Chp.4: UNSTOPPABLE

 大規模なプロモーションだった。広告収入を得る為だろう、スポンサーの広告がやたらと目に付く。だがキリオ同様、キリスト教的な価値観が薄いにも関わらず、西欧諸国が唱える「神への冒涜だ」という文句と固定観念から抜け出せない嫌いのある日本人の多くが、その広告を見て企業へどんな印象を抱くだろう。ここ一週間のメディアの流れを見ても、フジカズのこの研究は好意的に紹介されているとは言い難い。

 現場の指揮を執る為に、私とキリオは公表日の今日、フジカズグループが運営する科学技術未来館に居る。企業による一大研究の経過発表というのだからもっと真面目な、悪く言えば堅苦しい、前回の様な記者会見現場で記者団にのみ公開される通常の報告会だと思っていた。だが、フジカズの思惑は経過公表以上に資金繰りにある様だ。

「これじゃ、まるで新商品の品評会だぜ」

 隣に立つキリオが、私にそっと耳打ちをする。私は黙って首肯し、同意した。

 会場は、未来館の特設パビリオンだった。壇上には一通りの会見用の机や椅子、マイクが設けられているのみだが、雰囲気としては寧ろ映画の試写会宣伝会場の様相を呈しているのだ。記者は立ち見で、それを遠巻きに囲む様にして、我々警察が配備していた。

「なんでこんなところで……」

 ぶつくさと文句を言い続けるキリオが少し鬱陶しくなり始めたので、私は答えた。

「警備代を浮かせてるって邪推は出来るな」

「本当か?」

「マスコミや関係者にのみ、口外厳禁という形で会見場所を告知する事は出来る。だが『渚』のテロのやり口を見て頭を抱えたんだろう。中途半端な警護では連中を止められない。だが警備員だけでは余りにも心許ないし、民間の警備会社に委託すれば、この規模の警護はかなり高くつく。警察は雇われてくれない。だから、こうして敢えて不特定多数が参加出来てしまう会場を選んだ」

「何故そうなる」

「警察にとってチャンスになるからさ。開催日時が判明していれば、『渚』はほぼ間違い無く何かアクションを起こす。我々は『渚』の捜査が思う様に進んでいない以上、犯罪防止の意味も込めて特別警戒にあたり、あわよくば現場で『渚』メンバーを確保出来る可能性も飛躍的に高まる。フジカズからすれば、身の安全よりもリスクを取って収益と強固な警備を確保出来るって寸法さ。……警察が企業の依頼で自発的にこんな事を仕事に出来ないからな。フジカズは公的な機関ってわけじゃないし」

 守ってやる義理は無いが、あらかじめ予測されうる事態を警察に予測させ、警戒に当たる警察に結果として便乗する。余りにも博打な方法だが、恐らく金を掛けない強固な警備という意味ではいい答えだろう。個人的には、褒められた回答ではないが。

「それってあれじゃん、抗争中暴力団の家の周りを警戒して人員配備しちまう奴」

 キリオが呆れて口にする。だいぶ違う様な気もするが、果てし無く違うとも言い切れないところだ。嘆息し、私は改めて周囲を見渡す。

 会見……というよりプロモーションに近いが、それが始まるまで残り一時間を切った。昼食を食べ終えた記者団がプレススペースで場所取りを始めている。だが異様なのは、記者団の取材スペースの外だ。パビリオン形式とはいえ企業の報告会の筈なのに、一般来場者もそこそこの数が集まり始めている。一時間後までに今居る全員残っている訳ではないだろうが、この段階でこの場に居る人数の多さは、彼らのこの会見に対する興味の度合いや関心度を目視化している事とイコールだ。恐らく、記者団の多さも相まって、相当数の来場者が顔を見せると思われる。当然だが、この一般観衆の中に『渚』が紛れ込む可能性は非常に高い。例え警察が目に見える場所で警戒していたとしても、連中は間違い無く妨害工作を実行に移すだろう。

「何故、こんなにも予期される被害が明白なのに、こんな発表……プロモを?」

 ホールの手すりに体を預け、キリオは群衆を睨んでいた。私は答える。

「人的被害は計算に入れてない。もし何かが起きてしまったとしても、悪いのはどう考えても法を犯す『渚』側だから、フジカズ側に表面上、責任は無い。謝罪会見も、警察の捜査協力の為開く事は出来ない、で押し通せば、ほとぼりが冷めるまでただ沈黙を守れば世間はすぐに事件を忘れる。他人と同調した意見しか出てこない世論は、どうせ全体主義が手伝って『そんな場所に行く方が悪い、自己責任』と冷たく突き放して、逆に被害者を馬鹿にする。……ほら、何も問題無い」

 元々、フジカズに悪い噂は絶えなかった。『大災厄』以降にその経営規模を一挙に拡大させる企業は、『大災厄』以前から大きな母体を持っていたか、あらゆる手を使って需要の高い産業……つまりはガスマスクや空調チェンバーの開発を進めていたかに二分される。そんな中で、フジカズは双方の特徴を持っていた。その経営方針は、『人が手を入れたがらない、又は開拓しにくい分野開拓の第一人者となり、主導権を握る事』に集約されていた。それこそ、キリオが愚痴った戦後の暴力団のやり口の様に。

 フジカズにしてみれば、広告費で経費や予算を賄ったり、試薬が商用・実用として認可された後の認知度の宣伝や価格帯の調査などの実益の重要性が、社員や見物人の安全性よりも重要視されたというだけの話なのだろう。どんな結果になっても、フジカズは被害者面が出来るのだから。

 酷い話だな、とこの場に居るあらゆる人間に対して同情と憐憫の思いを抱きながら、しかし私達も確かにその恩恵に預かれているのだという一点にだけは感謝の念を抱いた。

 既に会場に配置している対策班には、怪しい人物を見掛けた場合のマニュアル対応が許可されている。不可視光線を用いた、遠距離網膜スキャナーの使用についての許可だ。

 現在、ウェアラブル端末を身に付けた我々テロ対策班だけが、全員の持つポインタースキャナーの発する光線を見る事が出来る。戦後に施行された移民対策の一環として、全国民と合法入国した移民の網膜情報が警察本部のサーバーに取り込まれている。施行されたのは三十年以上前なので、それ以下の年齢の国民は全員、個人番号と紐付けて管理されているのだ。

 しかし、と私は不安を募らせる。

 前科があれば、すぐに警備班が地元警察官と協力してその不審人物に同行を強要出来る。あまり得策とは言えないが、既に厳重警戒中の看板は各所に出しているのだから、こちらとしても言い訳は立つ。それでも、こんな原始的かつ不確実な手段でしか警戒が出来ないものかと思わずには居られなかった。



 忌み地と呼ばれる神社やお寺、騒音の懸念される学校の近くの土地は、しかし現代の住宅事情の都合上、明確に一般家庭の家屋と距離を置いて設けられるケースは少ない。それこそ、レベル3であればそうした騒音の多いテナントや施設を一つのフロアに集中させて集客やインフラを整える事も出来るが、下層民にとっては夢のまた夢の話である。

 だから、ひーちゃんの葬儀会場も彼女の住むレベル1住宅棟内部にある施設を用いていた。場所と、行われている式の所為で、昼間でもあまり人が寄り付かないワンフロアの一角だ。私はID認証を済ませて会場へと入る。中は白と黒一色で飾り立てられ、小学生の時に死んだおじいちゃんの葬式を想起させた。お香典を渡し、人気の少ない議場をゆっくりと歩く。そうして、ひーちゃんのご両親を見付けた。生前はなかなか会いに行く事は出来なかったが、去年頃まではよくお世話になっていた。二人に挨拶をすると、二人はさめざめと泣きだす。

