Chp.3: INFERNAL AFFAIRS
手の麻痺。四肢の末端に毒が回るその脅威については、私も十二分に承知している。いつか訪れるとされていた腕への麻痺もが、遂に私の腕へとその手を伸ばし始めた。
右手の診察を終えて、掛かり付けの医師は深刻な表情をした。
「今までは、両足だけでしたね?」
「はい」
「今、右手に感覚は?」
「昨日からさっきまでの半日で三回、痺れが。その間も動かせるは動かせますが、触覚が完全に無くなります」
私の隣で顔色を悪くさせている瑞希は、落ち着きなく私と医師の話を聞いている。重い顔をしてペンのヘッドで頭をガリガリと掻く若い医者は、ゆっくりと口を開いた。
ただでさえままならない最低限の運動さえも、全身麻痺により不可能となる。運動機能の低下と大気の毒により免疫力の低下で、罹患者は合併症を起こしたり多機能不全を起こしたりなど、様々な事由により死ぬ。
下半身の麻痺が始まってから、散々聞かされ続けてきた話だった。
医師や瑞希は悲観した顔をしている。だが一方で、当人である私は死に対して悲観的な感情は何も無かった。人が平均値として定めている寿命を、とっくのとうにオーバーしているのだ。人生でやるべき事はやったと思っているのだ。
それよりも、本当の死を迎えるまでに瑞希に負担させてしまうものが多すぎる事が、余程私にとっては気掛かりだ。それは何も、生活を大いに圧迫している医療費に関してだけではない。
三十九歳という年齢は、決して今の時代では若くない。旦那と死別して私の家に戻ってきた娘は、もう生き甲斐はお父さんの介護だけだよ、と言ってくれた事がある。
だが、それが子供にとって何の幸せであろうか?
経済は圧迫され、自分の時間も好きに使えず、本来死んでいる年齢に達している筈の親の為に、生活を犠牲にしなければならない。死別から立ち直り、新しい伴侶を見付けて新しく結ばれる道も充分過ぎる程あった筈だ。
だが私が生きている所為で、彼女は全てを浪費し、私の隣で静かに黙って俯いている。両腕の使えた今までと違い、利き腕の機能が完全に停止してしまったら、もう瑞希は働く時間さえ無くなる。ヘルパーを頼めば、それだけ出費は増える。医師は言った。
「残念です」
心の底から、残念無念、といった表情をしていた。私は自虐的に笑う。
「研究対象が死んじまうから?」
すると、それは、と眉根を寄せて怒った顔をしながら医師は私を見る。
だがそれよりも先に、私の肩が殴られる。え? と思って殴ってきた方を見ると、瑞希が俯いて言葉を無くしたまま、いや、声を上げて泣くのを堪えたまま、強く強く、私を殴っていたのだ。何度も、何度も、容赦無い拳を無言で私に当ててくる。
彼女なりの、精一杯の怒り。子供の頃から、その怒り方は変わっていない。その怒りが何に対してのものか、何の為の怒りか、無論私にも分かっていた。だがそれ故に、そんな思いを瑞希が抱くという事に戸惑いを隠せずに居る。そして、医者も答える。
「……確かに私は、貴方の経過観察を報告しています。ただ私は……研究者である以前に医者なんです」
その点をどうか理解して頂きたい。彼はそう言って、カルテに目を落として私に背を向けた。
ここに居る誰もが、自分の感情と思いを吐露する。そしてそれら全ては一方的で、私は彼らの感情に配慮していなかったし、彼らもまた、私の思いを考慮していない。
自分で死ぬ勇気は無い。こんな身の上になっても、やはり死は怖い。
でも、生きていたいと願っている訳ではないのだ。
私の事を思ってくれる人の前で、死にたいなんて言えないが。
現状、入院が必要になる程の緊急性は無い。四肢が完全に麻痺状態か、それ以上の重篤な症状が表れれば入院措置を図る事も出来る。政府からの支援も出るし、国としては私の様なモデルケースを二十四時間体制で監視する手間が省けるだろう。だが、入院に掛かる費用そのものを彼らが持つ事は無い。平均寿命を大幅に上回った私は保険により援助を受けられる上限を超えているので、例え人類最高齢の人間であっても、現状以上の特別扱いをする事は出来ないらしい。
