四日目 違うんです。

 北鎌倉駅は、鎌倉駅の一つ前の駅だ。

 大きな駅舎があり、すぐそばに商店街や広い道路のある鎌倉と比べ、北鎌倉はおもむきが異なる。

 それは、電車を一歩下りた瞬間から分かった。


 まず、ホームがせまい。

 無人駅である。

 間違ってそのまま素通りしてしまいそうな影の薄い改札を抜けると、目の前には民家と山が広がっている。


 人々は駅を出ると、目の前にある円覚寺えんかくじへと雪崩なだれ込んで行くか、あるいはこじんまりとしたギャラリーや甘味処を見ながら、線路沿いに右手の道を進んでいくのがほとんどだ。


 私はその波からは外れ、線路の向こう側へと渡っていく。

 途中、立ち止まって木々の間へと吸い込まれていく線路を見てみると、遠くに陽炎かげろうが揺れているのが見えた。


 今日も暑いです。


 こんな炎天下の中を歩き回っては、また熱中症になりかねない。

 今日の目的地は近い事を祈るばかりである。

 しかし那雲なぐもさんの事だ。それは期待出来ないだろう。

 再度気合いを入れ直し、駅前の自販機で飲み物を調達してから本格的に……。


東慶寺とうけいじ


 私は目の前にある石碑の文字を読み上げた。

 予想外である。

 駅からわずか徒歩二分。まさか本当にだとは。

 ……疑ってごめんなさい。


 東慶寺の境内けいだいは、なかなかに広かった。

 いくつものお堂や宝物殿なんかがあったけど、特に素晴らしかったのは墓苑ぼえんだ。

 切り立った崖。苔生こけむした道。どこもかしこも目に優しい緑で覆われている。

 自然に生えたわらびを、私は初めて見た。


 墓苑は森の中にあるから、陽の光がさえぎられていて涼しかった。

 たまに太陽が差し込んで、後光が射しているお墓なんかもある。

 大層偉い人が眠っているのではないかと名前を確認したら、「加藤」と書いてあった。

 ……名前に罪はない。


 キャッキャッ


 急に聞こえた奇声に、私は辺りを見回した。

 まさか、鎌倉にはサルがいるのか!?

 

 ……いや。

 動物は木の上を素早く通り過ぎていってしまい、全容は見えなかったけど、あれは……。


 …………いや。

 そうすると、あの饅頭まんじゅうの正体の説明がつかなくなる。


 キャッキャッ


 その動物は、私をあざ笑うように木の上で鳴き続けた。

 認めないぞ、私は。

 あの絵の正体があれなんて。


「リスだったのか……」


 断固認めない。






 浄智寺じょうちじへも、東慶寺から徒歩六分の位置にあった。

 那雲さん、なんでもっと早くにここをすすめてくれなかったの?