「本当は、皆に来ていただければ良かったんですけどぇ。娘が、あんな有様でしょう。クラスの方全員にお顔向けが……」

 悔しそうに、おばさんは声を絞る様にそう話した。そこから先は、言葉に出来ない様子だった。

 本当は、お焼香以外にも色々したかった。別れの挨拶とか、鞄の中に入れたひーちゃんの好きなアニメキャラのぬいぐるみを入れたりとか。

 でも、棺は全て固く閉ざされていた。外界との接触を一切断ち切るかの様なその断固とした様子は、私に威圧感さえも与える。

 私の他には、学校の先生と校長教頭、ひーちゃんの中学校時代の友達など、数える程の人しか来ていない。しかし、これはひーちゃんの両親が望んだ事だ。私の他にここへ来なかったクラスの同級生達の事も、これを原因に責める事もしない。

 ただただ、人を一人亡くした、という事実だけが、私の胸を締め付けた。

 今、美里ちゃんはどうしているだろう。結局、彼女から返事は来なかった。恐らくは仕事のスケジュールがかなり詰まっていたのだとは思うが、それでもメッセージに既読の表示さえつかないのは、かなりおかしいと感じていた。それでも今日の、フジカズによる記者会見には出席するらしい。ニュースではそんな情報が流れている。クラスのみんなはきっと、葬儀になんか来ないでこっちに来る人も居るんだろうな。授業を抜け出して。

 ……そうだよね。

 私は、それでも少しやりきれないものを感じた。

 議場を後にした私は、クリーム色のカーディガンを羽織り、エレベーターへと向かう。大葉家から五十メートルも離れると、そこは何処にでもあるレベル1のいつもの住居棟と何ら変わらない、当たり前の光景が広がっていた。でもひーちゃんは、もうこの当たり前を目にする事が出来ない。見る事が仮に出来たとして、麻薬でおかしくなってしまった彼女がそれを当然の光景と受け止めるかどうかは保証出来ない。

 狂った彼女は、自分に素直になる事が出来た。人の目を気にしなくなった彼女は、狂ってしまったとはいえ素に近い自分を曝け出す事が出来た。そう好意的に解釈しておこう。そうでなければ、やっていられない。

 私はエレベーターで一階に降り、空調チェンバーから外に出る。私と同じく外に出た二十人程の住民は、各々の道を進んで行く。私は一度立ち止まり、端末を操作してフジカズの会見告知の記事に目を通す。やはり、何度確認しても間違い無い。科学未来館だ。

 何故、実験の経過報告に科学未来館なのだろう。未来館の公式ホームページを覗くと、確かに会見のスケジュールを大々的に告知している。明らかに、ネット放送で今までに見て来た記者会見会場とは趣が違っていた。が、その或る種の不信感さえも、ホームページに記載されている会場の写真を見て粗方どうでもよく感じられてしまう。

 映画の先行上映試写会やそのスタッフ登壇会場の様なセットが設けられているその画像を見ては、私としてはちょっと……いや、かなりの興味を掻き立てられる。

 行こうかどうしようか、と実のところ少し迷っていた部分があったのだが、美里ちゃんにも会えるだろうという希望的観測を抱いていた事も含め、これが判断材料の最終決定事由となった。

「四十分くらい、か」

 電車の時間を調べ、私は午後の簡単な予定を頭の中で組み立てた。



 瑞希が、珍しく私の車椅子を押してくれた。いつも使っている電動式の車椅子ではなく、非常用にと玄関脇の空き部屋に放置してあった、手押し式のアナクロな車椅子をわざわざ引っ張り出して、瑞希が「これ、使おうよ」と言ってきたのである。

 お前に迷惑が掛かるし、それ以前に私の労力が増えてしまう、と答えたものの、瑞希は明るい口調で、珍しく意見を押し通した。「私が押すから! 絶対押しててあげるから!」

 その言葉と熱意に押されて私は負け、ちょっと尻込みをしながらも瑞希の意見を聞き入れた。そして実際、彼女は私の傍を片時も離れようとしない。トイレでさえも中に入って来ようとしたので流石に止めたくらいだ。

 科学技術未来館のフロアをのんびりと進んでいると、瑞希は顔を輝かせながら、あれもこれも、と興味を惹かれ、目移りをする。その度に私は「寄って行こうか」と口にした。恐らくだが、私自身がそこへ行く意思を見せなければ、瑞希は口で言うだけで私を置いて行く事が出来ないのだろうと、なんとなく感じ取っていた。

 そして、改めて考える。果たして、瑞希は今本当に幸せだろうか、と。

 傍目には、車椅子に乗った老人と連れ添って歩きながら買い物を楽しむ、普通の親子に見えただろう。だが実際のところ、私は瑞希にとっての足枷としかなっていない。彼女は自分の欲を押さえ込み、私の為に時間を費やし、自分の行動を制限している。この関係は、本当に彼女にとっての奉仕なのだろうか。

 先週考えた事について、私はまた悩み始めた。否、ここ最近はずっと、瑞希の幸福について考え続けている。

 ここへ来たのも、根源的に言えば瑞希の将来を考えての事だった。新薬がもし一般層に普及すれば、きっと予防接種の血清も作られる様になる。それを瑞希が摂取すれば恐らく彼女は、かつて私が子供だった頃の様に、長く慎ましやかに生きる事が出来るだろう。新しい旦那を見付ける踏ん切りもつくかもしれない。

 あの薬は、希望に違いあるまい。例えそれが一見して冒涜的な存在であろうとも、多くの人間にとっては生きる望みが生まれるものな筈だ。

 だが一方で、それが容易に叶わぬ夢だという事も理解していた。外資系の証券マンだった私が世界情勢についてあらゆる情報を仕入れていたあの時代、民間の機械工学部門や研究開発機関が公表した初期モデル……特に人命救助や災害対策用のロボットの運用や最新の防護用品の試験的運用は、全て国家規模が大きかったり、GDPの高い先進国へと優先的に配備されていた。本当に必要とされる事が多い後進国や民間への供給は、滅多になされない。

 豊かで恵まれている人間程、豊かになる機会を与えられる。

 それは当然の事かも知れない。だが、そんな当然の事をおかしいと思った私の感覚が間違っているとも考えていない。それでも、考えるだけで行動を起こせなかった。銘柄を売り、胃を痛めながら家族を養う事が私にとってのプライオリティだった。決して、不自由でありながらそれを口にも出さない瑞希の様な、自己犠牲の精神を持てる人間などではない。

 そこまで考えて、私はハタと思い至る。私は、自分自身が足枷になっている事を理解しながら、なんだかんだと言い訳を並べ立てて現状に甘んじているだけだ、と。

 国は、私にあの薬を使う様に求めてくるだろうか。大気毒の末期型麻痺患者としての研究成果は、もう十年程も続けた研究で十分得られただろうか。それとも、まだ経過観察レベルの話でしかないのだろうか。私は、国の研究に役立っているだろうか。

 だが、その全てがどうでもいいと思えた。

 私が自己犠牲をしても救いたいと叫ぶ事が出来る相手は、娘の瑞希一人だけだ。

 宇宙食を買って、これマズイねー、と瑞希笑いながら食べる。私も釣られて笑ってしまった。でも私達はお互いに、心の底から笑い合えてなどいない。私がわざわざ今日この場所に来た心理を、瑞希も理解しているだろう。

 私達は笑い合い、話し合い、思いやり合う。

 それが間違っているのだとすれば、なんと残酷な事だろうか。

「会見、そろそろ始まる頃だね」

 瑞希は腕時計を見て言った。


 大掛かりな罠ではないかと疑ってしまう会見の場所。余りにも、不特定多数の人間からの脅威に対して無防備に過ぎると思えた。だが例え罠だとして、俺達は計画を変える事はしなかった。幸いにも、今日は国内外からメディアが大勢駆けつけている。無論、フジカズの研究成果(いや、経過か)を世間に広める宣伝効果が期待された。