家に帰って私と瑞希がする事と言えば……別に、いつもと変わらない。瑞希は少し居心地悪そうにしていたが、普段通り私がネット放送のテレビ番組を見て時間を潰しているのを見て、やがて自室に戻った。
明かり取りの窓から入り込む光が、燃える様な橙色に変わる。私はいつの間にやら暗くなった部屋の電気を点けて、一通り見るものの無くなったテレビのスイッチを切る。両手を握ったり開いたりを繰り返し、今はまだ両方ともちゃんと動く事を確認してから、私は車椅子を動かした。
トトトン、と小さくノックをし、瑞希の返事を待つ。だが、反応は無い。私は彼女の部屋の引き戸をそっと開け、中を覗き見た。瑞希は自分のベッドに横たわり、ぐっすりと昼寝をしている。あまり彼女の部屋を覗いた事は無いし、最近はとみにそんな過干渉する機会も減ったが、ごちゃごちゃした部屋は高校生の頃とあまり変わっていない。卒業後はすぐに就職し別のレベル1居住棟で生活を始めた瑞希だったが、一人暮らしの時もこんな内装だったろう。
だが、そんな変わらない娘の部屋だったが、一つだけ嘗てと違う箇所がある。写真立てに入れられた、家族の写真だ。自分の旦那と一緒に写っている娘の写真。私と女房の写っている写真。四人で笑っている写真。全部数えて、十枚以上あった。大切な思い出なのだろう、多くはベッドサイドに大事に置かれている。散らかった室内にあって、その一箇所だけは、とても丁寧に掃除されていた。
思い出を大切にしている、と前向きに捉える事は、幾らでも出来る。実際、彼女にとってそうであって欲しかった。だが私にはその写真の数こそが、瑞希を過去に引き止める足枷の強さの程度に見えて仕方が無かった。
そっと戸を閉めて、私も自室へと戻る。何かをしてやりたい。何かを買って喜んで欲しい。だが瑞希はそのいずれにもいい顔をしないだろう。
自分がまだ小さかった頃、まだ『大災厄』が始まる前。一体、自分がこんな姿になるとはどうして予想出来ただろうか。無謀で無鉄砲で、でもがむしゃらに前を向いて進んでいた時代は、今はもう来ない。皆、暗い未来に黄昏ている。例え今晴れ渡った空を染める太陽の様に、上っ面がどれだけ素晴らしくても。
この暖かい光は、私達の生活を温める希望には成り得ないのだ。
そんな時、ふと、先日のニュースを思い出す。フジカズが開発研究を進めているという、遺伝子交配に頼らない一世代のみで行われる人体の再構築。連日そのニュースで世間は賑わっている。
あれは、暗い現代にようやく差し込んだ、一条の希望だったのだ。
如何にそれが無謀で冒涜的な人体実験であろうとも、生き抜こうとする人間のエネルギーが、その研究成果に込められている事を、皆が感じ取った。私には、程遠いものだが。
目を閉じ、私も一眠りする事にした。
微睡みの中で、もう二度と目が覚めない様にと、今回も密かに願いながら。
*
「雨宮、どういう事だ、これは」
俺は市内で買ってきた新聞紙を、廃ビルの屋上で道具を作っていた雨宮に突きつけた。本来であれば簡単な報告は全て電話で済ませるが、人目のある場所でそうした報告をする事も出来ない内容だ。雨宮はメガネをちょいと押し上げ、新聞の見出しを読み上げる。
「女子高生、薬物中毒死?」
「この前の奴だ」
名前のところを見ろ、と促すと、ああこの子か、と雨宮は合点のいった顔をする。「大葉光、ね。思い出した思い出した。春先に彼氏君と肝試しにここに来て、身ぐるみ剥がされた子でしょ」
言いながら、雨宮は作業に戻ってしまう。手元の小さな基盤に、何処かから盗んできたバッテリーの配線を、ハンダゴテを使って繋いでいる。
……一般人が郊外の遺棄区画まで単身で来る場合、確実に浮浪者に襲われる。時々、そうした常識をよく理解していない、或いは真剣に捉えていない馬鹿がやってきては、金品を奪われ、レイプされ、場合によっては殺される。