 ぶつぶつと文句を言いつつ、私は角が取れて不安定な石段を上っていく。


 那雲さんいわく、ここの布袋ほてい様を見ると元気がもらえるらしい。

 階段を上っていると、簡単に汗がにじんできた。

 若干息を切らしつつ、私は布袋様の像が置かれているらしいほこらの中に踏み入る。


 そしてひざから崩れ落ちた。

 さすがにこれはないだろう。思わず笑ってしまった。

 せっかくなので、でっぷりとした腹をでておく。


 もう一度、ご尊顔そんがんおがんだ。

 何とも楽しそうなものだ。こんないい笑顔の仏像が他にあるだろうか。

 あるいは、これまで那雲さんに振り回されてきた私をあざ笑っているようにも見えた。

 指をさすな、指を。





 ********





「元気が出たでしょう?」

「それと同時に、ちょっと腹が立ちました」


 私は半笑いでそう答えた。


 途中、鎌倉駅に寄って買った「まめや」の乾燥納豆をリュックから取り出す。

 前に食べてから気に入ってしまい、鎌倉に来るたびに土産として買って帰っているのだ。

 那雲さんにもお裾分すそわけとして一袋プレゼントすると、それはもう、大層喜んでくれた。

 成人男性が飛んで喜ぶのを、私は初めて見た。


「お茶を用意しますね!」


 そう言って、嬉しそうに去って行く。

 本当に気の利く神様である。ありがたや、ありがたや。


 一足先に乾燥納豆の袋を開いた。

 むわりと立ち込めるこの匂いがたまらない。ザ・日本の心。イケメンの前で食べる食べ物としてはオススメしないが。

 いいのだ、那雲さんは。ハゲだから。

 納豆を口に放り込み、ポリポリと噛み締めた。


 首筋を、涼しい風が撫でていく。この風は海からくるんだろうか。

 私は境内けいだいを見回した。

 葉擦はずれの音がする。静かな場所だ。

 鎌倉の時間の流れはゆっくりだが、ここは特にゆっくりな気がした。

 浮世離れした那雲さんがいるからだろうか。


 ふいに、ご神木からぽとりと小さな木の実が降ってきた。

 それに合わせて視線を落とすと、足元に白いナデシコの花が咲いているのに気づく。


 珍しい色だな。


 私は、ただそれを見ていた。

 わしゃわしゃとした花弁は、ひどい寝癖ねぐせのようにあちらこちらへとはねている。

 片足を上げ、それを踏みつぶした。


「踏んでしまっては、可哀想かわいそうですよ」


 ざくりと、その言葉が胸に刺さる。

 人は本当に驚いた時、本当に刺されたみたいに胸が痛いのだと気付いた。

 顔を上げると、盆と湯飲みを持った那雲さんがいる。


「あぁ、本当だ……!」


 慌てて足を退けた。滑稽こっけいなほど、白々しかった。

 那雲さんは私が座っているベンチに盆を置くと、足元にかがみ込んでその花をいたわっている。

 くてんと折れたくきを持ち上げ、もう一度ゆっくりと地面に戻した。


「せっかくキレイに咲いているのに、勿体もったいないですよ」

「すみません、私、気付かなくて……!」


 白々しい。白々しすぎる。

 見上げてくる那雲さんの目も、そう言っているような気がした。


「もう少し、足元の花をでてみませんか?」

「……はぁ」


 そんな事より、どうすればさっきの嘘がもっともらしくなるだろうかと、そんな事ばかりを考えてしまう。

 那雲さんに、今の私はどう見えているだろうか?

 健気けなげに咲くいたいけな花を踏みつぶす、極悪非道な人間だろうか。

 何故だか、那雲さんにそんな風に思われるのは我慢ならなかった。

 次に言う言葉が、なんだったら信じてもらえるだろう?

 何が適切だろうか?

 がっかりされないようにするには、どうすれば?


「……そんな時間、なくないですか?」


 違う。

 それは正解じゃない気がする。

 でも、もう口から出てしまった。

 もうこれで行くしかないのだ。

 ええい、ままよ!


「足元の花とか、見てるひまなくないですか? 他にもっとやらなきゃいけない事、たくさん、あるじゃないですか」


 会社をサボっている奴が何を言っているのだろう。

 今思ったが、こんな平日の昼間に何度も鎌倉に通う私を、那雲さんはニートか何かだと思ってるんじゃないだろうか。


「人生は、やらなきゃいけない事ばかりを、やらなきゃいけない訳ではないですよ」


 那雲さんは、いつもの調子でそう言った。

 菩薩ぼさつのような笑みを浮かべて、熱波の日に吹いてくれた風みたいに。


 ドクドクと脈打っていた鼓動が、どんどんゆっくりになっていくのを感じた。

 それが収まると、今度は腹から何かがせり上がってくる。

 必死で止めようとしたのに、ダメだった。

 呆気あっけなく、崩壊してしまう。


「……まことさん?」

「違うんです……!」


 しゃがれた声が出た。

 これではもう、言い訳のしようもないじゃないか。


「ごめんなさい、私……!」


 何度もほおぬぐうのに、腹からせり上がってくる何かは尽きようとしない。

 ええい、まだ出るか!


「違うんです……!」


 那雲さんが、呆然ぼうぜんと私を見上げている。

 違うんです、那雲さん。

 あなたのせいじゃないんです。

 それを説明したいだけなのに。

 えぇい、止まれ! 止まれ!!


「……違うんです!」


 こんなのは、私じゃない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る