終幕 ON THE BEACH

 私が映画の主役の座を射止めたのは、私の女優としての才能が認められたからでも、ずば抜けた美貌があったからでも、ましてや人気があったからでもない。八嶋さんに女の体を売って、コネで役を回してもらっただけだ。

 家族には、誰にも言ってない。言えるわけがない。遠藤さんは何度も考え直す様にと言ってくれたけれど、私にはもう、枕営業以外に頼れる力が無かった様に思う。

 映画のオーディション選考期間中、何かと用事を偽って二日間家を空け、ずっとホテルに軟禁された。ピルを飲まされ、何度も何度も犯された。よがった声を出さなければお腹を殴られ、お酒を飲まされてグラグラになった頭に快感を強引に刷り込まされ、気持ちいいだろうと決めつけられ首を絞められ、何度かトイレで吐きながら二日間を耐えた。二日目には、ネットテレビ局の社長や配給会社の社長、その他役員が次から次に押し寄せて、次々と輪姦される。

 地獄だった。

 地獄を耐え忍んだ先に、確かに主役という報酬は用意されていた。それは私が切望していたものの筈だったのに、何故か輝きを放っていない、ぼろ雑巾に似ていた。

 いけない事をした、という罪悪感と絶望感は酷いもので、それでも、ホテルを一歩出たらいつもの明るい大川美里で振舞う事を強要される。メディアで映画の宣伝が始まり、私の名前と顔が大々的に告知されると、私生活は一変した。それまで、何の活躍もしていない名前と口ばかりの奴、と陰口を叩いていたクラスメイトが一様に、私に対して尊敬の目を向けて積極的に話し掛けてきた。

 せっかく女優としての私に興味を持ってくれた彼ら彼女らを責めるなどナンセンスで、私はありがとう、の言葉を繰り返して彼らの祝福にお礼を言った。

 ……皆に、悪意は無いのだろう。単に今まで私の事を知らなかっただけの人も居る。

 それでも、それまでの態度を一変させて私に好意の目を向けてくるクラスメイト達が怖くて仕方が無かった。何より、みんな私とは大して関わった事は無かった。私の事を良く知らない人ばかり。私の知らない人ばかり。でも、彼らはテレビに出た私に興味を持ち、私の事を知っている。

 今まで、沙織は別格の存在だった。私の事を売れない嘘つき女ではなく、同類として接してくれていた。あの芝居は大変だよね、あの仕事はとても苦労した、でもどれもとても楽しかった。そんな話をし合って、私達はお互い、唯一の仕事仲間・元仕事仲間として交流を深めたのだ。私達の真の関係性とお互いを大事に思う気持ちがどれ程に尊く、大切にしていたか。どれだけ口で説明しても、他の人には決して分からないだろう。

 気付けば、沙織だけが唯一の信頼出来る相手になっていた。彼女が、上手く噛み合えない学校生活で『本音』を言い合える友達だった。

 そんな彼女だから、私の仕事の状況、そして演技レベルの事を良く理解していた。

 一番親しく大切に思い合っていた相手だからこそ、私の映画主演を獲得した一連の流れに疑問を抱いたのだろう。まだ私が実力で勝ち取れる役柄ではない。まだ練習や実績を積む必要がある役どころであり、キャリアだ。それを、クラスで唯一の女優経験者である沙織だけが見抜いていた。

 クランクアップしてから、一週間くらい経った時。沙織は私を屋上近くの階段踊り場まで呼び出して、枕営業の事を看破した。

 軽蔑された。バレたという事実やそれを公表されるかも、という心配は無かった。沙織がそんな事をする人間ではないと知っていた。ただ、女優として軽蔑されている、と思った。その事が、他の何よりも苦しくて、私は無我夢中で走り出したのだ。

 誰にも見られない場所、誰にも知られない場所に行きたかった。だけど、私には頼るものも当てもなく、ただ二本の足で荒廃した大地を走り、逃げ続ける事しか出来なかった。後ろから沙織が追って来ている事は分かっていた。

 耐えられない。あらゆる、全てに。

 考えた瞬間には、私はマスクを外していた。息苦しく、真実と本音を一切叫び上げる事の出来ない私の世界は、とても狭苦しく、窒息してしまいそうだったから。

 初めて外の世界で吸う空気。何処までも遠く青く続く空。それを見上げた私の視界には、青と白以外飛び込まない美しい世界が広がっていた。

 あの瞬間、私は確かに自由だった。何もかも叫んでしまえそうな気がして、深く息をして声を上げようとした瞬間、鮮血を吐き出した事を今でも鮮明に思い出す。その後に沙織が見せた、ボロボロ涙を流すその顔も。