大葉光の場合は、彼女の彼氏が春先に、『渚』に憧れて入団したばかりだった。自分の意思で来たがらない奴以外は連れて来るなという規則を破ったのは、まあ入団して間も無い頃だったので仕方無いとは言え、軽率だった。他の団員に顔も良く知られていなかった事、日も暮れた後で顔も見えなかったという事で、彼もまとめて暴行されてしまったのだ。その後不信感を強く抱いた彼氏君は警察にタレ込もうとしていたが故に、団員に拘束され、今も薬物を連続投与され洗脳中だ。
一方の大葉光は、地下栽培した大麻を勝手に持ち出した団員により、薬物投与された上でのレイプを経験し、その快感に抗えず、薬漬けの患者として沼にはまってしまった。団員でもないのに頻繁に区画へと顔を出し、酷い時は日が暮れてもうろついて、ひたすらドラッグ・レイプされるのを待つ様になったのだ。
元々、麻の葉とコカの葉を地下室の隔離エリアで栽培している目的は、資金面の拡大と洗脳作業の効率化を目的としていた。前者は『渚』の理念に反しないかと雨宮に尋ねたが、「どうせ皆死ぬ事を目的としている組織なのだから、その過程でどうなろうと関係は無いんだよ。生きる事を目的としているなら反しているけど」との事だったので、俺達も特に責める事はしなかった。
問題は後者の方で、薬漬けにしてしまえばその為に盲目的に働く様になるし、一見して従順な存在にもなる。だが次第に、どれだけ洗脳をしようとも次第に理念の為ではなく麻薬の為の行動をするようになってしまうのだ。どちらに人が必死になって動くかと言えば、当然薬の為だ。
要するに、洗脳や時間が進むにつれ、優秀な兵士はただの反乱因子と化してしまう。
結局、『渚』団員の使用は禁じられ、販売による資金の拡張のみを目的とする様になってしまった。
だから、大葉光の存在はとても厄介なものとなった。頻繁に郊外区画をうろつかれては俺達のアジトがバレる可能性もあるし、麻薬を求めて大きなトラブルを起こしかねない。何より、快感を得る為に大量の金を持ち歩きながらレイプされるのを待っているその行動が彼女の生活環境で明確に表面化すれば、間違い無く警察は重い腰を上げる。
だからせめて頻繁に来るのを止めろと、一週間分のコカインを引き渡したのがついこの間の事だった。新聞記事によると、大葉光の死因が薬物の過剰な大量投与による発作だったという。恐らく、なんとか欲望を抑え込んでちまちまと使っていた薬を、耐え切れずに一度に使い切ったのだろう。
「凄い快感だっただろうね。ドーパミンがドバドバな絶頂の中で死ねるなんて、なかなかある事じゃないよ」
平然と、他人事の様に雨宮は言った。
「そんな呑気な事言ってる場合か!」
俺は声を荒げたが、マスク越しなので少し聞き取りにくいところがあったかも知れない。「足がついたらどうする! アジトが幾つか、最悪この本拠地にも警察が来るぞ!」
「後者については問題無い。麻薬の栽培はここではしていないし、各アジトは、居住者のまだ居る居住棟や廃墟の地上階に設営する様にしている。この本拠地だけ、他に逃げ道を持たない立地の悪い場所に敢えて居を構えているから、アジトが摘発されても警察は先入観があるからここを見付けられない」
マスク越しでも甘いスマイルフェイスが想像出来るくらい、雨宮は嬉しそうに答える。「前者だが、もしアジトが摘発されても、各拠点は洗脳の行き届いた奴をリーダーにしているから、劇薬カプセルを噛み砕く心構えはいつでも出来ている筈だ。もしリーダーが不在の時にアジトに踏み込まれた場合……君達にはまだ教えてなかったね。非常連絡用のボタンを押す様に、団員に強く言い聞かせてあるんだ。『絶対に助けてあげるから』って」
と、見計らったかの様なタイミングでそれは起きた。雨宮が傍に置いていた無線機から声がした。
『十七番にパンダ。繰り返す、十七番にパンダ』
すぐさま無線を取り、雨宮が返す。「こちら鷲、了解。ホトトギスは鳴いてる?」
『鳴いてる。酷い。助けて』
そう返す無線機の向こうでは、悲鳴と銃声が遠く聞こえていた。
「分かった。コウノトリが飛ぶまで待て」
答えると、しかし雨宮はやり掛けだった爆弾の組み立て作業に戻ってしまう。パンダは警察の隠語だ。つまり、今話していた危惧が正に現実となったのだ。何故、こうもこの男は冷静なのだ?