 だが同時にそれは、『渚』の存在を全世界規模で広める事が出来るという意味も含んでいる。

 例え世界のどん底に居る様に思えても、それなりにチャンスを掴む機会のあるところが、この国の利点だろう。閉鎖的な国民性故、自分達は大丈夫、の精神が一段と強い。具体的な危機を、身を以て体験しなければ、強固に対策を練る事は難しい。

 だからこそ、連中に今こそ訓戒を刻み込んでやろう。

 それは、最早責務にも近い。そう強く思っている。今、近くの最新オーディオ機器の展示場から少し離れたパビリオンを、テナント越しにこうして観察している今も、その意思は揺らいでいない。揺らいでいるのは自分の意思と信念ではなく、雨宮を信じる忠誠心だ。

 失敗の許されない今回の計画には、最も信頼出来る人間を実行部隊の核として選出した。彼は、俺が一年以上目を掛けてきた人間で、雨宮を心底崇拝している。その忠誠心の高さ故に勉強熱心で、上手くすれば俺よりも雨宮の言わんとする事を汲み取って行動に移す事も出来るだろう。だからこそ、身の危険を顧みない彼を適任として選んだ。

 何の犠牲や対価を支払わずに得た報酬は仮初めでしかなく、遠からぬ将来に脆くも崩れ去る。俺達貧困層は、それを知っているからこそ犠牲を払う事を選んだ。そうすれば、その犠牲がきっと報われるものだ……そう信じる事しか出来なくなっていた。

 今回、『渚』は大きな犠牲を払う事になる。だが、その犠牲で俺達は更なる高みに。次のステージへ進まなければならない。

 なのに、俺はこの活動を支えている中心人物に疑念を抱いている。

 高校時代にレベル1に住んでいる友達を侮辱し、苛烈ないじめをした上級生に猛烈な怒りを感じた時。妹の必死に勉強しているその努力を、所詮貧乏人だからと嘲ったバイト先の上司に怒った時。物腰こそ丁寧でありながら、金持ちに配給を優先する役人達の戦時中映像を見た時にやる瀬無く感じた時。その時と同質の、雨宮と共に立ち上がろうという熱い感情が湧き上がったのを覚えている。

 だがこの前、俺に今回のメンバーを選べと言ったあの男は、俺が今まで憎んできた、弱者を踏み躙ってきた連中と同じ事をした。そしてそれに従い、俺も同じ事をした。

 正義に敵対するものはもう一つの正義である。……大昔の誰かがそんな事を言っていたけれど、そのお互いの正義を否定し合う事で俺達は自我を保っているのだ。

 ならば、愚直に、真っ直ぐに、自分の正義を信じるしかないだろう。もう一つの正義とやらに常におもんぱかっていては、中立を守ろうとして何も出来なくなる。行動を起こせなくなる。それは、特に俺達が一番やってはいけない事だ。

 何を信じて行動するか。誰を信じて行動するか。

 その二つは似ている様でいて、天と地ほども違う。

 俺は、ちゃんと違いを理解して、尚行動している。

 だから、『俺だけは違う』のだ……

 コンポが、ダウンロードされている全曲データの再生を終える。と同時に、店内の時計が十四時を指す。

 始まる。

 俺はショーウィンドウ越しにパビリオンを眺めながら、壇上に上がる関係者達を睨みつけながら、コンポの再生ボタンを押した。

 その瞬間、視界の隅に影が映る。ハッとして視線を動かし、そして体が凍りついた。

 秋穂! 何故、お前がここに居る!

 成長した妹の姿は、俺が三年前に家を出た頃の面影をまだ残していた。



 壇上に上がった役員の顔ぶれは、皆若かった。こうした場では発言に説得力や責任感を印象付ける為、役員クラスの中高年が出席する事が多いイメージだが、『渚』の行動を恐れ、尻込みしているのだろう。若いフジカズ社員六名の顔は、一様に悪かった。

 哀れな話だ。やりたくない事を真っ先に若手に押し付けて一流企業の仲間入りをしているのだから、ほとほと頭が下がる。まあ、そうやって商売しているところが殆どではあろうが。それでも、まだ年の若い彼らの年収を思えば同情には十分値する。

 そうこうしている間に、会見は進んでいく。若い中でも一番役職の上らしい男が、冷や汗を流しながらゆっくりと原稿を読み上げていた。

「今週の火曜日、被験者五名に新薬、UTP二〇三を投与致しまして、新陳代謝のサイクル速度を比較計測したところ、既に通常の一・六倍まで加速しておりました。毛髪の生え変わりや皮膚の老廃物量も若干の増加が確認されております。テロメアの分裂回数も、被験者の年齢相応の回数に落ち着いており、今の所、生命活動に脅威を与える様な危険因子は確認されておりません。一方、弊社研究開発局で確認した、大気中に含有される毒素・ソフィロニオシス一〇三を無効化出来る新細胞の誕生は確認されておりません。しかしながら、新細胞製造の為に必要な体内の栄養素や遺伝子配列の組み換えが始まっている痕跡は確認されております。よって今後の展望としては、約四週間後に被験者体内の全細胞の内、一パーセントが新細胞として作り変えられると、先のチンパンジーを使った実験の経過観察より推測してます。次回の会見を行う場合、この推測時期範囲内に……」

 と、壇上後部の立体スライドを使いながら、フジカズ社員が淡々と説明を続ける。途中何度か言葉に詰まったり言いよどんだりはしているものの、概ね滑らかな進行と言えるだろうと、素人目にも判別出来る。

 だが、私達の仕事は素人目に判断出来ない。吹き抜けの二階ホール上から、少しでも怪しいと思った人間の目をポインターでマークし、データサーバーにもうまく情報を転送する。十秒もすれば、ポイントされた人間の個人情報がウェアラブル端末のグラスに表示される。

 五人、六人、七人。他の捜査員がポイントした人間の情報も流れてくる。会見が始まって十分近くが経過して十三人の人間をチェックしたが、まだ具体的なアクションを起こす奴は居ない。

「おい。この網膜スキャンシステム、一般には認知されていないんだよな?」

 小声で無線機に声を送った。部下の一人から返答があった。『はい。ですが、都市防衛対策案の大衆への認知義務があったので、システムの仕組みを仮想的な案という体で、簡単なシステムフローは一般に公開しています』

「じゃあ『渚』がそこからシステムの存在を知って対策を立てる可能性もあるか?」

『有り得ません。公表したのは、あくまで個人データと身体的特徴を結び付ける技術についてです。公表資料に例として出しているのは静脈検査についてで、特定の機器で直接スキャンしなければならない、という文言を付け加えています。直接機器に触れなければならないというミスリードを誘発する様書いてあるので、こうして非公式に使われるものだという認識は一般人には無い筈です』

 では、敢えて何もしてこないだけか? タイミングを見計らっているだけか? だとすれば、何故?

 壇上には、フジカズの社員。そして特別枠扱いとして、ドレスアップして傍に立つ大川美里。この後フジカズの宣伝でもするのだろうか、彼女はこの前プロモーションしたガスマスクを手に持っている。

 そして、彼らには全国及び一部海外の取材陣が、カメラを回している。全世界に配信中のその映像を通して、『渚』は絶対に何か仕掛ける筈なのだ。

 改めて注目される瞬間を待っているのか? だとしても、今の今まで何の挙動不審も無しで立っている事など……

 そこで私はハッとして、一つの可能性を思いついた。マイクに声を送る。

「技術の流出はあったか?」

『何ですって?』

「技術が確立してから、技術が盗まれた、或いは設計や開発に関わっていた人間が海外に仕事を移したケースは? それこそ、海外の大手に引き抜かれて似た様な技術が他国で取り入れられたケースはあるのか?」

『分かりません。ただ、引き抜かれた技術者だけなら……当時のシステムモデルを組み立てた人材は、殆ど国外に出ていると思われます。なにせ、この国ですから』

 セキュリティばかりは頭でっかちに強化されているこの国だが、もしも一度国外に情報や技術が流れれば、相対的にセキュリティのレベルは低くなる。そこから、一度でもテロリストや過激派に情報が漏れ、戦後の移民制限緩和で流入した移民からの情報逆輸入があったと仮定すると……

