真っ白になりたくて。

桜居 あいいろ

真っ白になりたくて。

 頬に風が当たる。今日は特に風が強い。

 

 まあ、今日はベランダに出ているせいもあるだろう。


 都心の高層マンションが立ち並ぶような場所に住む僕は、それらによって強さを増された風に身を委ねている。

 

 たまには外に出るのも悪くない。



 6階という高いとも低いとも言えないような高さから下を見下ろす。

 

 ぼぅ、と誰かの日常の切り抜きを眺める。


 コンビニの袋を手に持ちながら忙しそうに歩く人。

 

 ヘッドフォンに耳を預け、誰にも邪魔されまいと自分のテリトリーを築く人。


 信号待ちにイライラしながら前に並ぶ車を睨む人の左手は常にクラクションに添えられている。


 どんな人であれ、どんな性格であれ、人間は誰しも自分の手足を持ち、口を持ち、自我を持つ。


 常に誰かに媚びを売っている人も、


 平気で非道徳的なことをしている人も、


 誰かに尊敬されるような生き方ではないかもしれないけど、


 とりあえず、誰もが自分の意思を持って生きている。



 そんなことを考えながらさっきにも増して強くなった風を全身で受け止めていると、その風に乗って聞き馴染みのある音が運ばれてきた。


 ふと下に目を落とすと赤いチカチカしたものが目に入った。


 救急車だ。


 この音はここに来てから嫌というほど聞いてきたが、どうにも慣れない。


 聞くたびドキリとして、僕の薄い胸の左側にあるだろう心臓がギュっと握り閉められる感覚に襲われる。


 さっき見たイライラしていた運転手も同じ思いだったのだろうか、彼の左手は律儀にハンドルに添えられている。


 いや、先ほどより右手にかける握力が心なしか増して見える。



 僕がもし、自由に動けたならば、ほんの少しの決断力と、ほんのすこしの神様からのスパイスがあったなら、何になりたいと思っただろうか。


 今年でX歳になる僕は、何になっていたのだろうか。


 あの救急車に乗る救急救命士のように、自分の知らない誰かの命を救えただろうか。


 あのビルに入る、コーヒーを片手に持ったサラリーマンのように、誰かと共に地球を救うようなプロジェクトに携われただろうか。


 自転車の後ろに子供を乗せた、少しよれたスーツを着たサラリーマンのように、絵に描いたような幸せな家庭を心の拠り所にすることができただろうか。


 まあ、もしもの話であるが。


 まあ、来世の話であるが。



 無論、僕は単なる清掃員である。


 無論、僕はこの仕事が嫌なわけではない。


 若いころは真っ白な制服に身を包み、僕が汚れてまで、「ここの頑固汚れを落としてやる」とか、「ここまできれいにしたら喜んでくれるだろう」とか、胸に抑えきれないやりがいと期待を抱えて仕事をしていた。