「おい、何してるんだ? 助けに……」
「もう少し。警官が中に踏み込んで、十分に人員を投入したところで行動するよ」
「何を言って……」
「十七番アジトは、まだ若い奴を育成していたんだ。リーダーには教育を任せていた場所だったんだけど……勿体無いけど仕方ないなぁ」
言いながら爆弾を地面に置き、雨宮は腕時計を見て、もう片方の手で携帯型電話を取り出した。もう古い、中古で幾らでも出回っている規格だ。そろそろかな、と呟いて、彼は或る番号をプッシュし、送信ボタンを押す。だがそれからすぐに通話を切り、またポケットに仕舞い、三度作業に戻ってしまう。
「……何をしてる?」
「何をした、って訊いてくれよ。取り敢えず、問題は解決した。下に行って、例の計画について麻生さん達とまた打ち合わせを重ねて欲しいな。あとはいつも通りの作業をして」
俺には、雨宮が何を言っているのか、その時は何も分からなかった。
……その晩のニュースで、テロ対策部隊の踏み込んだ十七番アジトとその建物が爆発で崩落し、『渚』メンバーと突入部隊がほぼ全滅した、というニュースを目にした。
*
爆殺された大林公彦前区長は、技術や文化などを支える重要な職に就いていながら給与面で正当に評価されていなかった人々への、経済的援助を促進する条例を打ち出した。彼が求めたその理想は、確かにこの国の根底を支えるその基盤を真に磐石にする為の重要な施策だと言っていいだろう。この条例を足掛かりに、この政策を全国規模へ拡大させる予定だったのだろう。
だが、彼は理想を追い求め過ぎた嫌いがあった様に思う。その援助資金の財源を、不安定なものに頼っていたのだ。投資信託や資産運用、その他地方税や別途に課税枠を設ける事で四方八方から賄おうとしたのである。もしも彼が暗殺さえされなければ、その努力も結実したかも知れない。
だが、彼の意思を継いだ公人は、同じ信念こそあれど、熱意の掛け方は薄かった。資産は限られた予算内でしか支出出来ず、また技術職以外に就いたその他大勢の低所得者層から圧倒的多数の批判を被ってしまったのだ。
理想は高く、しかし現実には理想を叶えるだけの金が無く。
賄えない分の負担は、企業努力しかなかった。だからこれは渡りに船だったのだと、フジカズの役員は強く答えた。
「今大人気の、現役高校生として活躍する役者の子が治験に名乗りを上げてくれたんです。もう、大々的に広告を打つしか無いんですよ。我々だって覚悟は出来ています」
「ですが、貴方達の工場は既に全国で三箇所も襲撃され、内一つの最初の件では死人が沢山出ています。これ以上動きを見せたら、次に何が起きるか分かりません。大川美里は、御社の社員じゃないんですよ」
私は姿勢を前のめりにして構え、じっと役員の男の目を睨みつけて話していた。それでも男は臆面を見せず、あまつさえ睨み返してきやがった。
「貴方だってウチの社員じゃないでしょう! 旧都が資金援助をすると言ってたのを信じて研究に投資してた成果が、人類の存亡を決める一助となるというのに、今更資金繰りを問題にして諦める事なんて出来ない! スポンサーがもっと必要だし、パフォーマンスも必要になってくる!」
悲痛に彼は叫び、続ける。「既に、相手方の事務所には話を付けてあるんです。来週には記者発表をする。警備は勿論セキュリティレベルを高レベルに上げて警戒に当たる。必要とあれば、事務所や主催会場責任者に通知予定だった警備要綱もそちらに提出します。それで満足でしょう」
もう話す事は無いと言いたげに言い切って、男は机の上の書類を整理し始めた。私は、何も言い返す事が出来なかった。
「言う事は聞き入れたか、あの糞親父」
再会早々、キリオは悪態をつく。ようやっと言いくるめてまたエレベーターホールで待つ様にと言って待たせたのだが、貧乏ゆすりをして苛立ちを隠さないその姿は、今にも飛び出しそうな猛獣の様だった。私は逡巡し、正直に話した。
「無理だ。プレスリリースは大々的にやるってさ」
「あの野郎……!」
腰を上げて先程まで私の居た部屋に殴り込もうとするキリオを、私は何とか抑え込む。
「止めろ、これ以上は民事不介入だ、私達がフジカズにどうこう言える権利は無い」
「何人死んだと思ってる!」
広いホールでその声は大きく響いたが、行き交うフジカズの社員は特に目をくれない。感覚が麻痺しているのか、いつもの事と捉えているのか。その不気味な光景に、しかし私は気を配る余裕が無かった。キリオは怒りと悔しさに歯を軋らせんばかりだ。怒気を孕ませた声で、キリオは続ける。
「腹が立たねえのかお前!」
「立たない訳無いだろ!」
思わず私も怒鳴り返した。キリオはようやく口をつぐみ、抵抗を止める。
昨日、大西が自宅に残した物、そして薬物のオーバードーズにより死亡した女子高生の残した麻薬の購入ルートの痕跡や、春休みから今日までの行動を大至急割り出し、遂に『渚』のアジトの一つを突き止めた。連中も一枚岩ではなく、大人数が居る場所に踏み込んで拘束すれば最低でも一人は詳細な手掛かりを吐くだろう、と一縷の望みを掛けて特殊部隊を送り、テイクダウンを試みた。私とキリオも現場に立会い、その様子を見守った。