 この国に、確かな事は何一つ無い。

 だが、今は逆に、だからこそ推測し得る手段を取れる。私は伝達した。

「各位。目を伏せがちな奴や帽子を目深に被っている奴を優先的にチェックしろ。挙動不審か否かは問わない。全員だ」

『了解』

 返答が返ってきて、ものの十数秒で情報が次々と端末に流れてくる。

 すると、一人の情報がヒットする。

 大谷幹也、三十三歳無職。十年前にアポカリプス終末論を唱える救世宗教に傾倒し、手製の爆弾を作成して駅で爆破させようとしたところを確保して逮捕されている。『渚』が関わったとされるショッピングモール爆破事件で発見された不発弾の特徴から関与が疑われていた男だった。今、記者団を囲む一般市民の人垣真ん中辺りから、目深に被ったニット帽越しにじっと登壇者達を見つめていた。

 一見した感じでは全く不審な点は無く、物珍しさに人垣に集まっているだけの一般人とまるで変わりが無い。その余りの自然っぽさに、私は判断を躊躇する。

『声を掛けるか』

 キリオがマイク越しに訊いてくる。私は慌てて返答した。

「待て、一階の捜査員が動いたら勘付かれる。目を離すな。ただ、その場から壇上に向かって歩き出すなどの行動を取った場合速やかに拘束しろ。射撃許可も出ている」

『了解』

『各位。また新しい情報です』

 本部からの新しい通信だった。私達は、端末の表示を素早く見比べ、該当の人物を探し、そして見付ける。

『どう見ても、まだ成人したてですって感じだがな』

 キリオが呟く。真っ黒なドレスにクリーム色のカーディガンを羽織り、物憂げな表情で壇上を見ていた。長谷川秋穂、と端末に名が出ている。『こいつの何処が?』

 キリオが呆れると同時に、端末に追加・補足情報が入る。どうやら彼女の兄・夏樹が『渚』の活動に加わっているらしい。過去の『渚』関連の事件が起きた現場の監視カメラ映像に、彼の姿が残っていたのだ。しかも、地下鉄やショッピングモールなどの閉鎖空間での陣頭指揮をしている中核人物の一人と推測されている。

「本当に関連性はあるのか? たまたまかも知れない」

 言うが、即座にキリオに言い返された。

『今の状況で、あらゆる可能性は視野に入れておくべきだろう。何も知らずに、兄貴とメッセージのやり取りをしてるかも知れない』

 その言葉は否定し切れなかった。私は嘆息し、指示を出す。

「あの子だけを連れ出す事は出来るか?」

『可能です』

「丁重に扱え。だが、あの子が完全に無関係とも言い切れない。連れて行く時は、目につく所持品だけでも預かれ」

 彼女は、隣に立つ恰幅のいい男と何か会話をしている様だった。



 新薬、新細胞、新体組織。様々な情報と単語が入り乱れるが、丁寧な説明は私の耳にスラスラと入ってくる。細胞組織のメカニズムもしっかり分かればより面白いのだろうけれど、正直、今はそっちに興味は無い。私はただ、壇上の端で一人立っている美里ちゃんだけを見ていた。

 着飾っている、という程派手な衣装は流石にしていないが、色のコーディネートやメイクは明らかに一般市民ではなく、広告塔としての価値を求められているものであった。

 凛とした佇まいは、それだけで人目を引く。彼女よりも美しかったり可愛かったりする女優やタレントは沢山居るだろうが、先日美里ちゃん自身が語った通り、誰かを助けになりたいという自発的な行動を取った芸能人として、その姿は広く認識される事だろう。

「如何です?」

 と、小さく横から声を掛けられた。驚いて首を動かし見上げると、そこには八嶋さんが立っている。ポッコリと出たお腹が押し上げるワイシャツをさすり、壇上の美里ちゃんを見やりながらもチラチラと、反応を伺おうとしているかの様に私の方を見てくる。

 この人は、ネット放送局のプロデューサーではなかったのか。しかも、ニュース系の番組にはあまり力を入れていない局の筈だ。確か十年前、偏向報道が過ぎて電波法に引っ掛かり処分されている。前も、美里ちゃんの居る撮影現場に、肥満体の体にはいまいち似合わない小さめのマスクをわざわざ身につけてまで現場に来ていた。正直、プロデューサーの仕事ではない様な気がする。

 それでも社交辞令として簡単に会釈と挨拶を済ませ、私は小声で訊いた。

「どうして、ここにいらっしゃるんですか?」

「そりゃあ、あの子が気になってね」

 言いながら、壇上の美里ちゃんに目をやる。彼女は緊張からか、私達二人には気付いていない様子だ。「こんな訳の分からない実験に参加するなんて唐突に言われた気持ちを考えてごらんよ。居ても立っても居られない」

「人助けをしたいからって、美里ちゃんが望んだ事なら尊重されるべきでは?」

「結構ませてるねぇ、君」

 と、年長者が若輩者を見る、あの特有の優越感に満ちた目で私を見る。人の意見を聞かないタイプの人間が良く見せる仕草だ。八嶋さんは続ける。

「社会に出たら、個人の意見は会社の二の次に考えなきゃ駄目なんだ。学生の内じゃ、それがまだ出来ない。大川君も事務所に在籍する芸能人なんだから、個人の感情よりも優先すべき事があるんだよ。私が彼女を抜擢したデビュー作以来、ほぼ契約はウチの専属みたいな状態だから、勝手な事をされると困るんだ。君も、彼女に何か言ってやってくれないかな。君は、他の高校生とは違ってとても聡明な印象を受けるよ。ええと、名前は……」

「申し訳ありませんが、美里ちゃんの決めた事を私がどうこう言えません」

 何となく名前を教えたくなかった。今なら、先日美里ちゃんがそうした理由が分かる気がする。何より、全時代的な考えをまだ口にする目の前の男が信頼し切れなかった。働き盛りの人口が激減している現代で人手の確保は難しく、規模縮小せざるを得なくなる企業が二十年以上前から増え続けている今、狭き門を目指す強い意志を持つ者以外にとって企業とは『こちらが選んでやる』対象であり、生きる為に仕事をしたいのであれば特に職を選ぶ必要も無く仕事を見付ける事が出来る時代になっているのだ。いわゆるブラック企業は、半世紀前の『大災厄』を機に減少を続けている筈なのだが、まだまだ倍率の異様に高い業界では、こうした殿様な役員が多い様だ。

 八嶋さんは少し不思議そうな顔をして、まあいいや、という風に話を続ける。

「きっと君も働く様になったら分かるよ。どうしても会社の為に妥協しなきゃいけない時は来るし、自分の好きな事をして生きてるんだから、例えば報酬が少なかったり不当な言葉や行為をされても我慢しなきゃいけないし……」

 流石に私は耐え切れず、言い返そうとした。

 言いたかった。罵倒してやりたかった。

 好きな事を仕事にして、何が悪いんですか?

 彼女が自分で選んだ仕事を、誰が笑えますか?

 仕事はキツくて嫌なものだって決めつけて、逆にそれを楽しんでる人には罰を与えなきゃ気が済まないんですか?

 仕事に対して報酬を値切ったり心無い言葉を浴びせられるのが、当然の事ですか?

 仕事で成果を出す為に、何十、何百時間を費やしたり、信頼出来る友達を失い続ける過去は無視ですか?

 苦しんでいる自分は、偉いですか?

 仕事をする上で道理や理屈は必ずあるでしょう。逆らえない事もあるでしょう。それでも正しい事をしたい、と願う人は異端者ですか?

 自分と違う道を進んでいる他人が憎いですか?

 逆らえない人間を追い詰めるのが、大人として正しいんですか?

 本当の彼女を見ようとも、知ろうともしないんですか?

 理解出来ない他人を糾弾するのが正義ですか?


