第17話 climax phase2 ~side 荒夜~

 赤レンガ倉庫を後にした荒夜は、ふらふらと行く当てもなく歩いていた。

 湊とルミには冷静になれと啖呵を切って場を抜け出したが、荒夜自身もどうすべきか定まってはいなかった。


 辺りを彷徨っていた荒夜は、いつの間にか山下公園の前に辿り着いていた。

 まだ正式な収集命令がかかっていないのだろう。数日前に少女と散歩したその公園は、緊急災害時という事もあって無人だった。

 街灯だけが夜の公園を虚しく照らし、誰かの忘れ物のサッカーボールが虚しく風で転がっているだけだった。

 クレープを売っていたワゴン車も、撤収されていた。

 荒夜はズボンのポケットにあった手帳の存在を思い出し、開いてみる。

 少女のたった一つの持ち物だった手帳――そこには、辛い日々を感じさせる文字の羅列が綴られていた。


「殴られた」「蹴られた」「痛かった」「怖い」「もう嫌だ」……たどたどしい文字で綴られた言葉は、辛い日々を感じさせるには十分すぎるほどだった。色彩で例えるのなら、モノクロがぴったりと当てはまるだろう。


――日記帳……か。

 だがその頁を読み進めていくと、ある箇所を境にそれは一気に賑やかなものになった。


「荒夜にキレイな花を教えてもらった。“ネモフィラ”……というらしい」

「クレープもいっしょに食べた。イチゴがおいしかった」

「また、一緒に食べにいきたいな」


 荒夜たちに助け出されたあの日から手帳の頁は賑やかさと密度を増し、何頁にも渡って所狭しにびっしりと書いてあった。

 荒夜の事だけではない。


「ルミは、私にもやりたい事がないのかって聞いてくれた。たくさん考えたい」

「ルミも、考えてるんだって」

 ルミの事。


「輝生と支部の人たちがたくさんお菓子をくれた。甘くて、おいしい」

「ここはいい街だって、きみの居場所だって湊が言ってくれた。こんな優しい場所、初めて。皆んな、優しくて、あたたかい」

「クレープってしょっぱいのもあるんだって。湊が言ってた」

「かれんともたくさんお話できた。ご飯がすごくおいしかった。私がレネゲイドビーイングでも、人間と一緒にいてもいいって教えてくれた。とても、嬉しかった」

 MM地区支部の湊たちの事。


 荒夜たちと過ごし、少女が感じた様々な出来事が、何頁にも渡って綴られている。文字だけは同じ黒字の筈なのに、その文字たちはどこか楽し気に踊っているようで、鮮やかな色さえも想像できた。