だが、廃墟の一部を回収・要塞化させたアジトで、密輸入した大陸製の銃火器で武装した集団の抵抗にあった。はやる気持ちを抑えて部隊の制圧を見守り、極めて短時間で屋内に潜入。制圧も目前と思われたその瞬間、アジトのあったフロアで大きな爆発が起きた。
老朽化した築四十年、二十階建てマンションの十階の一部が吹き飛び、そこから下一階、上三階が崩壊する大惨事となった。無論、突入した隊員十二名を含める『渚』の構成員全員が死亡した。
怒りがこみ上げた。『渚』の、人を人と思わないその方針に。その他人への余りの無関心さに。特にキリオの怒り様は生半可ではなく、今日のフジカズ幹部への訪問も「俺が行く」と言って聞かなかったのだ。大問題になるのは日を見るより明らかだったので、前回同様私だけで向かったが。
肩で息をしながら、私達は人の居ないエレベーターに乗る。遠くに見える無造作に生い茂った森、高層ビル群、荒廃した元建造物の大地。かつては、この視界に収まる全ての領域に人間の手が加えられていた筈なのに、今や見る影も無い。
人一人が生きた歴史も、こうして朽ち果て、忘れ去られていく。『渚』が掲げる信念を裏付けてしまうかの様に。
まだ頭を抱えてぐったりとしているキリオに、大丈夫か、と声を掛けようとして止めた。大丈夫な訳がない。私は質問を切り替えた。
「お前、先に帰れ。休んでろ。私より酷い顔してる」
「いや」とかぶりを振ってキリオは答えた。「仕事を投げ出す訳には……」
「その仕事に影響が出るんだよ。休んで、一旦頭を冷やせ。幸い、『渚』の工場襲撃も収まっている。続いて襲撃された工場は警備の強化のお陰で水際で防げている。フジカズも何もしていない訳じゃない。……来週、フジカズが治験立候補者であるタレントを招いてプロモーションをする。一旦我々を油断させて奇襲を掛けるには丁度いいタイミングだ、しばらくは連中も派手な事はしないさ」
少し早口でまくし立て、何とかキリオを宥めようとした。彼もまた、完全に納得はしていない様子ではあったが、無言で首肯する。私は安堵し、エレベーターの途中階、タワー間シャトル発着場のある階のボタンを押した。
「ほら。妹さんの見舞いにでも行ってやれ。取り敢えず今日の仕事は全部私がやる」
「……済まない」
仕事から解放された、という事実が、否応無くキリオの肩の力を抜いたらしい。幾分、表情は穏やかになる。そうして、ちょっとおぼつかない足取りでエレベーターを降り、キリオはシャトルへと向かって行った。今度は私が大きく息を吐き、力を抜く番だった。
私達は、何をしているのだろう。
具体的なテロリズムへの対策を打ち出せず、地下組織化した『渚』の肝心の情報については何も聞き出せていない。証人も手掛かりも悉く消え、対応は後手後手に回る。動ける人員も限られる中で、正直、来週のフジカズのプレスリリースに起こりうるアクシデントに対応は可能だろうか、と熟考せざるを得ない。
勿論、こうした警備は本来民間警備会社の仕事だ。そして、まだ来週のプロモーションに『渚』による妨害があると断言出来る具体的根拠は無い。故に、私達は何も出来ない。
人を守れる力を持っていながら、それを行使出来ない。差し迫った危機を目の前にしても、誰かを守る姿勢を取る事も出来ない。
マスクをしていないのに、とても息苦しい気持ちになってしまった。
*
美里ちゃんは、事前に私に教えてくれた登校予定日である昨日、学校に来なかった。そして今日も顔を出さない。一昨日の、八嶋さんに呼ばれた件と何か関係があるのだろうか。彼の最後の話し振りからして、恐らくはフジカズコーポの治験の件だろうけど。
私は美里ちゃんの事が気掛かりで、誰かの悪口や強い一方的な意見を共有する下らないグループに参加する元気も無く、自分の机に突っ伏しながら映画のサントラをひたすらイヤホンで聴いていた。飯島君はそんな私を邪魔しにくる。ちょいちょい、と私の肩をつついて起こし、私にイヤホンを外させる。何を聴いてるの? とか私に興味を持った質問をするでもなく、いきなり彼は美里ちゃんの事を小声で尋ねる。
「今日大川さんどうしてるか、知らない?」
「知らない」
私は途中で音楽を邪魔された事に少し腹を立てながら、なるべく冷静に言ったつもりだった。だが、飯島君はしつこかった。どうやって仲良くなったのかとか、彼女の趣味は何だとか、好きな食べ物やお菓子は何だとか。
およそ、私自身とは関係の無い、私という個人を一握り程も理解しようとしない質問ばかりだった。余りにもうざったくなって、私は眉間に皺を寄せ、教室に響かない程度に声を荒げる。
「何で私がそんなに美里ちゃんと仲がいいって……」
口に出して初めて気付く。沙織ちゃんが居なくなり、日陰者だった私が彼女と表立って話し掛けられる訳でも無かったし、美里ちゃんも何処か他人と距離を置きたがる時が多かった。だから、私は基本的に、クラスの人目がある場所で美里ちゃんと親しく付き合う事をせず、ただお互い離れた位置から互いの存在を確認していた。
誰にも、知られる事は無い筈なのだ。なのに、何故?
