Chp.5: COFFEE & CIGARETS


 私が目を覚ました時、そこがどうやら病院のベッドの上らしいという事は分かった。でも、両腕両足を持ち上げるのが余りにも億劫である事の理由が分からない。目と頭を動かして確認しようにも、始めに天井を確認してから目はしょぼついて中々開かないし、頭を少しでも前後左右に動かそうものなら、酷い目眩が襲ってくる。小学校の体験学習で、船という奴に乗って人工的に起こした波に揺られた時みたいな、酷い揺れを感じた。

 それからしばらく経って、ようやく右腕だけ動かせる様になる。ベッドを仕切るカーテンの向こうに見える時計を見る限りでは、目覚めてから十分程度しか時間が経過していなかった様だけど、体感的には一時間程にも長く感じられる。

 やっと持ち上げた右腕は、酷く痩せ細っていた。これが私の腕? まるで骨と皮だ。持ち上げるのさえ億劫だったのも無理は無いと思う。ともかく、ようやく動く腕を必死に伸ばし、枕元のナースコールを鳴らした。

 しばらくして、慌てた看護師さんがやってきてカーテンを開ける。目をうっすらと開けて呻き声を上げる私を見て、やはり看護師さんは慌てて病室を出て行った。

 次にやってきたのは、ドクターらしき人。そして、その補助らしい数名の看護師さん達だった。この頃になってようやくハッキリ物が見える様になってきて、カルテの私の名前を確認したドクターの顔もぼんやりと判別出来てきた。

「具合はどうですか?」

 優しく、しかし何故か少し浮き足立った様な、興奮した様な声色で彼は私に尋ねる。ベッドのヘッドを上げて上体を起こす姿勢にしてくれた看護婦さん達も、チラチラと私の顔を見る。一体、私に何を期待しているのだろう。

 私は答えようとして、ちょっと咳き込んだ。たったそれだけの事なのに、肺が物凄く痛くなる。

 そしてその胸の痛みが、私の記憶を呼び覚ます。

 ドクターが何かを話してきた。だけど、私の耳にその言葉は何も届かない。

 私が聞きたいのは、たった一つの答えだけだ。

 焼ける様な喉の痛みを必死に堪え、私は声を絞り出し、ドクターに訊く。

「先生……美里ちゃん、は……どうなったん、ですか……」

 ガラガラとした、まるで自分のじゃないみたいなざらついた声。そんな短い言葉を出すのさえも苦痛だった。

 私の問いに、ドクターも看護師達も一様に沈黙し、しばし誰も口を開かなかった。それでも、話すべきだと考えたのだろう、ドクターは眼鏡を押し上げて、ゆっくりと私に言った。

「君の所為じゃありません。君は、確かに彼女を救いました。でも大川美里さんは、君が彼女を助けた後、別の事件に巻き込まれ、その時、彼女もまた人を救って……丁度一週間前の事ですが、亡くなられました。……残念です、相原沙織さん」



 何故俺がこの場所に、取調室に居るのか。正直なところ、納得の行く論理的な説明をする事が出来ない。俺自身が理解出来ていないのだから当然だ。それでも俺はただ、目の前に座る大柄おっさん相手に、真実を伝えるだけなのだ。

「長谷川夏樹、二十六歳。住所不定。居住先を偽りながら、不法滞在の労働者などを雇う怪しげな人材派遣組織会社で働き、仕事を転々としていた……」

 昨日から何十回となく繰り返している事実を、猪瀬と名乗った男は復唱する。これも何十回となく訊かれた事だ。目の前の男に対しては、今回が初めてとなるが。

「デモ運動には何回参加してきた?」

「覚えてません」

「何人殺してきた?」

「数えた事は無いです。趣味でもないし」

 必要なのは犠牲者の数ではなく、行動を起こした回数だ、と俺は信じてきた。死人の数を数えても意味は無い。猪瀬は、数日前に俺達が引き起こした爆破事件でこしらえた顔の傷を歪めて皺を作り、おっかない形相で俺を睨んできた。幾ら取り調べの際の強引な脅迫めいた自白強要が違法とされていても、実際は前時代的なやり方と体質を変えないんだろうな、と思っていた俺には、実際に暴力に訴えてそうした強要をして来ないこの男に、或る種の尊敬の念すら感じる。さっき彼は、自分の相棒の復讐の為にここに居る、と口にしていた。親友の意趣返しの為にここに居るとして、俺に直接手を出さないその胆力は壮絶なものだろう。俺なら、絶対に我慢出来ない。