 数頁前のものとは比べ物にならないほどの文字の多さと情報量に、荒夜は思わず吹き出してしまう。


「……ハハッ。まるで花畑だ」

 四日前にようやく人生の色彩を帯びた少女の、幾つもの花が咲いたような言葉が綴られた日記帳を眺めながら荒夜は愛おし気に目を細めた。

 荒夜がふと顔を上げると、そこには先日少女が眺めていた花壇があった。


 ネモフィラの花――少女が気に入っていた一輪の花が咲いていた。街灯に照らされたその花は、どこか青い燐光を放っているように見えた。


――……あ? そういやネモフィラって……。

 荒夜が携帯端末でネモフィラについて調べる。ネモフィラの開花時期は、何と春だった。

 今は秋だ。ネモフィラの花が咲く筈がない。だが、荒夜の目の前にはまるで一つの奇跡のように美しく咲いていた。

――あの子が見せた小さな奇跡、ってことにしておこうかね……。

 荒夜はネモフィラの花を摘み取り、手帳の一番後ろの頁に挟む。ついでに自前のペンで矢印を引っ張り、花の隣に名前を記しておいた。

 MM地区の潮風だけが、夜の公園に流れている。


 今こうしている間にも、横浜の人々の命が危ぶまれていく。

 大事の前に小事を見失うな――軍では研修時代から今もなお、口を酸っぱくして言われている筈だ。恐らく、直に横須賀からも正式な命令が下されるだろう。

やるべき事は分かっている。なのに荒夜の身体がこうも動かないのは何故なのか。本当は、荒夜自身も分かっていた。


「……つくづく軍にゃ向いてねぇなァ、俺は」

 頭を掻きながら荒夜は自嘲的な笑みを浮かべ、手帳を懐にしまう。

 その時、私用の携帯端末がズボンのポケットから鳴り響く。それは同居人のレネゲイドビーイングの少女――アリーからの着信だった。

「……アリー」

『あ、荒夜!』

 電話越しにアリーの元気そうな声が聞こえてくる。

「アリー、お前ちゃんと避難してるのか?」

『うん。UGNの人たちが来てくれて、避難させてくれたの』

「そっか。良かった」

 意外にも元気そうなアリーの声に、荒夜は内心ホッとする。

『青くて長い髪のね、中学生くらいのお姉さんが案内してくれたんだ』

「おい誰だそれ。UGNだから良かったものの、知らない人についてっちゃもうダメだからな」

 アリーを巡っての過去のアレコレを思い出した荒夜は、途端に不安になるのだった。


『荒夜は、だいじょうぶ?』


 アリーの何気ない質問に、荒夜ははっと我に返る。

『どうしてるかなって思って、こっちも落ち着いたから電話してみたの。仕事続きだし……ちゃんとご飯食べてる?』

「…………うん」

 その全てを見透かしたようなタイミングに、荒夜はほんの少し鼻の奥がツンと塩っぽくなる。

「もう大丈夫だ。さっきまでちょっとヘコみそうだった」

 嗚呼そうだ。自分は何のために生きている。何のために、数か月前にアリーを救ったのか。

『そうなの? じゃあ、さっきまでダメだったの?』

「あぁ。さっきまでダメだった」


――守りたいから。助けたいから。ただ、ただそれだけではないのか。


 荒夜は思い切ってアリーに質問してみる。

「……アリー。今、楽しいか?」

『今?……今は避難してて、大変だけど……』

「いやそうじゃねェ。そういう事じゃねェ。俺の聞き方が悪かった」

 言葉というものは難しい、と荒夜は仕切り直しに軽く咳払いする。

「昔と比べて、今俺と暮らしてて楽しいか?」

 すると、案の定明るい声が返ってきた。

『そんなの決まってるじゃない! 楽しいよ、とっても!』

「そうか……良かった」

 アリーの心から嬉しそうな声に、荒夜は鼻の奥に残った塩っぱくなったものを啜る。

『荒夜も楽しいでしょ?』

「あぁ。お前と暮らし始めて何台エアコン壊れたか数えるのもう止めたけど、まぁまぁ楽しいわ」

『もぉ~、最近だと少しはコントロールできるようになってきたんだよ!』

 冗談混じりの荒夜の返事に、携帯電話越しに可愛らしい声でクレームが来る。

「あぁそうだな……昔より、お前も笑うようになった」

『えへへ』

「だからなぁ……」

 もう腹はくくった。荒夜は一つ息をつくと、どこか嬉しそうにアリーに話し始めた。


「もう一人のお姫様を、もう一回笑かしに行ってくるわ」


『もう……一人?』

 きっと電話越しに小首を傾げているのだろう。言葉の真意がよく伝わっていないアリーは、荒夜の言葉を繰り返す。

「今、横浜の街が大変な事になっちまってるだろ? お前と同じようなビーイングの女の子が、コレやらかしちまってるんだ」

『そう、だったんだ……きっと、苦しんでるよね……』

 アリーはごくりと息を呑むと、荒夜に告げる。


『助けに……行ってあげて、荒夜。あたしを、助けてくれたみたいに』


 荒夜は噛み締めるようにその言葉を受け取る。

「――お前のその言葉が一番聞きたかった」

 荒夜の背中を押すにはそれで十分すぎるほどだった。

「じゃ、ちょっくら行ってくるわ」

 気軽にわざとらしいほど明るい声で荒夜はアリーに言った。

『ふふっ。荒夜は、意外とあたしがいないとダメね?』

「あぁ、ダメダメだぜ? アリーがいないと俺はなーんもできねぇよ」

 悪戯っぽく、だがどこか満足そうに笑うアリーに、いつもの調子で荒夜も笑う。

「じゃあ帰ったら皆んなで焼き肉だ。輝生の兄ちゃんや湊兄ちゃんも一緒にいるからな。輝生の兄ちゃんに負けずに食べるんだぞ! 腹空かして待ってろ!」

『うん! 待ってるからね』

「あぁ……行ってくる」

『行ってらっしゃい。荒夜』

 アリーとの通信が終わるのと同時に、今度は仕事用の携帯端末が鳴り響く。

 それは着信ではなく、メールだった。

『コウヤ・カミヌイ伍長へ。緊急事態により強制帰還命令を下す。現在、“エレウシスの秘儀”のワーディングである“海”が横浜市全域へと展開中。夜明けとともに “エレウシスの秘儀”消滅作戦に参加する。至急横須賀に帰還せよ』

 荒夜はメールを私用の携帯端末と湊宛に転送すると、仕事用の携帯端末を思い切り海へと放り投げた。

 少女を救い出せるまでのタイムリミットは夜明けだ。その情報を掴めただけでも御の字だ。

 荒夜は海に背を向けると、ゆっくりと歩き出す。だが、その歩調は何かに急かされるようにどんどん速くなっていく。


 携帯を呑み込んだ真っ黒な海だけが、赤レンガ倉庫へと駆けて行く荒夜を見送っていた。

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