「何で、仲がいいって思うの」
問うと、飯島は答える。
「一昨日、地下モールで一緒に遊び歩いてるの見たって、隣のクラスの奴が」
言葉が発せられたその一瞬だけ、教室が静かになった。すぐに各々がまたグループの会話へと戻るが、その一瞬の空気の変化を、私も飯島君も感じ取った。」
まずい事言った? という顔をする飯島君。いいえ、貴方自身は何も悪くない。
そして、私も悪くない。誰も悪くない。
これから、誰かが、私に対しての悪人となる。
私は席を立ち、トイレに向かった。
……元々特別な存在だった人は、崇められる。追いつこうとする。同列に並ぼうとする。同じく特別な存在の人は、お互いを認め合う。真に良い仲を築ける。
特別な存在の人に見初められるべきは、近い属性を持つ人達。カリスマだったり、友達の多さだったり、明るさだったり。いわゆる、「社交性」があって「明るく」て「カッコ良かったり美人だったり」して、「誰からも好かれる」様な人。
そうでないものが、高みに登る事は、許されない。
社会的には何ら問題は無い。道義的にも、権利的にも。
しかし主観視点でそれが許容されるかと言えば、必ずしもイエスではない。それまで目立たない地味な立ち位置に居て、誰からも「あいつよりはマシ」と思われる存在が、学校一注目される存在と同等に扱われるべき立場に立ってしまったら?
きっと皆の心に、様々な感情が渦巻く。品行方正であれ、という道徳的な教えなど、思春期真っ只中な私達学生の心に響く筈も無く。
私はトイレの個室で鍵を閉め、自分の体を抱きしめて小さく震え続けた。
しかし、この恐怖に打ち勝つ為の言葉も強さも、私は持ち合わせていない。そして皆からその権利を認められてもいない。
『分かってるよね?』
誰かの声が聞こえる。幻聴なのか実際の声なのかさえも、気が遠くなる様な心持の前では判別が付かなかった。
ガン! とトイレのドアが乱暴に蹴られる。ヒッ、と思わず声を上げて縮こまる。誰、と尋ねても答えが返ってこない事は分かっていた。ただ息を殺し、じっと私は動かずにいた。続けざまに、何度もドアを蹴られる音が響く。無言の重圧。威圧感。
続けて、複数人のガタガタと何かを動かす音。続けざまのキック。
ややあって、個室のドア、下の隙間から勢い良く水が噴射される。ホースの口を押し潰して噴射される、あの水量と速度だった。私は叫び、ビシャビシャになる靴とソックスをかばって蓋をした便器の上に乗って避難する。が、そのタイミングを見計らったかの様に下からの水流は止み、今度は上から容赦の無い放水が始まった。髪が、服が、ビシャビシャに濡れていく。ズボンが私の服にへばりついていった。
「止めて、止めて!」
叫ぶが、聞き入れてはくれない。水が口に入り、必死の懇願もろくに言葉に出来なくなった。扉の外の、おそらく女生徒達は、放水されて戸惑う私を笑うでもなくただ無言で、淡々と苦しめる。
責め苦は、チャイムが鳴るまでの五分間、止む事無く続いた。終わる時は呆気無く唐突で、今までの事が嘘の様に静まり返っている。私は打ちひしがれたまま、濡れた服も髪も乾かせず、立ち上がる気力さえ無くただそこでじっと、沈黙を守っていた。
ああ、財布も定期もマスクも教室だ。ロッカーに鍵は掛けてあるから荒らされる事は無いと思うけど、こんな姿で外に出られない。でも、お母さんが帰ってくる前に家に帰って、お風呂に入らなきゃ。晩御飯は何だろう。美里ちゃん、あの後元気に撮影頑張ってるのかな。飯島君に辛く当たったかな、美里ちゃんに紹介してあげようか。あんなに夢中なんだもの。参ったな、勉強の内容が全く頭に入らないや。
とりとめもない、現実逃避な思考。
この世界で私は、言葉を持たない哲学者。映画を愛する哲学者。ただ考察や物思いに耽る、年頃の女の子らしくない女の子。抵抗する言葉を発する勇気の無い、弱虫の女の子。言葉を発する気力どころか、理不尽にその権利を奪われた社会的弱者。
