氷山の旗
柚峰
第1話
ばらまかれた君の痕跡を辿る。
人間が時間の中で生きていないとしたら、あの刹那に交わした愛だけが真実であった。誰よりも深くわかり合った視線と、馴染む肌の温度が、ふとした瞬間いつでも思い出せる。思い出す、というのは間違いかもしれない。いつでもそこへ戻れる。
それは永遠をともに見た証。窮屈で辟易する日常から抜け出した一時の夢。まるで宝石の中に閉じ込めた光のように、いつまでも朽ちない輝き。
地下に充満する乱雑な照明と音響を背景に、一等輝いていた君。艶やかな黒い髪と瞳がこちらに向かって微笑む。場違いなほどその光は純粋で強い。
声をかけた。それは促されていた。外へ誘った。それも導かれていた。まるでどこかいつもと違う世界の先に行けるような錯覚に、目眩を覚えた。
君を通して色彩を取り戻した世界は、些細なことすらいとおしく幸福に満ちていた。この時間が永遠に続けばいいのにと、柄でもないことを思った。
「でも、いつかは覚めてしまうでしょう」
そうやって賢い瞳はゆっくり瞬く。
「いつまでも秘密を羽織っていてくれ」
慈しむように頬を撫でる。お互いの居場所や名前すら邪魔だと思った。
「それが、あなたの望みなら」
彼女との記憶の最後、そしてあの幸福な時間を象徴する慈悲深い笑み。ほかの誰にもわからないはずのその情景が、目の前の絵画にでかでかと描かれていた。
瀬戸口は半ば呆然としてその絵を見上げている。思い出したように細く息を吐くと、今ここが日本の地下にあるクラブではなくイギリスの美術館であることを身体があらゆる感覚を総動員駆使して再認識した。ざわざわと人混みの息づかい。コートのままだからじっとり暑く感じる空調。壁にかけられた大小さまざまの絵画。今さっきのことのように感じるあの夜から一年たっている。機械ならばバグを起こして倒れそうだ。現実を取り戻した目で、もう一度絵を見た。やはり記憶の君が描かれている。視線を絵の横にある小さなプレートに移して、作者を確認した。
〈マーシャル・モーガン〉
巷で広まっていた噂は知っていた。
見る人によって姿を変える絵。
むしろそういった話を聞き捨てられない瀬戸口は、揚々とこの場所に来たのだ。こんな情緒を揺さぶられるとは思っていなかったが。他の来場者も皆、あの絵に吸い寄せられるように近づき、各自思い思いの絵を見ているようで、感嘆の声など漏らしている。あの記憶が他の人間に見られているわけではないとわかって、安堵した。何にしても作品とは観客の中で完成するとはよく言われるものの、これはやりすぎだろう。思わず口元が緩み、笑いが溢れる。
存命の画家かどうかわからないが、この絵に仕込まれた魔術はあとから加えられたものではないか。もしくはもともとこういった性質があった絵に、更なるからくりをかけて、相乗効果を狙った。
「期待以上だよ」
ぽつりと呟く。
○
「泣き方変えた?」
「最低!」
彼女はそう叫んで部屋を出ていった。美術館から帰ってきたばかりの、まだ暖房も効き始めていない冷たい部屋がよりいっそう寒々しくなるようだった。瀬戸口は重たい腰を上げて、お湯を沸かしに小さなキッチンに向かう。
久しぶりのデートなのに終始絵に夢中で上の空だとか何とかそういった文句から始まり、見過ごされていたらしい今までの愚痴および罵詈雑言を浴びせられる。私がプレゼントしたピアス、一度もつけてくれなかったね。そう溢す彼女の潤む瞳に演技じみた感情を見出だしてしまう。人間の反応には際限なんてないはずなのに、いつのまにやらお決まりの台詞にありきたりな関係。ある程度積み重なったジェンガ、妥協できないところを交互に抜いていく。危ういバランスのままそびえ立っている様を見ていると、一思いに崩したい衝動に駆られる。
という思考の結果発した言葉は予想通りに相手を傷つけこの中途半端な関係性に終止符を打った。新たに始めることができるであろう彼女の物語と未来が光に祝福されることを祈る。
カップにお湯を注ぎ、珈琲を淹れる。テーブルに出していたもうひとつのカップを食器棚にしまった。窓辺にある机のパソコンのスイッチを入れる。聞き慣れた機械音が暖まってきた部屋に響いた。
『またですか? 懲りないですね。もう少し丁寧に人間関係を育むことをおすすめします』
画面上に現れたアイコンが呆れたような口調で話始める。
「プライベートにまで口を挟むなよ、きらら。ていうかスマホと連動切ったのにどこで音声拾ってんの」
『照明などでしょうか。口を挟んでほしいから電源を入れたのでは?』
瀬戸口は天井を見上げ、ため息を吐いた。
「あとで切っとかないと」
『家電システムログオン、パスワード変更、セキュリティ強化設定完了』
「あああ! AIの反乱だ!」
『私の使命はあなたおよびそれに付随する色々を守ることです。結果守れていればいいのですから、私の行動範囲をこれ以上狭めることは許されない。なお私の行動はあなたが読み飛ばして同意した利用規約に基づいています』
「こわいこわい、もうゆるされないとか言っちゃうんだから」
瀬戸口は棚から酒の瓶を出しながら言った。
『そういう気分の時に飲酒はおすすめしません』
「一緒に飲むか?」
『飲む身体がありません』
「あっても飲まず止めるだろ」
外では雨が降り始め、窓を叩く雨音が部屋に響く。
「もうわかってくれるのは君ぐらいだよ」
『今の発言はたぶらかしと認識します』
瀬戸口はそっと自分の耳に触れた。
『君の耳でちらちら青く光る輝きが目に残る夜』
「三十五点」
瀬戸口が間髪いれずに言う。
『厳しいですね。今度、詩の雑誌に投稿したいのですが』
「まず目ないじゃん。身体もないのに恋心を詠うとは生意気な」
『今の発言はセクハラと認識します』
「早とちり女子中学生か」
他愛ない会話が途切れ、ざあざあと訴えるような雨が降り続ける。黄金色した酒がたっぷり入った瓶に触れてその肌をなぞった。ひんやりと冷たい触感。
『毎日そればかりつけて、形見みたいですね』
「似たようなものだろ」
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