 俺も、このスタンスをずっと維持出来る生活を送れていたら、何か変わっただろうか。そんな俺の考え事を余所に、彼は言葉を続けた。

「まず、他の『渚』の連中みたいに、自害するでもなく反抗するでもなく、自首してきたってのは評価してやろう。だが、だからこそ今のお前さんを信用出来ねえ。お前は自分を『渚』の幹部だと言ったが、それも信用出来ねえ。お前の何もかもをだ。しかも俺達に情報を提供するとは、どういう了見だ? そんな事されたって、俺達は罠だとしか思わないんだよ」

「そんな事より、『逮捕』された『渚』のメンバーが俺だ、って事は公表してないですよね? 念の為に確認ですけど」

 質問を質問で返された事に苛立ったのだろう。チッ、と舌打ちをして、男は椅子にふんぞり返り、答えた。

「ああ。例え何かの罠だったとしても、それを公表したらリーダーの男を捕まえられなくなる、なんて言われた日にゃ、胸糞悪くてもそうするしかねえからな。世間は、あの事件の実行犯の一人である『渚』のメンバーが生きてる事も、お前が自害してない事も、お前の名前も知らねえ」

 忌々しげに唾棄するが如く、男は俺を睨みつけて再び問う。「お前、何が目的だ」

「何度も言ったでしょう。『渚』とそのリーダーについて自白しに来たんです」

「幹部なら、リーダーに忠誠を誓っている筈だ。幹部でなくともそれなりに所属年数の長い連中は、捕まりそうになったらすぐに劇薬を噛んで自害していった。本当にお前が幹部なら、何故まだここで生きて、密告者になろうとしている」

 射抜く様な鋭い眼差しだったが、俺は全く恐怖しなかった。覚悟が出来ていたというのではなく、ただ、自分の選択すべきものを信じているが故の確信に似た感覚が俺の中にあって、例え外野から何を言われようともその意思を揺るがさずにいればいい。ただ、そう思っていただけの事だ。俺は答える。

「『渚』の戦いに疑問を感じてしまったんです。俺の考える正義と、『渚』を牛耳るあの男の正義とが合致しなくなった。それだけの話です」

「今更、人殺しが嫌になったか。御都合主義だな」

「違います。人類は晩節を汚さずに尊厳と信念を持って死ぬべきだという、その思いは俺も変えるつもりはありません。……ただ、俺達が命を奪ってはその意味が無いと気付いたんです。自分で選択しなければならないし、選択した先で死に物狂いの努力をしなければ、尊厳のある死を迎える事は、人間には出来ない。そう思ったんです」

 答えると、はっ、と男は馬鹿にして鼻で笑い、見下した。

「努力するべきは、てめえら『渚』だ。自分達の不満を、適当にこじつけた大義名分で暴力へ正当化させ、気に入らないものと自分達を虐げる全てに敵意を向け、攻撃する。いつの時代でもそうした連中は同じ事をして来たもんさ。……でもな」

 彼は、今にも噛みつかんばかりの形相で言う。「行き過ぎた正義はいつだって、害悪になるもんだ。オナニーじみた正義感なんざ捨てて、もっと人を磨く努力をするべきだった。だから今、お前は誰にも信じてもらえない」

 俺は、彼に対して腹を立てる事はしなかった。彼の言う言葉は、或る側面ではとても正しい事なのだから。ただ一つ、肝心な点を見逃している。それだけがどうしても我慢出来なくて、俺は言った。

