第6話
丘を下っていく。
停めたはずの車が消えて、登ってきたはずの道が閉鎖されていた。しょうがないので、横路から港町の住宅街に抜け出て、家々に挟まれ入り組む細い路地を下っていく。誰も話さない。無言。滲む汗。家屋の開け放たれた窓からテレビの音が遠く聞こえる。まるでいつか聞いた記憶のように。だけど人の気配がない。ただひたすらに下り坂を降りていく。
野放しの夢が弾ける。抱える闇が大きすぎて、それすら傲慢な防衛、いつかは永遠の未来、会えてしまったその瞳、唇、溢す言葉、拾う指先、光を取り戻す、世界。奇跡は有り余る幸福とともに。走馬灯のように駆け巡る情景。最高でサイコな夜、背中の羽はしまって今夜、滑らかなグラスの肌。トルネード海へと昇る。地平線を見よ、地球の丸いお腹が横たわっている。言葉を取り戻したくてかりそめの愛を求めて、聞き慣れた轟音をうねらせる、快楽に歪んだ顔、頬を撫でる手のひらの温もり。荒涼とした沈んだ町に紛れて、横目ですれ違う自分と自分、帰りのバスは向こう、こちらは海だけ、こちらは海だけ。
「どこに行くの? 大丈夫?」
子どもの声にはっとして顔を上げると、目の前に少年がぽつんと立っていた。
「その子、具合悪いの?」
少年は瀬戸口が背負っているきららの体が気になるようで、首を傾げながら聞いてくる。
「ああ、こんにちは、大丈夫だよ。この子は、眠っているだけだ。少し道に迷ってしまって。バス停知ってる?」
「バス停はあっちにあるけど、もうバスがないよ」
地元の子だったようで、宿がある場所を教えてもらい向かう。運良く二部屋空いている民宿に入れた。宿の主人はウルリカを見て、ペットは禁止なんだがとぼやいたが、警察手帳を見てしぶしぶ頷いた。
部屋の窓からは、閉めていても絶え間ない波の音が聞こえた。ソファーにきららの体をそっと寝かせる。ぴくりとも動かないそれは、紛れもなく空っぽの人形だ。だけど弾丸受けて傷ついた背中を見ると、心が痛む。いつもの饒舌な声が聞こえない一人の部屋は妙に白々しく、瀬戸口は暗澹たる気持ちになっていた。
大丈夫、これぐらいで本体は壊れないはず。何度もそう言い聞かせていることに気づいてはっとする。蓄積されたただのデータだ、何を不安がっているのか。いつだって自分が一人であったことを今更思い出したのか? 馬鹿らしい。
瀬戸口はシャワーを浴びて雑念と不安を流そうとした。
ベッドに潜り眠りにつく。どっと疲れが押し寄せ、身体が重だるい。引きずられるような妙にしつこい眠気に、意識が沈められ落ちていく。
張り付くような視線。それは数多の群衆の目だ。言いたいだけ。言いたいだけ。聞きたくなんてない。言いたくない。言いたくない。嫌われるのは嫌だよ。渦巻く悪意の中で、ひとつはっきりとした声が聞こえた。
哀れな子よ、身を任せてしまいなさい。
「おまえはあいつじゃないだろ」
瀬戸口は金縛りのような眠りを振り払い、目を見開いた。まだ夜の浅瀬。上がった息を整える。まとわりつく気配はまだ部屋中に充満している。ふらふらと立ち上がり、水を飲んだ。
ソファーに目をやりため息を吐く。きららが持ってきたリュックをごそごそと開けて、例のぬいぐるみを取り出しテーブルに置いた。見慣れたつぶらな瞳を見ていると安堵を覚える。同時に冷静になってきた頭が現状を認識して、呆れたように笑ってしまう。なんて無様だろうな、帰ってきたら笑って慰めてくれ。
瀬戸口は深く息を吐ききり、自分の荷物から箱を取り出した。道具を色々ベッドの上に広げ、小さなケースに入ったペンデュラムを取り出す。細い鎖に繋がった白いクリスタルが、窓の微細な月光を反射させ輝く。そんなに見張るなら、おまえらの居場所を突き止めてやる。こっちはさっさと解決してこいつを直してやらないといけないんだから。
深呼吸して、心を静め、問う。瀬戸口の手の下で、クリスタルがゆらりと振れ始めた。