 沙織は何故泣いたんだろう。何故、汚れてしまった私に慈愛を施してくれたのだろう。

 悔しくて、悲しくて、怖くて、一杯泣いた。

 悲しいとかじゃなくて、ただ自分勝手に流れた涙だった。

 沙織が意識不明で昏睡状態となり、いつ意識が戻るかも分からないと医者から私や家族に告げられた時、私は家族に土下座して謝った。でも家族は私を責めず、ただ沙織と友達でいてやって欲しい、とだけ告げる。

 だから私は、許された気持ちが全然しなくて。

 自分勝手な罪滅ぼしとして、家族の言う通り可能な限り毎日、目を覚まさない沙織のお見舞いに行った。それでも、実際に彼女に借りを返せる訳じゃない。

 私がかろうじて救われるのは。赦されるのは。

 ……その考えに至ったのは、当然の帰結によるものだったかもしれない。

 長谷川秋穂さん。私と沙織を追いかけて、すぐにレスキューを呼んでくれた女の子。私が有名になる前もなった後も、変わらぬ態度を取って適度に距離を置いてくれていたクラスメイト。


 そして、いつも何かを主張しようとして苦しんでいた人。


 クラスの誰かが、誰かを傷付ける言葉を口にした時、彼女はその意見に同調しながらも何かを言いたそうに困った表情をチラチラと見せていたのを覚えている。自分が迫害される立場になりそうになっても、ちゃんと自分の意見を言おうとしていたのだ。実際に彼女がそれを行動に移す事は出来ていなかった様だけれど、その度に陰で彼女が悔しそうな表情をしていた事を、鮮明に思い出す。

 皆、私が自分の意見をズバズバ言えるカッコいい人だと思っている様だけれど、それはまるで違う。私こそが、この学校で一番何も自分の意見を言えない臆病者だった。悔しくても、それを匂わせる生き方をする事さえ許されない。

 汚れた私は、汚れ続けなければならない。一生許される事は無い。そして、それを誰かに語る事さえも出来ない。

 だからこそ、ちゃんと抵抗しようとしていた秋穂ちゃんを尊敬した。少しでも手助け出来ればと思って、私は彼女に近付いて仲良くなった。彼女が、少しでも本音を私に吐露できる様に。彼女が少しでも楽に生きていける様に。

 彼女は、私が命を懸けてその意思と信念を守るに値する存在だった。

 だからこそ、私は今死のうとしている。彼女は生きようとしている。丁度三ヶ月前、沙織が私にしていた様に。

 さっき、爆発で八嶋さんが死ぬのを見た。驚く程に冷静だった私の頭は、これで自由になれるという感慨で満たされた。なのに今、友達の為に死のうとしているのはおかしな事だろうか?

 近くのご遺体からマスクを取って彼女にあてがえば、それで済む話だ。でも、私はそうしなかった。自分のマスクを使い、私は秋穂ちゃんを自己犠牲の上に救おうとしている。

 他人からは、奇妙に見えるだろう。でも、これが私にとっての答えであり、正解だ。

 私は、誰にも指図をされない。誰かの強制する道を歩く事もしない。お前はこうだからこうするべきだ、と他人の勝手なイメージの決め付けで私を定義させる事は、誰にも出来ない。

 声を上げずに生きていく事が出来ない。声を上げれば殺される。多数派におもねり、少数派を虐げる。権力や暴力に屈して、後悔と絶望を胸に刻みながら生きる。

 全て、私には耐えられない事ばかり。

 だから、私は静かに死んでいく。私に必要なのはただ、私を本当に大切に思ってくれる人の胸の内で、静かに生き続ける事だ。そこに、肉体など必要無い。

 ただ、感謝だけが私の胸の中に満ち溢れていた。

 泣きながら、秋穂ちゃんは徐々に意識を遠のかせていく様だった。体を叩いてしまったけれど、彼女が生き延びる為の手段だった。

 ありがとう、と私は血を吐きながら感謝の言葉を口にした。

 そして、もしも。

 もしも万が一、私が生き抜く事が出来たなら。この息苦しい世の中で、それでも私が生きる事を運命に許されるなら。

 そして沙織も目を覚ますなんて奇跡みたいな事が起きたなら。

 今度はみんなで、映画を観に行こうね。

 そう口に出してみるけど、伝わったかな。

 激痛が肺を襲う。どんどん寒気が酷くなっていく。息がとても苦しい。死の足音が、すぐ近くまで聞こえてくる。

 それでも私は、喜びを感じていた。



(了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔女を殺す 宇津木健太郎 @KChickenShop

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