 魔女を殺して、楽しいですか?


 ……胸に浮かぶ言葉の数々を、それでも私は言葉に出せなかった。他人に拒絶される魔女になるのが怖かった。学校で、既に私は魔女にされ、いわれの無い迫害を受けている。言葉を上げても、もうきっと誰も聞こうとしてくれない。私一人の力では。家族も沙織ちゃんも隣に立っていない美里ちゃんも、きっと同じ境遇だ。

 今彼女を味方しなくて、何が友達か。

 そう強く強く思っているのに、言葉を紡ぐのが怖かった。

 私は、ただ……

「もしもし」

 そんな時、私に声が掛けられた。滲む視界を動かして振り返ると、やや見上げる位置に見知らぬ男の顔があった。優し気な顔をしているが、目つきが少し険しい様に見える。

 少々よろしいですか、と小さく声を掛ける彼に対して、私は警戒心を高める。だが、親切な態度を取って「どなたですか、いきなり」と男に声を掛ける八嶋さんの方が信用出来ず、私はすい、と彼から遠ざかり、寧ろ男に体を寄せた。そうして、「何でしょう」と淡々と男に言った。彼は八嶋さんと私を一瞬だけ見比べた後に、ちょっと向こうでお話を伺って宜しいでしょうか、とスーツの背広をめくり、懐から警察手帳を覗かせた。

 即座に自分が数カ月以内にした事を振り返るが、犯罪を冒した覚えは無い。私は八嶋さんから離れたい気持ちもあって、ええ、とすぐに頷いた。

 人混みを抜け、壇上から五十メートルも離れただろうか。ちらりと後ろを振り返ると、人垣から離れる姿は目についたのだろう、私の方を見ていた美里ちゃんが、私に小さく手を振ってくれた。私は両手を大きく上げ、遠くからでも目立つ様に大きく両腕を振った。

「お知り合い?」

 先を歩く男が、私達のその様子を見たのだろう、尋ねてきた。私は微笑んで、「友達です」と答える。自信を持って意見を言うのは、随分と久し振りな気がした。羨ましいですね、と男も笑ってから、少し人通りの少なくなった展示館の前のベンチに腰を下ろす。ちら、と周囲を見回すと、ベンチから離れた場所で雑誌を読んだり端末に目を落としたりしている男達の姿があった。皆、ちらり、と一瞬だけこちらを見て観察している様だった。私が目を合わせると、皆急いで手元の文字に目を落とす、様に見える。

 映画で良く見る奴だ、とちょっとした非現実的な興奮があり、ドキドキしながら腰を下ろそうとした。その直前、いつの間にか後ろをついて歩いていた女性が、持ち物をお預かりしていいですか、と訊いてくる。少し躊躇ったが、端末以外なら、と断り、ハンドバッグと、カーディガンを入れていた紙袋を手渡す。そうして、ようやく腰を下ろした。

 何を聞かれるのかしら、と寧ろちょっとした期待を抱いてしまう。男は少し声を落として、私に質問を始めた。



 計画では、俺はただ会場から離れた店の中から経過を観察し、必要に応じて大谷を始めとする実行班に端末で指示を出す。大谷を皮切りとして、雨宮の準備した爆弾を各員が一斉に起爆させ、ベアリング代わりの釘が計六千本、聴衆を直撃する。それがプロットだった。

 俺の役目は、あくまで監視に過ぎない。特攻し、死んだ者達を看取り、その活躍をメンバーに伝え、『渚』の信念は何があろうとも生き続けるという、その証を知らしめねばならない。

 俺は、生き抜かねばならない。その為には、誰にも見付からない事が寛容なのだ。だが、俺の関心は既に『渚』の行動理念に向いていない。ただ、妹にだけ意識が集中してしまっている。

 俺が家族の食い扶持をろくに稼げなかった所為で、妹は大学進学の道を諦め掛けた時があった。いじめや不当な暴力を見掛けたらすぐに彼らを助けようと手を出していた俺は、高校さえも満足に卒業出来ず、冴え渡る自身の頭を呪った。だから俺は家を出て家族の食い扶持を減らし、ただの犯罪者として生きる事に決めたのに。

 俺が今の道を選んだのは、妹に大学に行って、立派になって欲しかったからなのに。

 何故お前は、ここに居る?

 張り込んでいた警察関係者らしい男に連れられて、秋穂はさっさとその場を離れてしまう。

 秋穂、お前はこんなところに居ちゃいけない。もっと『まともな』場所で『まともな』生活をして、『真っ当に』生きろ。

 ここは、すぐに地獄になるのに。

 でも、俺は妹を助けられない。俺は大義の為に、敢行せねばならない事が……

 大義? 誰の為の?

 俺自身の? 『渚』の為の? それとも……雨宮の為の、大義か?

 俺は……誰を守りたいんだ。

 迷いは、決断を鈍らせる。まだ引き返せる、まだ引き返せると、俺は足を動かしてしまう。テナントからふらふらと、馬鹿丸出しで出ていく俺を、捜査員らしい男達が指差しているのが視界の隅に映った。『渚』にとっての一大事になっているのは、重々承知だ。決行前に自体を推測されるのはまるで望ましくない。だが俺はそれでも、その場から逃げる事も出来ず、ただ数十メートル先で捜査官の男と話をしている妹だけを気にした。

 俺の姿を、捜査官が見付けた。男と話していた秋穂が、ゆっくり振り返ろうとして……


 ごほっ


 咳が聞こえた。俺は振り返り、会見会場を囲む記者団と人垣を見つめる。咳は、一回では終わらなかった。ごほごほ、ぜいぜい。一人、また一人と、咳を始めて。

 おかしい。俺を含めた『渚』のメンバーが二人、動揺した気配を見せていた。だが一方で、大谷他数名の表情は静かなものだった。記者団に紛れ込んでいる羽鳥も、咳をしながらただ真っ直ぐ壇上を見ている。

 皆が異変に気付き始める。ざわめきが始まった。誰も彼もが咳を始め、そして俺も、喉にヒリヒリする熱を感じて思わずむせてしまう。一度咳をし始めてしまうと、なかなか止まりそうになかった。そして、痰が絡みつく様な咳を一つして、口の中に変な味が広がった。口を押さえた手に、何かが付着する。

 俺の手には、血が少量。

 この瞬間に初めて、俺は理解する。大気毒だ。

「おい!」

 咳き込みながら大声を上げる男。たった今まで秋穂と話していた私服姿の警察と、その他男女二名。皆、口元を左手で押さえながら俺を見ている。右手には、スタングローブを嵌めていた。軽く一回でも殴られれば、ただでは済まないだろう。

「『渚』の構成員だな、この事態は……何だ!」

 咳き込みながら、血を吐きながら訊いてくる。俺はただ困惑した。咳き込んで俺も答える。「し、知らない! 俺もこれは……!」

 同時に、大谷の叫び声が響いた。人垣の中で、両手を広げ、吹き抜けホールの高い天井を見上げて目を見開いている。だらだらと流している唾液が、既に大谷の精神状態が異常である事を示していた。

 あいつ、麻薬を吸ったのか!

 死への恐怖を紛らわせる、悪魔の薬。大谷はそれを服用していた。そんな彼が来ていたアウターの下から大量のガラス瓶と、そこから伸びる、先の無い管、そして大量の釘袋を巻きつけたTNT火薬が姿を見せる。大衆とマスコミが、目とカメラをしかと彼に向けたのを確認し、悲鳴に近い雄叫びを上げながら、計画通り、大谷は起爆スイッチを躊躇い無く押した。

 爆発。爆風。

 釘は四方八方に飛散し、人体の肉を抉り、建築資材に穴を開け、鋭い傷を付ける。人々の悲鳴は爆音に掻き消され、耳鳴りがそれに続いた。それでも、その爆発に呼応するかの様に、実行班の残り三人が次々と叫び、体に巻きつけた爆弾を爆発させる。皆の体には俺の聞かされていない、爆薬以外のガラス瓶がやはり巻きつけられていた。

 俺や他の監視班は、ただ戸惑うばかりだった。大谷に一番近かった監視班の姫坂は釘とガラスが両目と喉に突き刺さり、壁に叩きつけられたショックで腕一本動かす事も出来ずに、ただ体を痙攣させている。爆発の真ん中に居た記者団や人垣の観衆の中で、無傷の者は一人も居ない。腕や足が引き千切られても尚死ねず、毒に肺を犯され血を吐き続ける者も居る。俺の近くには、誰のものとも分からない腕が転がっていた。そのすぐ傍には、釘に貫かれて壊れてしまった、誰かのガスマスク。そこで、俺は顔を青ざめさせた。

 俺のマスクは?