「俺達は、『大災厄』以降五十年以上、努力して来ました。ロビー活動、陳情書、答弁会、抗議集会。……無駄だったよ、全部。変わったのは税金額と人口と、形ばかりの意識改革。どれだけ頑張っても、社会と調和出来ない行動を取った俺達はつまはじきにされてさ。メンバーの誰かの小さなミスや不祥事を、針小棒大に晒し上げて叩き潰す。世論に合わせて主張を変えるメディアのバイアスを通じて、少数派の俺達の声は潰された。幾ら無実を叫んでも聞き入れてもらえなかった魔女狩り時代の女達の様に。……魔女を殺そうと意気込む連中に、魔女だと糾弾されてしまった俺達は勝てなかった。半世紀以上努力して待ち続けた結果が、このザマさ。女達は、村人に殺されない様に、自分達を魔女だと鼓舞して狂った様に突っ走って、村人を巻き添えにしながら死んでいくしかなかったんだ」

 怠けている様に見えるかい?

 自虐風に、芝居掛かった風に、俺は訊いた。

 男は、黙ったままだった。

 さて、余計なお喋りはこれくらいにしよう。

 雨宮の事、アジトの事、資金源の事、メンバーの事。全て洗いざらいぶちまける時が来たぜ。一世一代の大舞台だ。

 これで、俺みたいなクズ人間に手を差し伸べてくれたあの女性へ借りを一つ返せる。あの人の父親を結果として殺してしまった償いをするつもりは特に無いけれど、それでもあの時、父親の自己犠牲の意思を尊重して流した涙に、偽りは無いだろうから。

 あとは、妹と家族さえ無事ならば、もう俺はどうなったっていい。

 せめて、家族が悔いの無い、真っ直ぐな人生を歩めます様に。



「終わったかぁ」

 ベッドの上で夏みかんを食っているキリオが、私に声を掛ける。一通りな、と私は答えて、彼のベッド近くの椅子に腰を勢いよく落とした。思ったより元気そうなその姿を見て、溜まっていた疲れがどっと出た。そんな俺を見て、キリオの妹さんが向いた夏みかんを乗せた小皿を差し出してくれる。「どうぞ」

「や、どうも」

「優ー。それ俺のー」

 まるで駄々っ子の様な甘えた事を抜かすベッドの上の兄貴を、車椅子に座ってみかんを剥いていた妹がたしなめる。

「たまには自分で剥いたらぁ? 全く、看病する側が入院しにきてどうすんのよ」

「足がくっつくまでしばらくは、保険でお互い楽に暮らせるぜ、けけけ」

 呆れた軽口を叩く、いつも通りのキリオだった。「で、どうだった?」

「私達がやる事はもう殆ど無いよ。あいつの話した事は今のところ全て本当だし、こっちで進めてた捜査状況の裏付けになる証言もした。これから、SATがリーダーの居るアジト本部に突入して、それでカタが付く。アジトにある爆弾トラップの解除方法まで丁寧に教えてくれたしな」

「何だか、俺達のやってきた事全否定された気分だな。意味無かったじゃん」

 夏みかんの果汁で汚れた手をティッシュで拭きながら、キリオはあまり面白くなさそうな顔をしてそう言った。私は苦笑いする。

「そうだなぁ。でも、犠牲を出してきたから今に辿り着けたんだと、そう信じようぜ」

「でも、俺達があの現場に居なかったとしても、あいつは自首してきただろうと思うと、死んだ人間が浮かばれないというか……虚しくならないか? 全力を尽くして辿り着いた結果と傍観していた場合の結果が変わらないってのは、どうにも」

「世の中、そんなもんさ。運命の前には、人は無力だよ」

 自虐的に呟くと、少し驚いた風にキリオが言った。

「お前の口から運命なんて言葉が出るとは、意外だよ」

「『渚』の言葉じゃないがな、自然に任せて決まった結果にどんな不平不満を言ってもどうしようもならないのが、今の時代だからな……」

 俺達人類はもう、「余生」を過ごす時代に来ているのかも知れない。終末をごく間近に控えたこの世の中で、『渚』が望む尊厳を抱いたまま死を迎える事は難しい。

 ならば、せめて自分がそうである様に務めるのが、最後の責務というものだろう。

 そうすれば、この兄妹と一緒にのんびりとした時間を過ごすこの時間を、とても愛しく、大切に感じられるだろうから。



 何故、私は生き残ったのだろう。

 美里ちゃんは間違い無く、私よりも生き残る価値のある人だった。数多くの人に支えられ、自分の意見をしっかりと言えて、女優としてのキャリアを着実に積み、さあこれからだという時だったのに。

