいからかな?)
速さを極めたいのなら、鳥や人間といった脆弱な身体を持つよりはこちらの方がマシだろう。何せ身体が『光』みたいなものだから、確か昔先生が『速さがあるもので、光が現在一番速い』って言ってたっけ? だとしたら、なるほど納得……といったところだ。
いいなぁ……とニノの心に羨望の灯が静かに灯る。だってあんなに速く翔べるのだから、さぞかし楽しい事だろう。
(でも、私みたいに地面を走れないだろうなぁ……)
それはそれで、ちょっと可哀想な気がしたニノだった。
「ところで先生?」
「どうしたのかい? ニノ?」
麦のおかゆを木の器に盛り付けて木の匙を差しながら、ニノはお願いした。
「あの黒い雷……ライテイの事を研究してみたいと思うのですが、よろしいですか?」
「いいよ、資料室で調べておいで。ついでにこれは新しい課題にしようか? ニノ、しっかりレポートをまとめるように。今度エステリア王室に提出するからね」
「えっ? よいのですか?」
驚くニノにルーティスは頷くと、
「誰かが研究しなければいけなかった事だしね、多分……どの学者もやりたがらないだろうし」
「……? どうしてですか?」
尋ねるニノに、ルーティスは苦笑した。
「だって恐いだろう? 大空を自由自在に翔ぶ雷なんて」
「あっ……そうですよね……」
確かに先生の言う通り、あんな生き物みたいに振る舞う黒い雷は誰だって恐怖を覚えるだろう。それならそれで、私が一番最初にあのライテイを知った人間になるのかな? そう思うと少しずつ、嬉しさが増してくる。
ニノ……と、ルーティスから呼びかけられたニノ。慌てて彼の方を向くと、ルーティスはまっすぐに自分の瞳を見つめていた。
「あの黒い雷を知るのには新たな知識と『力』がいるだろう。君はそれを手にする筈だ。だからこそ、気をつけるんだ。力を手にする時、力を使うときは。必ずどちらに力が向いているのかを、君の行く先の助けになるのかを、世界にどんな影響をもたらすのかを理解しておくのだよ?」
諭すように、ルーティスはしっとりと柔らかいが威厳のある声音でニノに教えた。ニノはごくりと唾を呑んで、話を聞き入っていた。いつもそうだ、ルーティスはこういった時は普通にお説教をするより声が響く。まるでそれは、心、いや、魂に刻み込むかのような声で。とても抗えない『力』を秘めている。
「さ、ニノ。ご飯にしようか? 早くしないとせっかくの麦粥が冷めてしまうよ」
ルーティスはにこっと笑顔で告げる。ニノがちらりと器を見ると、確かにそろそろ冷えてしまいそうな気がしてならない。ニノは慌てて彼の前に置いて、自分の分も盛り付けて、それぞれの祈りを捧げて食事にした。
「……水が鉄臭いね」
一口木のカップの水を飲んで、ルーティスは顔をしかめた。
「そういえば、そうですよね」
ニノも全くの同意件だ。ルーティスは心から嘆息した。
「……水の質が悪いのは堪えられないなぁ。何せ酒で浄化しなければいけないからね」
「先生って酒が苦手でしたもんね……」
「酒もそうだが、肉も苦手なんだよ……。船乗りにはなれないね」
沈痛な面持ちで、ルーティスはかぶりを振って「タカマが懐かしいな」……と、虚空に思いを馳せる。
タカマ、かぁ。ニノは上目遣いでルーティスを見る。タカマというのは東の海にあるとされるエステリアと同じ島国らしい。かつて冒険していたルーティス先生はその国を訪れて大層気に入ったらしい、……『水』を。
「やっぱり光と水だけはね、ごまかしが効かないんだよ……質に世界中の記録が溶け込んでいるからね……」
「そうなんですか?」
「そうなんだよ。……ニノ、お茶にしよう。一度沸かしたら大丈夫だろうからね」
「はーい」
ニノはそう返すと、やかんを暖炉の上に掛けにいったのだった。
朝食を終えたニノは片付けを終えてその足で資料室へと向かった。ライテイを調べる為の資料探しの作業だったのだけど、結果ははかばしくはない。それはそうだろう、アレはこの世界で『初めて』存在を確認した生命体なのだから。
(でももしかしたら……どこか魔術や錬金術か民間伝承のおとぎ話にそれらしいものがあるかも……?)
