四日目 振り返る

 会社をサボれるような奴が、心を病んでしまうなんて思わなかった。


 我慢も努力も苦手だし、そういうのは私とは無縁むえんの話だ。

 上司も同僚も、パワハラしてくるような人なんて一人もいなかった。

 いなかったのに。


 最初はただ、残業での寝不足がたたっただけだと思っていた。

 他の同僚も私と同じ(あるいはそれ以上の)時間だけ働いているんだし、ちょっと寝不足でめまいがするくらい、どうとでもなるだろうって。


 でもどこかで、無理をしてしまっていたんだと思う。

 そんな気は全くなかったけれど。

 気付いた時には、もうどうしようもなかった。


 休日出勤をしようと、朝、ベッドから起き上がろうとして、私の世界が壊れている事に気付いた。

 目の前が回る。文字通り、ぐるぐると。

 遊園地のコーヒーカップを目一杯回した時みたいに、一気に世界が左に流れていった。


 気持ち悪くて、とても目を開けていられない。

 すぐにベッドに横になり、目を閉じて、その感覚が過ぎ去るのをひたすら待った。

 その間、私の頭はパニック状態だった。


 なんだこれ!? 頭の病気!? 脳の血管がどうにかなっちゃったの!?


 何度も起き上がろうとしたけど、その度に世界が回る。

 気持ち悪くて、怖くて、仕方なかった。


 しばらくして、震えながら会社に休みの連絡を入れて、病院に行った。

 耳鼻咽喉じびいんこう科。

 目を開けられるようになってから、精一杯この症状に合うものを探して、可能性が高いのがこの科だった。

 心療内科に行こうという選択肢は、なかった。


「原因不明ですね」


 先生から言われたのはこの言葉。


「最近、仕事とかで無理したりしてませんか?」

「……少し、寝不足気味で」

「あぁ、それの可能性はありますね」


 先生の言葉は、またか、みたいなニュアンスを含んでいるような気がした。


 先生、病名は?

 病名を教えてください。

 薬とか治療で治る病名。

 その結果じゃ、困るんです。


 帰り道、安堵あんどと絶望で涙が出た。


 休日明けに上司に診断結果を報告すると、いたわるような笑顔を向けられた。


「無理しなくていいから。出勤出来る時だけ来てください」


 上司はいい人なのだ。

 優しすぎるくらいの人だった。

 お客さんにも頭が上がらないくらい。

 心を病んでしまわないか心配になるくらい、いい人。

 ごめんな、と謝られてしまった。


 違うんです。

 あなたのせいじゃないですよ。


 そこから出勤できる日が減って、会社まで行っても私だけ定時で帰ったり、早退してしまう事が増えた。


 誰も私を責めなかった。

 私以上に働かされている後輩にだって、責められなかった。


「俺も帰りたいっす」


 そう言われたのも、彼のただの願望だった。

 本当に、ぎりぎりまで働いて、少しだけこぼしたただの弱音。

 当たり前だろう。彼の方が帰りたいに違いない。

 私以上に働いているのは、彼だ。


 心を病んでしまう人は、働きすぎて頭がおかしくなってしまうとか、過度なパワハラのせいなんだろうと思ってた。


 でも、そうじゃなかった。

 誰も私を責めなかった。

 皆が私の身体を心配してくれて、無理しなくていいよと言ってくれた。

 でも、一人だけ。

 そんな私を許さない人間がいた。


 情けないな、おまえ。


 そう途端、全部がダメになってしまった。


 誰も、私を責めたりしなかった。

 敵なんて、どこにもいなかった。

 敵は私だ。

 私だけが、敵になってしまった。






めな。会社はここだけじゃないんだから」


 休憩室で、大内おおちに言われた。

 また、腹から何かがせり上がってくる。

 最近やけに、私の身体は私の言う事をきいてはくれない。

 また呆気あっけなく、崩壊してしまった。


 ごめん、大内。

 大内のせいじゃないんだよ。


「今週中ね、退職届。絶対」


 彼女は私に引導いんどうを渡してくれただけ。

 諦めつかずにぐずぐずしてる私に、優しくトドメを刺してくれただけ。


 私はその最終通告を、神妙に受け入れた。


 情けなくてごめんね、大内。

 ありがとう。

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