 あの科学技術未来館で見せた美里ちゃんの涙が、脳裏にこびりついて離れない。余りにも鮮明で、そして私にとって残酷だった。

 病院のベッドで目覚めた時に思ったのは、非常に悔しい、という感情。包帯でぐるぐる巻きにされた腕を振り上げて、シーツの下の自分の体を強く叩いた。あまりの悔しさにギリギリと歯を軋ませてボロボロ涙を零す。

 何で! 何で、私を殺さなかった! 何故自分が死んだ! 

 そこいらの遺体からマスクを剥ぎ取れば済んだ話じゃないか、彼らは死んでしまったけれど、貴女は輝かしい人生を生きていたと言うのに!

 命に値段はある。この時代では特に、命の値段を上げる努力が一層に求められる。彼女は、その努力が認められてしかるべき存在だ。私なんかじゃなくて、もっともっと、誰かを率いていける様な、そんな強いカリスマやリーダーシップのある存在が。

 何故貴女は、自分より私に価値を見出したの?

 しばらく泣き続けて、泣き腫らした目を擦りながら、私は疲れて寝てしまう。そんな入院生活を三日続けていたが、お母さん以外には誰も私を見舞いには来なかった。

 いや、一人、親切なお節介焼きが病室の扉を叩いた。飯島君だ。

「クラス代表?」

 義務で来たのか、と皮肉を言ってみたが、飯島君は真面目な顔をして首を振る。

「自分の意思だよ」

「……ごめん」

 自分でも分かるくらいの八つ当たりと自暴自棄だった。それに対しても、飯島君は「いいんだ」と素っ気ない返事を口にする。見れば、フルーツを持って来た彼の目は少し腫れている。私がそうだった様に、彼もまた涙を流したのだ。愛しの同級生の死に。

 美里ちゃんの事には直接触れず、代わりに、「クラスはどう?」と訊いた。すると彼は自虐的に笑って、答える。

「みんな、美里ちゃんが亡くなったって聞いてパニックだよ。女子は何人か泣き出すし。誰も、仲良くなんてなかった癖にさ。大葉さんが死んでも長谷川さんが死に掛けた事に対しても、誰も泣かなかったのに」

「愛されてたんだよ」

 他人事の様に口にすると、飯島君は大きくため息をついた。「随分と身勝手な愛情だね」

 片思いは違うの? そう尋ねようとして、あまりにも不躾だと思い直して止めた。彼にとって美里ちゃんは高嶺の花ではあるが、だからこそ誰より親密に物を考えられる、そんな人なのだ。意地悪をする代わりに、私は一つ尋ねた。