案外、そういった処にあったりするものである。思い立ったニノは魔術系統の資料を探して書架を廻る。もちろん、書籍だけでなく巻物系統も紐解いてみた。……でも、結果は芳しくはない。中々伝承が残っていないし玉石混淆ときたものだった。
これは読み解くにはかなりの労力を要するよね……と、ニノは肩をすくめた。
どうせだったらあのライテイと直接対話できればいいのにと、ニノは思う。でも……不可能な事の一つではある。だって向こうは雷でこちらは人間。種族は違うし、そもそも人間同士だってまともに話せたためしはないのだし。
(……? 何だろう? アレ?)
ふと資料室の奥の机、先生が書斎代わりに使っている机に何か置かれている。そっと近寄ってニノは手に取ってみた。
それはS字の片方を少々太くしたような形をしている物体だった。ニノの掌より小さいそれは。何に使われるのか用途不明だった。とにかく光に透かしてみたり、指先で撫でてみたりしてみたけれど。そんな調査で解る筈はなかった。
気になったニノは机の上に広げっぱなしの巻物に視線を這わせる。結構ぐちゃぐちゃに文字やら図形やらを書き込んだ物だ。先生にしては珍しい程の走り書きだらけで注釈まみれである。
その中の大きな図解にこの小さなS字があるのを見て、ニノはもしかするとこれの設計図ではないかな? と直感した。
「小型補聴……器?」
その上にエステリア語で、確かにそう書いてあった。
補聴器……補聴器? あぁ、補聴器かぁ~とニノは納得した。確かに補聴器はあったけど、こんなに小さな大きさの物はなかった。これなら持ち運びも楽だろうなと、ニノは感心した。
システムから言ったら、これは微弱な音を特殊な水で増幅して。骨と血液を通じて頭に音を届かせるシステムらしかった。
(よく作れたよね、こんな物……!)
改めて、先生の力を垣間見た瞬間だった。
特殊な水で増幅、か。何か気になるニノだった。この何かと見落としている『ナニカ』を混ぜ合わせれば、新しい『力』が現出してくる気がしてならないのだ。
ニノは唸る。そして書架の『光』にまつわる文献を紐解いた。
先生の言った通り、光の中に世界の記録が溶け込んでいる事を仄めかす記述が見つかった。古代にはそれと専用の道具を用いて遠く離れた相手とも話が出来たらしいのだが……。
そこじゃない。ニノはページを捲る。何か、何かを見つけられたら。この研究がもっと進むはずなのだ。
「……あ!」
しまったとニノは声を荒げた。なんという事だろう、肝心の処を見落としていた。
そうだ、相手は身体自体が『光』そのものなのだ。光自体に記録が溶け込んでいるのなら、あの『特殊な水』を用いる事で『対話』が出来るのではないかと!
「……と、なるとこの補聴器みたいな物が必要かな? こちらからの話を向こうに送る事は可能かな?」
ニノは唸ると、考え込んだ。何か良い知恵は無いものか。
「あの水……体内に入れても毒性は無いのかな?」
ぽつりと漏らした自分の言に、はっとした。そうだ、あの特殊な水を体内に取り入れて少しずつ身体があの水を生み出せるようにすれば。光の記録を読み解くのも可能なはずだ。
のみならず、共通の言語を見つけられたら。対話も可能になる。
よし、とニノは心の狙いを定めると。研究に取り組みだした。
蒼空『アルフィード』の公爵・ニノ なつき @225993
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