 相手に心地よさを与えた後のシャワーは最高だったし、僕の心まで洗われていく心地がした。


 でも人間はいずれ普遍的な物に飽きるわけで。


 僕も含めて欲深くなるわけで。



 ふと公園のゴミ箱に目をとられた。


 まだ使えそうな傘、飲み残したタピオカジュース、片っぽのサンダル。


 需要に駆り立てられて買ったのに、欲しくて買ったのに、人々はそれを躊躇なく捨てていく。


 この僕でさえ、その捨てられた物からは”悲しい”とか”悔しい”とかいう感情を見出すことはできなかった。


 彼らはただのモノへと成り下がったのだ。



 救急車が通り過ぎて何分経っただろうか。随分と考え事をしてしまった。


 僕はまた真下にいる人々に目をやる。


 カップルだろうか。お揃いのストラップをスマホに付けた高校生らしき2人組が楽しそうに話しながら横断歩道を渡っている。


 その後ろには数人の同じ制服を着た生徒がいるのだが、皆、彼女らに目を向けている。気を向けている。


 羨ましかったのだろうか、2列で歩かれて邪魔だったのだろうか、そのうちの数人は彼らに好ましくない視線を浴びせていた。


 いや、僕の考えすぎか。ただ朝日が眩しくて、しかめっ面していただけかもしれない。



 こうやって足元のミニチュアを眺めていると、僕が居ない世界はこんな感じなんだ、って思ってしまう。


 僕が居なくたって誰かが困るわけでもなく、当たり前のように日は登り、気づけば月が顔を出している。その繰り返しだ。


 僕が居なくなったって、彼女らが飲んでいるコーヒーは変わらず美味しいだろうし、毎朝洗濯する習慣も変わらないだろう。


 


 まだ風は強い。


 無駄にスッキリさせるような洗剤の香りが鼻を抜ける。


 万人受けする石鹸の香りは無個性な気がして、なんだか少し寂しくなった。




 もう、そろそろ良いだろうか。


 僕は片手を自由にする。


 ベランダから少し身が乗り出る形になった。


 下にいる人形は僕に気が付いて指を指したり指さなかったりしたが、皆僕には関係がないというようにすぐに自分の世界へと帰っていった。


 動ける身体があるのに、話せる口があるのに。


 

 僕が望んだものを持っているのに。


 どっと疲れが襲って来た。







 「さよなら」



 僕は少し後ろを振り向き、きれいに磨かれた窓へと伝書鳩を放った。


 その真っ白い鳩からは、豊かな石鹸の香りがしていただろうか。


 少しは僕の個性が、生きた証が現れていただろうか。





▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽



 「ねえ、お母さん。私のタオルはどこー??あの昔から使ってたやつ。」


 リビングからベランダの物干し竿を眺めた高校生くらいの女の子が口を開いた。


 手で持ったスマホのケースにはこれでもかとプリクラが張り付けられている。


 「あー、あれ。確かに無いわね。あれなかなか汚くならないからずっと使ってたけど。あ、でも最近新しいの買ったじゃない、それ使ったら?」


 「あ、そうだった!あっちより全然良くて、そろそろ捨てようとしてたから丁度いいか!可愛くて即買いしちゃったんだよねー」



 彼がいたはずのハンガーは、ただカチャカチャと周りのハンガーやら洗濯ばさみやらとぶつかって音を立てていた。


 ただそれだけで、妙に存在感のある、けれども、どこか虚しいメロディーを奏でていた。



▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽



 

 僕は考えすぎたのだろうか。羨み、嫉妬し、自分を憂い、悲しみすぎたのだろうか。


 嗚呼、体だけ無駄に純白だ。


 僕はひらひらと舞いながら考え続けた。見慣れた景色に近づきながら考え続けた。


 少しの衝撃と共に、生暖かいコンクリートの地面を全身に感じた。


 そしてすぐ、少しの痛みと共に、熱せられて熱くなったタイヤの重みを全身に感じた。


 僕の身体には茶色とも黒とも言い難い紋様がくっきりと彫られてしまった。


 そのままコロコロと灰色の地面をのたうち回った。時々ふわりと風に飛ばされた。そして、最終的に柔らかいカサカサと音を立てるソファーに受け止められた。


 それは僕の全てを優しく受け入れてくれるようだった。


 僕は心身ともに疲れ果て、その頃には体もお世辞にも白色とは言えなくなっていた。


 「嗚呼、僕も随分と汚れてしまったものだ。嗚呼、真っ白になりたい」


 僕の願いは再びほのかな香りとなって発せられたが、排ガスやソファー特有の匂いにかき消されてしまった。


僕の意識は遠のいていく。僕は最期にに横目でソファーに書いてある文字を眺めた。



”○○市指定 燃やせるゴミ専用袋 40ℓ”


 


 


 


 

 


 


 



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

真っ白になりたくて。 桜居 あいいろ @himawarisaita

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