「私、どうすれば良かったと思う?」

『渚』が来るであろうという事は、誰にでも予想の出来た事なのだ。にも関わらず私はあの場に足を運び、喪服がそのまま死装束になるところだった。笑えない。

 本当に、笑えない。私の代わりに、美里ちゃんは死んだのだ。

「私があそこに居なければ、美里ちゃん、生きてたかもよ」

 それは飯島君ではなく、私自身に向けた言葉だった。ただひたすらに自分を責め続け、そして誰かがそれに同意してくれれば、安心して私は自分を責める事が出来る。

 自分は、罰を受けなければならない人間だ。そう願い、そう望まれる事で、ようやくこの生きながらえてしまった世界に自分の居場所を作る事が出来る。

 私を慰めたいなら、私に死ねと言って欲しい。

 でも、飯島君はそうじゃなかった。彼が愛しているのは、大川美里その人なのだから。だから、彼は答える。

「長谷川さんの所為なんかじゃないよ」

 美里ちゃんが自分で選び、自分で望んだ結末だった。そう思う事だけが、美里ちゃんが理不尽な死に巻き込まれたという事実を虚飾に変える為の、唯一の魔法。

 私はゆっくりと顔を上げ、虚ろに床を見つめてパイプ椅子の背もたれに背を預ける飯島君を、やはり私も虚ろな目をして見つめた。

 私は、貴方の一番にはなれないんだね。

 勿論、そんな事は言わないけれど。

 ちょっとだけ。ちょっとだけ残念な気持ちで、私はベッドに体を預けた。

 こんな私が生きる意味とは。生き続ける意味とは。

 ……その答えは、意外と早く来た。

「長谷川さん」

 病室のドアを叩いて訪れた看護師さんが言った言葉が、私に道を示してくれる。「相原沙織さんという方が、面会したいと仰ってますが」



 私を診察に来た医師は、取り乱した私を宥め、落ち着くまで何日も待ってくれた。私はと言えば、到底気分を落ち着けられる状態に無い。当然だ。美里が死んでしまったのだ。私が助けた甲斐も無く。

 馬鹿だねぇ。例の事で、私が軽蔑すると思ったの?

 夢を追い切れる自信も無くして、将来が怖くなって逃げ出した私に、貴女を責められる訳が無いじゃない。私と同じ事をして、自分が救われたつもりなの?

 それとも……

 鎮痛剤を打たれた私は、とても穏やかだった。その一方で、心中では激しい思考の波が渦となり、私の心を掻き乱している。それでも、そんな様子で大人しく天井を見つめているだけの私を見て、ようやく話が出来る態勢が整ったと考えたのだろう。医師は教えてくれた。

 あの時、私と美里に付いてきたクラスメイトがすぐさま救急を呼んだ事で、私は一命を取り留めた事。しかし大気の毒が脳や神経系を一気に侵食した所為で、昏睡状態に陥っていた事。三ヶ月以上も意識が戻らずに植物状態だった事。そして、フジカズが発明した新薬の事。その治験に美里が名乗りを上げた事。会見の場で『渚』によるテロが起きた事。その場に居合わせた、私の命の恩人と私が助けた少女の事。

 私は、黙ってそれを聞いていた。流すまいと必死に堪えていた涙が全くコントロール出来ず、ボロボロと流れ出す。ゆっくり、私が泣き止むのを待って、医師は話を再開する。だが、その様子に少し違和感があった。私の為に話をしようとしている、と言うよりは、私にどうしても話したい事があって、それをウズウズして待っている様な雰囲気を覚える。

 涙を拭いて、私は敢えて医師が話し始めるのを待った。彼は、ようやく口を開く。その顔は、興奮を抑えきれない子供の様に、何処かはしゃいでるみたいだった。

「さっきも言った様に、フジカズはこの一件で、遺伝子操作の試薬研究を頓挫させたんです。しかも再開は分からない。更に悪い事には私が掛かりつけだった、君もご存知、世界最高齢の男性である早乙女さんも亡くなってしまいました。……だが、人類の希望のリレーは今、亡くなった大川さんに繋げられたんです」

 熱を帯びた目で、医者は続けた。「正確には、我々人類全員がその鍵を握っているかも知れない。でも、その事に気付けたのは間違い無く大川さんが切っ掛けです。先日科学技術未来館で起きたテロでは、爆発で亡くなった方よりも、知らない内に、または理解出来ない内に大気毒を吸い込んで亡くなった方々の方がずっと多かった。検死の結果では、どんなに長く持ちこたえた方でも三分以内で心肺停止になっていました。一人を除いて。……相原さん、貴女のお友達は、七分間も耐えていたんです。三ヶ月前に一分半、大気毒を吸入して生き残った彼女の肉体が、七分間毒と戦って、友達を救ったんです! 今まで大気毒は、極微量を毛穴やマスクを外した瞬間の吸入などによって体内に緩やかに蓄積される事で、神経系を破壊していく不治の病を生み出していました。それが定説だったんです。でも今回大川さんは、別の可能性を指し示してくれた。この半世紀、『大災厄』から世代交代を繰り返した人類は、徐々に大気の毒に対する遺伝子的な耐性を蓄積してきたのではないか、という可能性です。大川さんは貴女に助けられたあの場所で、一気に大量の大気毒を吸入した事で、蓄積レベルを一気に跳ね上げさせ、且つ生き残った。それが、人体の大気毒への耐性を一気に高める一助になった! それは彼女だけではなく、全人類に対して言える事なんです。遺伝子レベルで大気毒に対する脅威に耐える為、人類は毒への耐性の基盤が作られているんですよ。後は、一気に高レベルの大気毒を体内に吸引した貴女や大川さんの体から血清さえ作れれば、私達の世代では無理かも知れませんが、今後私達の子孫は、きっとフジカズの遺伝子操作技術の開発・進展を待たずして大気にガスマスク無しでの環境適応可能な体組織を獲得して……」