マスクを着けていないのに、私は何故こうも息苦しいのだろう。
*
ネット放送局のニュースでは、その日フジカズコーポから表明された内容に多くの国民が耳を疑った。意見は賛同と否定の二派で見事に分かれる。リベラル派を主流に据えた方が大衆の受けはいいと半世紀以上前からスタンスを変えないメディア各社は、言葉を濁しながらも否定派の意見を尊重する報道内容に偏っている。
だが、私の様に体を毒に侵されている人間からすれば、まるで見当違いの意見である様にしか思えない。
この国の現代人の死因トップは、自殺と三大疾病、そして大気汚染が引き起こす病状の進行による、全身麻痺の合併症が引き起こす各種疾患だ。私の様な大気毒が引き起こす全身麻痺が進んでいる人間は、同世代の過半数に及んでいる筈なのだ。一方で、若年層の死因トップは自殺だ。その理由は様々だろうが、彼らにとっての老後が何の展望も無い未来しか見えない事も、無視出来ない原因であろう。少なくとも私はそう思う。
だが、すぐに良くなる、きっと変わる、と自らに言い聞かせ続け、彼らは数十年を過ごした。声を大きくするのは貧困層ばかりで、現在の暮らしに不自由を感じないほんの一部の富裕層は口をつぐむ。権力の無い私達が幾ら叫んでも、力を持つ人間を引き摺り下ろし、体制を変える事は出来ないままだ。
変わらぬ現状に、恵まれたものは一秒でも長い寿命を求め、恵まれないものは足掻くか、足掻くのを諦めるかしか出来ない。
私は最早、足掻く事さえ許されない。
思ったよりも右手への麻痺の進行は早く、日に数度、五分程度の感覚麻痺しかなかった右手の硬直は、今では一日に十回以上、長ければ一時間程度も動かせないままの時がある。末期はあっという間です、という医師の言葉が、何度も頭をよぎった。
入院はいつにしようか、と聞いてくる瑞希がとても静かである事にも不安を持った。普段もそう五月蠅い訳ではないのだが、静かな空間を作る方法が違う。いつも時間を費やしているジグソーパズルや編み物などではなく、ただ何もせずにボーッと放心している状態の時間を多く取る様になったのだ。
無気力。それが、瑞希の心にも遅効性の毒の様に回り始めている。
しかし私は、彼女を守る術を持たない。こんなにも、この子を大切に思っているのに。
そう思うと自然と涙が溢れ、余計に瑞希を心配させてしまう。ああ、この子の為にならこんな役立たずの命、すぐにだってくれてやるのに。でも私の死は今、彼女の重荷になってしまう。だが無為に生きても、それは死んだのと同じ事だ。金が掛かる分、尚悪い。
また、もう無くなったと思っていた自尊心が傷付けられてしまう機会も増えた。最早私一人だけで生きていく事が難しくなった頃からであっても、自分で出来る事はなるべく自分で済ませようとした。だが片手の自由が利かないとそうも言えず、着替え、食事、そして排泄にも瑞希の手を借りる様になっていた。
涙が流れそうになるのを堪えようとして、堪え切れずにそれは流れ出す。それを見た瑞希は何を考えただろう? その後に私を抱き締めてくれた彼女には、どんな感謝の言葉を口にするべきだろう? その感謝の思いを充分に伝え切る言葉を、私は持たない。
そして私は、自分自身の生き方と死に様について、前以上に考える様になった。
その矢先にフジカズが公表したのは、例の治験に立候補者が出た事、その立候補者が芸能界の第一線で活躍する注目の若手である事だ。
「この子、可愛いわよね」
テレビを一緒に見ていた瑞希が言う。今時の若い子のファッションセンスはあまり分からないが、成る程、凛々しさと素朴さを絶妙な塩梅でミックスさせた様な、幅広い層に人気が出そうな顔立ちをしている。確かに『可愛らしい』顔立ちはしているが、『可愛い』と言えるかと言われれば、私としては断言しかねる。十八歳の成人なりたての人にありがちな初々しさはあまり無く、どちらかと言えば随分大人びた印象を受ける。