寝静まった夜の町、ダウンジングが示す方角を辿り歩いた。石ははっきりとその行先を示している。やはりよほど強い魔術。町はずれの朽ちかけた古い建物の前で、ペンデュラムの動きは止まった。よくよく見ると土産屋らしき看板が掲げられている。閉ざされた門の奥からびりびりと、先程と同じ、いやそれより強力な気配を感じる。瀬戸口は悪寒が止まらなかった。不意に背後から視線を感じ振り向くと、暗い空に大きな満月が煌々と輝いていた。
知っているよ、全部。
脳内で直に囁く声が、安易に支配してこようとする。持ってきた護身用のナイフを握りしめ、闇夜の空に突き立てた。
翌日、瀬戸口は顔面にもふもふとした毛並みを感じて目を覚ました。
「おはようございます! ただいま帰りました」
動かせないはずのぬいぐるみの表情がいきいきと歓喜に満ちている。瀬戸口は思わず緩みそうになる口元にぎゅっと力を入れていつも通りの笑いを作った。
「おかえり、きらら。無事でよかった」
「それはこちらのセリフです。どこも怪我してませんか」
大丈夫だという言葉も聞かず、きららは点検でもするように瀬戸口の身体の上をごそごそと動いた。それをたしなめるように、何でもない顔をして丸い身体を撫でた。
「……ごめんな」
ソファーに横たわる体に目をやり、小さく呟く。きららは驚くほどあっけらかんとした声色で、何も問題はないと笑った。
「それで、ここに犯人もしくはその手掛かりがあるのね」
ぺルラが訝しそうに目前の土産屋を睨んでいる。白昼でも溢れんばかりの禍々しさだが、こういった感受性は個人差があるようだった。瀬戸口はここ数日でそれを自覚していた。果たしてもともとの素質だったか、それとも何かに誘導されているのか。理性で紐解き理解する立場のはずが一体何故こんなに、手に取るように見えない流れを感じるのか。
「ああ、恐らく」
店内は所狭しと様々な商品が置かれ猥雑としており、一人ずつ歩くのがやっとだった。店内のどこかで焚かれているのだろう、お香のような匂いが充満している。煙を吸い込んでしまい、くらくらと酔いそうになった。
褪せた色の民族衣装、模様が織り込まれた絨毯、削った鉱石がじゃらじゃらと連なる装飾品、用途のわからない道具その他。奥は壁一面の本棚になっており、魔術全般の書籍が並んでいる。壁と同化したかのような色味のお婆さんが、いらっしゃいとしゃがれた声で言った。
入り組む店内を彷徨う。かばんの中から顔を覗かせて、きららが様子を窺っている。瀬戸口は導かれるようにある一角に向かって足を進めた。そこにはいくつもの人形が並べられていた。数多の瞳、視線に囲まれる。その中でも一番強い目を持つのは、目立たない片隅に置かれた少年の姿をした人形。青い瞳は底なしの海のようで、目を合わし続ければ吸い込まれてしまいそうだ。
「形を与えれば宿る命」
しゃがれた声の店主がいつの間にかそばにいてそう囁いた。満月の声だ。そう思ったのも束の間、続けて話す店主の言葉から満月は消えた。
ぺルラがその人形を買い取り、宿に帰って調べる。施されていた術式は案の定えげつないもので、人形の内側には特有の文字や陣が全身に刻まれ、心臓に当たる部分からは長い髪や爪が出てきた。それらは全て、あの歌の魔術を侵し変え、人々の悪意を唆して集めるためのもの。そしてこの塔を見張るための。
「犯人に心当たり、あるんでしょ」
ばらした人形を見下ろし思案している瀬戸口を覗き込んで、ぺルラが言う。
「ないよ、本当に……こんなことする人じゃない」
「まずはその人とやらについて教えてもらおうかしら」
瀬戸口は口が滑ったと舌打ちし、ごまかそうと顔を上げぺルラに向き合う。そして到底言い逃れられないことを瞬時に悟った。
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