 爆発でどこかに吹っ飛んでしまったらしい。腰から下げていた筈の半面マスクは無く、周りを見渡してもそれらしいものは何も無い。吸収缶が壊れていたり、面体が破損していたりと、機能に意味を為さなくなっていたのだ。それでも、咳は止まらない。

 悲鳴と、現場から逃げ惑う人々を尻目に、俺は妹を探そうと立ち上がる。が、ガラス瓶の割れた破片が脚に刺さっていて、思う様に動けない。

 端末が通話の着信を告げるベルを鳴らした。はっとして、痺れ始めた右腕を何とか動かし、俺は通話ボタンを押した。相手は雨宮だった。

『やあ。ニュースを見てるよ。決行時間まであと三分あった筈だけど……今どうなってる?』

「雨宮! 爆弾自体は爆発させたが……大気毒が、何故か館内に充満し始めて」

 酷い咳をしながら報告した。あまりに予想外の出来事で、どう説明したらいいのか分からなくなってしまう。だが、雨宮はあっさりと答えた。


『知ってるよ。何人殺せた?』


 え、とその言葉に困惑し、一瞬だけ咳も忘れてしまった。二、三秒程経ってからようやく言葉をひり出した。「何だって?」

『実行部隊は、君が選出した忠誠度と洗脳レベルの高い構成員だろう? 仲間と共に戦うというより、僕に仕える事に喜びを見出すまでの忠誠心だから、彼らだけに特別な任務を与えた。毒の散布だ。人工精製した大気毒を閉空間である屋内で散布し、毒による命の危機を実感させる。それから君達もご存知の爆弾を爆発させる事で、早期の治療やガスマスク装着による被害防止の可能性を少しでも捻り潰す。他にも、君達は知らないだろうけれど、その科学技術未来館の各所に毒ガスを入れたガラス瓶を服の下に沢山ぶら下げたメンバーが歩き回っている筈だよ』

「何故こんな事を!」

 思わず口をついて出た。どれだけ死を覚悟していても、予測していない死の脅威に対しては誰しも生命への執着を本能的に選択してしまう。俺のそんな言葉に、電話口の雨宮は少なからず驚いた様子だった。

『そんな言葉を君が口にするか。というか、分かってないのか? 「渚」の理念は、人は大いなる自然の意思と運命に従い尊厳を持った終末を迎えるべきだ、というものだろ? その為に、犠牲者達は主として大気の毒で死ななければならない。しかも今回は屋内だ。この機会を逃す訳がないじゃないか』

 不思議そうに話す雨宮の言葉は、途中で何度か途切れて聞こえなくなる。自分の咳と、阿鼻叫喚とで掻き消えてしまうのだ。俺の咳や仲間の姫井は聞こえている筈なのに、雨宮は平静と変わり無い調子で話を続けた。

『ソフィロニオシス一〇三は先の大戦時代に、酸素と結合する人工元素が偶発的に結合して発生し、葉緑素を介した光合成により爆発的な増殖をして世界に広まった。それは知っているね? 軍事機密としてその人工元素の名称も製法も一切世間に出回っては居ないけれど、三年前に大林公彦知事が掲げた技術開発職への支援条例を公表した直後、制度を利用して政府と癒着した企業が幾つか摘発され、倒産しただろう? あの頃、表にこそ出なかったものの、政府との癒着で技術や機密をこっそり手に入れた企業もあったんだ。それが、僕の父親と彼の経営するガスマスク製造会社だ』

 脚に力が入らず、壁に寄りかかって膝をつく。大きく咳き込むと同時に、針を突き刺された様に肺が酷く痛み、せり上がってきた血を吐く。さっきよりもずっと多い。鼻血も出始めている。それでも、俺は端末の電話を握り締めて話さなかった。話は続く。

『何故人々の安全を守る会社が、と思うだろう? でも、企業理論をこそ言えば、これは或る側面では父に必要なものだった。医療で言えばもっと分かりやすいかもしれない。もしも風邪を完全に治す薬が存在したら、同時に「風邪を流行させる薬」も作らなければならない。それが市場原理だ。需要と供給のバランスは常に一定に保たれなければ。だから父は自分が食っていく為に、人を殺すものと人を救うもの、両方の生産を続けていた。……商売だ、ってのは僕も分かってる。理屈も理解出来る。でも道理はそうじゃなかった。それが間違った行いだというのも分かっていた。人が生きるべき「本来の姿」からはかけ離れた醜いその姿が心底嫌になって、僕は「渚」に入った。父とその会社を利用する事で、組織も資金も着実に大きくした。今回の大気毒、サボタージュに必要な道具や爆薬、ツテ。活動を活性化させる為に、積極的にアクションを起こしてきたんだよ。今回のソフィロニオシス一〇三と酸素の結合方法入手と製造実行もその一つだ。何と、光合成を介さない結合手段を取る事で、自然増殖しないソフィロニオシス一〇三を作る事が可能だと研究資料に書いてあったのさ。ただしこちらはどんな手段を使っても、二次的にソフィロニオシス一〇三が大気中で複製・増殖する事は無い。……それでも、今の君が居る場所で起こすテロには十分過ぎる程の特性だろう?』

 守りたい人が居る。滅ぼさなければならない連中が居る。正義を敢行しなければならない相手が居る。今の俺は、その誰にも手が届かない。ただどこまでも、俺が信頼するべき相手を間違えたという話。ああ、俺は間違えていたんだ。

 人は死ぬべきかも知れない。こんな、あからさまになったレベル分けをされた明確な格差社会で、必死に上へ行こうともがき苦しんで、それでも何も変わらない。個人が上り詰める事は可能かも知れないが、全体を等しく均一にする事は不可能だ。この五十年の歴史がそれを強く物語っている。

 俺達の今回のテロリズムを大衆が見知ったところで、彼らは何を感じるだろう。『渚』は悪だ、可哀想に、国はテロ対策に何をしているんだ、さあ仕事に戻ろう。それで終わり。

 せめて全体も周囲も変わらないなら、自分を変えるしかないのだろうか。だからこそ、無駄だと思いながら人は努力をして上を目指すのか。ならば、自暴自棄を起こして八つ当たりのようなテロリズムを繰り返す俺達は、努力を放棄した本当の負け組か。

 俺達は、何を目標に生きているんだろう。

 呼吸が一層苦しくなる。息をする度に喉が焼けた。それでも体は酸素を欲して、何度も何度も呼吸を繰り返す。視界が滲み始める。血の涙だ。体の自由が利かずに倒れ、それでも硬直した右腕は端末を握ったまま、俺の耳から離れない。

『人は、信念と理念の為に尊厳を持って死ななければならない。だから君も死んでくれ』

 その言葉を最後に、電話は切れた。だが俺は端末を耳から話す力さえ残っておらず、血を吐きながら床に倒れる。もう、俺の周りで動いている人影は殆ど無い。皆死んだか、逃げたかだ。

