第2話

 丸く縁取られた青い空。


 建物に囲まれた円形の広場に人が集まっていた。皆、お互い関与せず、ぼんやりと虚空を見つめて耳を澄ましている。頭の中、直に聞こえる、ここにいないあなたの声。


 瀬戸口は壁にもたれ掛かり、離れてその様子を見ている。この広場で数日前から不思議な現象が起きていると聞いて、様子を見にきた。煙草に火をつけ、しばらく群衆の素振りを眺める。煙越しの人々の表情はそれぞれ違いがあるものの、恍惚としている。それはあの絵を見た人々のそれと似かよっていた。


 不意に視線を落とすと重なる足元の間からキラキラとした光が目に入り、思わず身を乗り出し目を凝らす。

 グラスだ。あの夜に彼女が持っていた淡い青色のグラス。弾けるスパークリングワインの舌触りが甦る。

 唾をごくりと飲み込み、人だかりに近づいた。


 足を踏み入れた、その瞬間。ばらばらの方角を向いていた群衆が揃ってゆっくり振り向き、瀬戸口の方を見た。だが、その目の焦点は合っていない。


「みつけた」「みつけた」「声だけ聞こえる」「どこから呼んでいるの」「みつけた」「穴だ」「そこが入り口だ」


 そう口々に呟き、ゆっくりとした、だけど確実な動きで、わらわらと瀬戸口に近寄ってくる様子は異様であった。舌打ちをして後ずさる。雑踏の奥で、誰かの足がグラスを蹴ったのが見えた。


 不意に鳴り響いた警笛と犬の吠える声が広場の空気を割った。続いて入ってくる警官の顔も見ず、我に返り呆然としている人々の間を掻い潜り、瀬戸口は群衆の円を崩しながら駆け寄る。しゃがんでそれを手にすると、ぼろぼろと崩れてしまった。まるで夢の中の出来事のように感じて、ぐらりと重心がよろめく。遠目で見た時、グラスはいかにもあの夜の姿のまま置いてあった。手に取ったそれは、今蹴られたからというよりはもともと朽ちかけていたかのように色が濁り陰って表面の肌はざらざらとしている。


 持っていた白い布を取り出し、崩れた欠片を拾い集めてそっと包んだ。立ち上がり周りを見渡すと、正気に戻った人々が数人の警官にそれぞれ事情を聞かれていた。その中の一人がこちらに気づき、姿勢の良い歩調で向かってくる。

「今、何か隠しましたか?」

「何も」

「あなたも幻聴を?」

「いえ」

 警官の足元には、立派な毛並みのゴールデンレトリバーが聡明そうな顔をして従っている。警官はベリーショートで大きな瞳を露に釣り上げ、ただ冷静な顔を崩さず問う。その緊張感と不審がっている様子は、平静を装っても傍らの毛深い相棒にびしびしと伝わっているようで、こちらが答えるたびになんだったら噛んでやろうといった目付きで瀬戸口を睨んだ。


 受け答えを交わすほど怪しまれそうだと思って、たまたまここを横切って騒ぎに巻き込まれただけだと言い、その場を離れようとする。

「それなら、その包みを渡してからにして」

 瀬戸口は立ち止まり、ため息を吐いて頭を掻いた。

「これは関係ないと思う」

「それは私達が判断することよ」

 渋々、といった様子で名刺を差し出す。もう今にも噛みつかれそうだ。

「魔術対策ラボ……、こういうのに詳しいってことね。でも今回の騒ぎで捜査協力を依頼したとは聞いてないわ」

 警官は名刺を一瞥し、作り笑顔でそう言った。

「依頼した覚えはないのに現場を荒らすやつがいるって噂は本当だったのね」

「なんのことだか」

 瀬戸口はとぼけて上空を見やった。ちょうどその時、一番背の高い建物の窓からこちらに向かって反射する人工的な光に気づく。それはまるでこちらに照準を合わせるみたいに、ちらちらと揺れ動いていた。はっとしてその建物に向かって走り出し、中へ入って階段を駆け上がった。後ろから待ちなさい!と怒号と咆哮が聞こえる。息を切らし最上階に辿り着く。広場に面した部屋のドアを、一息呼吸を整えてから開けた。誰がいると思ったのだろう。誰に会えると。


 部屋は空っぽで薄暗く、大きな窓が開け放たれていた。窓のあたりだけ陽光が差し込み明るい。


 窓辺に近づく。床に丸い不思議な色をした石が転がっていた。拾い上げると、ころんと手のひらに馴染んだ。光を反射して、青色にも紫色にも見える。虹色のグラデーションが水面の煌めきのように変化する。


 瀬戸口は窓の外を見下ろした。広場に点在する光に気づいて、手中の石ころと見比べる。不意に、ふわりと花のような匂いがした。気品のある芳香はグラスと同じく覚えのあるもので、嗅いだ途端に鼻腔から脳髄まで満ちて全身に甘い痺れをもたらした。これもまた自分だけが感じているのか? そうやって、記憶だけを残していくのか。


 後から先程の警官が物騒なことに銃を構えて入ってきた。警察犬は部屋に入ると立ち止まり、鼻をクンクンと動かしている。

「何か、花みたいな匂いが……」

 部屋中を確認すると銃を下ろし、警官は窓辺へ来る。

「俺が円を崩したみたい」

 瀬戸口は広場を指差した。広場にはいくつもの石が置かれていた。それは二重の円形を描いている。恐らく人はその円形の中で幻聴に惑わされた。グラスが置かれていたのは円が重なるところ。理由はわからないが、瀬戸口が円に入ったことによって魔術の円陣がエラーを起こした。知らぬうちに石を蹴ってしまったのだろうか。

「それ、同じじゃない?」

 なるほどねと広場を見下ろしていた警官が、瀬戸口の方を向き直って言った。

「そうなんだ。この部屋に落ちていたこいつと広場の石、一見同じような光り方をしている。調べてみないと詳しくはわからないけど、同じ鉱石か何かだと思う。素材なんか調べるのはうちのラボの専門だ、警察内のそれらより早くて正確な分析ができると自負する」

 だからあれとこれを持って帰る許可をくれ、と言わんばかりに捲し立てた。警官は眉ひとつ動かさずあがなえない早さで瀬戸口から石を引ったくると、反射する石の光をまじまじと見た。それから瀬戸口の顔、というより耳のあたりをじっと見る。

「そのピアス、同じように光ってる」

 瀬戸口は虚をつかれ、自分の耳に恐る恐る触れた。

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