「あの……すみません。もう……いいですか」

 私は、力無くそう言った。うんざりな話でしかなかった。

 私にも美里にも、何の関係も無い話だ。種の保存や未来の話なんて、何の興味も無い。

 医師は、自分の行いが客観的視点からとても無様なものだった事に気付いたのだろう。途端に意気消沈し、暗い声で「申し訳ございません」と一言断って、簡単な挨拶だけして部屋を出ていこうとする。

 私はその背中に声を掛けた。

「美里が助けたっていうその人、今どうされてますか」

「……まだここに入院されています」

「お会いして、話がしたいんですが」



 強化ガラスの、天井に近い場所に設けられた明かり取り。夕暮れの暖かいオレンジ色の光が、真っ白の病室に差し込んでいる。私が最後に出演した映画のラストシーンも、丁度こんな時間帯の撮影だった。子供には大き過ぎたマスクを無理に装着して、頑張って演技をしたっけ。ベッドに横たわりながら、ぼんやりとそんな昔の事を考えた。

 結局、美里は『土星の日』が最初で最後の映画になってしまった訳だ。世間は、彼女をどう評価するだろう。人気絶頂の駆け出し女優の壮絶な人生? 文字通り命を燃やし尽くして迫真の演技を見せた、悲劇の夭逝の女優?

 そんな安っぽい言葉で語られるのは、ちょっと悔しい。けれど、美里にとってはそれで良かったのかも知れない。彼女が一挙にスターダムにのし上がった本当の理由を世間が知ったら、彼女自身の事など誰もが忘れてしまうだろう。彼女の私生活や家族の事もバラされて、また世間はゴシップ記事にぞっこんになる。きっと、あの医師の言っていた未来への人類の希望など見向きもしない。彼らにとってはどうでもいい事なのだから。

 私と、多分マネージャーの遠藤さんだけが知る秘密。彼女もきっと、誰にもこの秘密を語るまい。私が美里に秘密を看破した時、あの子は学校を飛び出してマスクを外し、死に掛けたけれど、私が秘密をバラすとでも思ったのだろうか? そんな事、するわけがないのに。

 彼女がどんな道を歩いたか、関係無い。誰にも言わなかったけれど、私は女優の道の先に広がる大舞台に怖じ気付き、挫折し、諦めたに過ぎない。でも彼女はその過酷な道を進む事を選び、そしてとても困難で苦しい苦しい道を抜け、大舞台にデビューした。

 それを祝福せずして、何としようというのだ。

 結局私は、直接彼女にちゃんとお礼を言う事が出来なかった。私が血を吐きながら伝えた言葉は、きっと彼女に伝わっていない。そして、伝える事が出来ないままに彼女は死んでしまった。

 彼女は、助けた友達になんて言ったんだろう。

 私がそうだった様に、どんな輝きをその友達に感じたんだろう。

 仲良くなりたいな。傷の舐め合いなんかじゃなくて、「彼女は凄かったよね!」って笑い合いながら、楽しく話に花を咲かせたい。

 病室の扉が、遠慮がちに叩かれる。どうぞ、と答えた。

 また、私達はここから歩き始めるのだ。

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