 妹。妹は、どうした。ちゃんと逃げたか。お前はちゃんと勉強して、みんなが無理だと笑った大学に行って、全員を見返してやるんだ。こんなところで死んじゃいけない。

 ……ああ、それが、『渚』の目指すべきものだったんだ。

 余りにも馬鹿げた当たり前の結論に至って、俺は体を震わせながら血の涙を流し続ける。そして、そのままここで生き絶える筈だった。

 朦朧とした意識の俺の顔に、誰かが、マスクをあてがった。何回か面体の中で呼吸をする内に、嘘の様に呼吸が軽くなった。それでもまだ喀血しながら、何とか俺は自力で腕だけをようやっと動かし、マスクを手で押さえられる様になる。

 誰が? 俺は開きにくい目を必死に開いて、顔をねじる様に上げ、膝をついて涙をボロボロ流しながら俺にマスクを当てる女性を見た。歳の頃は、四十前後というところだろうか。透明な半面体マスクの向こうで唇を強く噛み締め、しゃくり上げながら彼女は俺をじっと見つめていた。



 爆発が起きたのが先だと思った。だがそのほんの数秒前に感じた、肺を刺す様な痛みを伴う咳。それが、私の口から吐き出された。その瞬間に、痺れの残る右腕に大きく激痛が走ったと思うと、すぐに感覚が無くなってしまう。

 毒だ。瞬時に判断したその時、それ程離れていない人混みの中で爆発が起きる。人の体が丸ごと、もしくは体の一部が吹き飛ばされて、私と車椅子に激突した。大柄な体躯の男の下敷きになった私は、車椅子と挟まれる形で転倒したまま動きが取れなくなった。

 瑞希。瑞希は何処に行った。痛む首を何とか動かして周囲を確認しようとするが、中々体は言う事を聞かない。爆発は、いや、この大気の毒から、あの子は身を守れているのだろうか。

 のしかかる男をどけようとする。が、体の前半分にびっしりと砕けたガラス片が突き刺さっている男は完全に自力で動こうとする気配が無い。気絶しているのか、それとも事切れているのか。私は、非力な両手をいくら使っても、男と車椅子の間で横たわる仰向けの自分を救う事が出来なかった。

 ああ。私は、こんなに非力なのに、あの子を守ろうとしていたのか。この後に及んで、あの子や他の誰かの未来を守れられれば、などと抜かしていたのか。

 咳が止まらない。自身の無力を一層痛感する。ああ、と落胆から両腕の力が抜けて、男の体の全体重が私に掛かった。その衝撃で噎せると同時に、刺す様な痛みと共に咳と血が口から溢れる。目眩がして、目を閉じた。

 苦しいには違いなかったが、不思議と嫌な気分では無かった。

 だって、これであの子は……

 咳をもう一度か二度した時、私の顔にマスクが被せられる。何度か息をして、途端に呼吸が軽くなった。

 ハッとして目を開けると、そこには額から血、目から涙を流す瑞希が居た。

「今、今、動かすから」

 マスク越しのくぐもった声はやっとそう聞き取れるが、鼻水が詰まっているのだろう、声も顔もグシャグシャだ。血で汚れた手で何とか私に覆いかぶさっている男を持ち上げようとするも、右腕にガラスの刺さっている彼女の体では、到底無理だろう。

 こんな、将来の希望も何も無い老人を、父親だからという理由だけで、この子は必死になって助けようとしている。爆発でボヤが起きているのに、そんな危険を顧みずに。誰か、誰かと助けを求める彼女の声は、誰にも届かない。

「瑞希」

 自分でも驚くくらいに、漏れる様な小さい声で、私は娘に声を掛ける。「いい。いいから」

 ハッキリと、そう伝える。瑞希は、男を持ち上げるその動きを止めて、自分の耳を疑う様に私を見た。私は何も言わず、自分のマスクを取り外す。驚愕の表情を浮かべた瑞希は慌てて私の両手を押さえ、マスクを私の口から離すまいと力を込めた。だが私は首を振り、感覚の無い右手をゆっくり伸ばし、私達から十メートル程離れた場所で倒れている男を指差した。まだ若く、瑞希よりも年下であろうその男は、マスクを爆発の衝撃で無くしてしまったのか、血を吐いて苦しんでいた。右手で押し付けている端末の電話を今にも握り潰しそうな程力が篭っていた。

「私のを、彼に」

 尚も私は言葉にするが、瑞希はいやいやをする子供の様に首を振り、私に応えようとしない。だが、私はそれでも尚、強く言った。

「もう、私みたいなお荷物の事は忘れなさい。お前は、自由に生きていいんだよ」

 ここで私が死ねば、不幸な事故とみなされ保険金が入る。娘からはお荷物な家族が消える。掛かる負担や苦労が大きく減る。いい事づくめではないか。

 本当は、もっともっと昔に言ってやるべきだった。自分で死ぬ勇気が無くて、無駄に生きてしまっただけの事だ。私の長寿が人類の夢に貢献するかも知れない、などという文句を耳にするのも飽きてしまったし、そもそもだからと言って私がそんな不特定多数と人類の幸福の為にこの身を犠牲にする必要など無いのだ。

 きっとこの会見に来たのも、若い世代に用意された輝かしい可能性を目にしたい、という理由などただのどうでもいい理由付けに過ぎなかったのだろうと思う。私は、自分の汚れた晩節に清算をする為、運命的にここに来たのだ。

 だから、これでいいのだ。

 そりゃあ、長く生きられればそれがいいさ。働けなくなったその時にゆとりを持って暮らせる様に、人は働ける時に働き、貯蓄する。そして、ゆっくりと余生を過ごす。

 ……それが当たり前の時代があった。素晴らしい、生きる価値のある時代だった。

 今ではどうだ。人類の九割は、六十の誕生日よりも先に死を迎える。何の為に働くのか、何の為に生きるのか。そんな、考える余地も無い事に哲学的思慮を巡らせねばならない様なこの時代に、私が生きる事に価値は無い様に思えた。

 実際、どんな死を迎えるかではなく、どんな人生を送るかが、今の時代に合った人生の目標なのだろう。その時代を謳歌するには、私は年を取り過ぎている。

 ああ、我が娘ながら、何と立派に育ってくれた事か。こんな未来の無い老人に、無償で手を差し伸べ、そして死に掛けの肉体に涙を流してくれる。

 でも、だからこそ私を置いていって欲しかった。

「楽になりなさい」

 ゆっくり、なるべく苦しい様子を悟られない様に、落ち着いた声を出して語り掛ける。心臓は、百メートルを猛ダッシュした時の様に爆発寸前だ。それでも私は、真っ直ぐに瑞希を見ていた。「ほら。彼を助けてあげなさい」

 まだ若い、あの未来ある男を。

 何が、そしてどんな感情が瑞希の心の内で渦巻いたのか、それは分からない。誰かを救いたいという正義感かも知れないし、今後私と生きる道を選んだ場合の圧迫された生活環境の事かも知れない。瑞希の心の中の冷静さが、もう私が助からないと判断しての事かも知れない。

 瑞希は、ゆっくりと私から手を離していく。それでも私の口からマスクを取ろうとはしなかったので、私は震える手で、自分のマスクを外して瑞希の手の中にそっと押し込んだ。それをされても、彼女は拒絶しようとはせず、グシャグシャな顔をして涙を流しながら、ゆっくり、ゆっくりと、私から手を離した。

 瞬間、瑞希の手を取り、体を取り、力強く抱き締めてやりたい衝動に駆られる。余りにも、余りにもそれは孤独だった。彼女が私から離れていくその時、私の心を虚無が襲う。そんな衝動を必死になって押し殺し、呼吸をなるべく抑えながら、震える声で絞り出す様に私は最期の言葉を口にする。

「今まで、ありがとうな」

 言って、私はポンと瑞希の足を叩く。悲しみを振り切ろうとする様に、彼女は勢い良く立ち上がって、苦しむ男の方へと駆けていった。

 これでいい。

 これでいいんだ。

 人は、誰かにその行動指針や人生を抑圧され、誰かが敷いたレールを進む義務も無い。根源的に、人間は自由だ。

 マスクを外した私も、その通り。

 私は今、自由だった。



 視界の隅で、先程まで長谷川秋穂となにがしかを話していた恰幅のいい男が、爆風に吹き飛ばされて顔面にガラスと釘が何十本か刺さるのを見た。即死だ、と考えた瞬間には、私も爆発に巻き込まれた人垣に体を押され、その場に強く体を打ち付ける。

 気付いた時、そこには地獄絵図そのままの光景があった。

「松本! 松本!」

 思わずキリオの名前を呼ぶ。私の記憶が確かなら、彼は警戒の為に大谷の近くまで移動していた筈だ。

 かくして、私は血塗れのキリオを見付けた。急ぎ、私はキリオに慌ててマスクを被せる。それでも、目から血を流し始めていた彼の脳や臓器に後遺症が残らないか、気が気でない。爆発の衝撃で吹っ飛ばされた彼を死体の山の中から探すのは、困難を極めたのだ。

 何より目下の心配は、彼の呼吸器官や後遺症ではない。彼の千切れた左足が見付からず、止血も出来ていない事だ。激痛が走っている筈のキリオは、しかし呻き声しか漏らさない。指の一本さえも動かす気力が無い様だった。

「頑張れ!」

 何とか声を掛ける。だが、キリオはうわ言の様に、妹の事についてばかり口にする。

「俺が死んだら……妹の入院費……保険……」

「ああ、そこまで喋れるなら全然大丈夫だろう。だから頑張れよ! 妹残して逝くんじゃねえ!」

 スーツを脱いで患部に直接当て、何とか止血をしようとする。躊躇っている暇は無い。ガスマスクが重く、呼吸も苦しかった。気ばかりが焦り、手が恐怖に震えて動かない。

『猪瀬、猪瀬。何が起きた?』

 捜査本部からの無線がイヤホンから響く。私は叫んだ。「爆発だ! 群衆の中で『渚』がやらかしやがった! 大気毒も広がってる! 動ける奴は全員、館内の人間に避難指示を出せ。屋内でも必ずマスクを付けろ。繰り返す、マスクを必ず付けろ。それと、救急班は待機させてるか? 松本が片足を吹っ飛ばされた。早く来てくれ!」

 まくし立てる。どうか、一人でも多く生き残ってくれと。

 生きる。生きてみせる。生かしてみせる。

 抗ってやる。死なせてたまるものか。

 私は、全力で死と生に向き合っていた。絶対に生き延びる為に、自分とキリオの面倒を見るので精一杯だった。

 だからこの時は、あの女子高生二人がどうしていたかを知る由も無かったし、見ていたとしても、助けてやる事なんて出来なかった。



 全身を貫かれる様な痛み。何かが光ったかと思った次の瞬間には、ガラスと釘が私の横っ腹、そして左足を貫いていた。激痛に暴れようにも、暴れる為の体力が残っていなかった。何故か喉が焼き付いて、胸がとても熱い。肺を内側から何度も何度も針で貫かれる様な鋭い激痛が、私が呼吸する毎に襲ってくる。

 美里ちゃんは、無事だろうか。お母さんには迷惑を掛けるなぁ。医療費はどうなるだろう。そもそも家に帰れるかな。学校のみんなは、私が死んでも気にしないだろうな。飯島君には色々お礼を言いたいんだけど。

 激痛に脳を焼かれた所為か、私はそんなピントのずれた事を考えていた。

 死にたくない理由があるかと言われれば、とりたてて挙げる理由が無いのも悲しい話だった。刺す様な肺の痛みと咳、そしてそれに伴う喀血の苦痛は、直接的に私に死を想起させるに十分なものだったが、それでも尚、強く生きる希望となる理由を持てない。精々が、もう新作公開される映画を見に行けなくなるという悲しみだけ。まだまだ観ていない名作や傑作、私の知らない珠玉の一品が何処かにある筈なのに、その為に生きてやろうというオタク心さえも湧き上がらない。

 全てが、遠かった。

 出血は大した事無い。貧血でクラクラして、気を失うくらいはあるかも知れないけれど、そうして気絶した後に毒で死ねるならあまり苦しくないのかな。

 怖い。怖いけれど、死に抗おうと考える程の恐怖ではなかった。

 何故こんな、生きる事に消極的なんだろうと考える。逡巡し、私は自分で納得した。

 生き残っても、この世界で生き抜く理由が無いからだ。

 例え生き残ったところで、私の遺伝子を後世に残したところで、一体何になるというのだろう。こんな世界では、精々後数回も世代交代を繰り返せば、人類はその文明を維持できなくなるレベルまで数を減らすだろう。緩やかに死を待つだけの滅びゆく種族として生きる事に、何の感慨も湧く訳が無い。

 レベル1の、勉強を頑張るだけが取り柄の映画オタクな十八歳。彼氏無し。居た事も無し。恋愛よりも映画を優先させ、自分が生きたい様に生きた。

 生き残る価値は無いかも知れないが、悔いの残る生き方はしていない。

 遠くに聞こえる阿鼻叫喚の声と悲鳴、咳。余りにも、全てが遠くに感じられた。ゴホゴホと何度か咳をして、血を吐いて。それでも、私は立ち上がる気にならない。

 お母さん、ごめんね。先にお父さんと一緒に居るから。

 激痛の中でさえ意識が遠のこうとするその刹那だった。途端に私の呼吸が軽くなり、肺に突き刺さる激痛は私の意識を現実へと強制的に呼び戻す引き金となる。一度だけ大きく咳をして血を吐き、体をのけぞらせて、私は目を開けた。

 仰向けに横たわる私を、美里ちゃんが支えていた。

 自分のマスクを外し、私にあてがって。

 何をしてるの! 叫ぼうとするが、声が出ない。喉が傷つき、血が出るだけだ。両手で彼女の手とマスクを押しのけようにも、怪我でろくに動かせない。

 膝をついた自分の脚に私の頭を寝かせ、美里ちゃんは強く私にマスクを押し付ける。息を止めているのか、まだ美里ちゃんは喀血していない。だが、爆発の破片だろうか、顔や体のあちこちに切り傷が出来ている。

 駄目だ、駄目だ、駄目だ。何故私なの。私なんかより、貴女はずっとずっと価値のある人間なのに。

 死の際に立ってさえ涙を流さなかった私が、生かされようとしている今、大粒の涙を流している。私には、美里ちゃんのその静かな目から全てを察する。彼女は、交互にマスクを当てて自分も助かるつもりなど毛頭考えていない。彼女は死ぬつもりなのだ。

 何故。何故。私は、美里ちゃんにとって自分の命に代えてでも生きるべき存在なんかじゃない。沙織ちゃんが見せたあの時みたいな微笑みなんて、浮かべないで。

 正常な酸素を取り入れて少し体力が回復してきた。私は思い切り、美里ちゃんの腕を振り払おうとする。でも彼女は「ごめんね」と蚊の鳴く様な声で謝って、ガラス片が刺さった横っ腹を、ガラスがそれ以上刺さらない場所を選んで強く叩いた。ああっ、と私は呻いて脱力する。途端に、美里ちゃんもボロボロと涙を流し始めた。ごめんね、ごめんね、と。

 私は、美里ちゃんの手を振りほどけなかった。体も動かせなかった。ただ二人してボロボロと涙を流して嗚咽を上げる。美里ちゃんが咳き込み、血を吐き始める。私の顔にかからない様になんて不要な気遣いまでして、彼女はどんどん血を失い、体を傷つけていく。止めて、と叫ぼうとして私も血を吐いた。

 失血が続き、私の意識は遠くなっていく。でも、私がもう死んでいく事は無いだろうと直感する。私の代わりに、目の前の少女が死んでいく。

 気持ちが悪い。苦しくて、悔しくて、涙が止まらなかった。

 遠くで、美里ちゃんの声がした。

 彼女は、何と私に語り掛けたのだろうか。

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