まあ、こんな老人が四十四歳も下の少女の容姿を評するなど気持ち悪いだろうから、口には出さないが。瑞希には適当に、そうだな、と相槌を打っておく。
だが私は、ニュースの詳細を耳にするにつれ不安と悲しみが心に広がっていった。確かに彼女はその自らの口で、今回のこの治験に立候補したとカメラの前で話している。その言葉に最初、世間知らずな子供が芸能活動の一環として今回の生体実験に名乗りを上げたのかと思った。だが、彼女の言葉と表情に、浮かれた雰囲気は微塵も感じられない。自分の行動が何を意味するか、自分がどんな危険にさらされるのかを理解した上で志願した、という様な、決意の籠った表情をしている様に見えるのだ。
その表情を、やや遠くを見つめている様な、緊張していながら何処か達観した様な、穏やかで真っ直ぐな瞳が引き立てている。私はその顔に既視感を覚えた。
「危険な側面を多く孕んでいる治験という世間の認識が多数派だと思いますが、そんな中で立候補された理由は?」
記者団の一人が質問を投げた。うら若い女優は、粛々と答えた。
「誰かがやらなければならない事だと、心から感じた為です。どんな危険とされている事でも、今回のフジカズさんの研究が次のステージへ進められれば、この地上で『マスク』を必要としない生活を再び送れる様になるという確実な未来が感じられました」
それは、熱意を込めて話せば大衆からは嘘くさいだとか、偽善的だ、と思いやりの無い言葉を掛けられるであろう内容であり、今の彼女の様に淡々と話せば本当にやる気があるのか、と責められる類の語り方だ。その後も、治験の今後の予定や内容そのものよりも、大川個人へと向けた質問が繰り返される事となる。その質問も、世論の流れに与した偏見混じりの質問が多い。だが大川は、そんな質問にもあくまで彼女自身が思った事・考えている事に沿った答えを口にしている、という印象を受けた。
つまり、メディアにも大衆にも根本的な理解を求めていない、自分を納得させる為の答え。自分が信じるものを主軸として生きる事を、声に出して主張する答え。
自分の考えを、臆面無く堂々と言い切れるその態度が、逆に私の心を惹き付けた。
同時に、遠くを見る様な彼女の表情の、妙な既視感の正体にも気付く。
彼女は、私と同じ表情をしている。
今後の自分の生死について思案を巡らせている、私と。
「瑞希」
私は静かに話し掛けた。「来週末、付き合ってくれんか」
*
「来週の日曜日だ」
『渚』メンバーが集まる暗い地下駐車場の中、雨宮は宣言した。「大川美里は明日、フジカズの研究機関によって最終検査を受けた後、例の遺伝子組み替え用の実験薬を投与される。残念ながら、先日の十七番アジト襲撃の被害とその対応により計画の進行に遅れが生じてしまい、本日の敢行が不可能だった。……だが、来週の日曜日。プロモーションを兼ねた再度のプレスリリースにより、関係者がまた一同に会する機会がある。僕達はそこでようやく、この星の自然の流れに逆らい続けようとする冒涜者達に制裁を加える事ができるのだ」
俺達は雨宮の言葉を傾聴する。一言一句、彼の言葉をこそ聞き漏らすまいとして、薄暗がりの中で彼の顔をじっと見つめ続けていた。雨宮は熱く、しかしゆっくりはっきりとその言葉を紡ぐ。
「僕らの格差は、埋まらない。金銭や生活環境に準じる幸福な者と不幸な者が居る。その差はもう縮める事は出来ないだろう。皆が平等に幸福になった時、優越感を感じる事が無くなり、相対的評価にどうしても根源的な価値観を求める我々は、不幸も幸福も感じなくなる。僕らが求めるべきは、そんなアポカリプス的な未来じゃない筈なのに。……不幸な者が幸福になるのは簡単だ。奪えばいい。だがそこもまた、僕らが目指す未来とゴールじゃない。求めるべき『幸福』は、平等故に幸福な世界だ。全ては水が流れるまま、宇宙と地球と自然の作り出す流れに身を任せるまま、何もせずにただ受け入れる事こそ、皆が幸福になれる可能性を秘めている。だがその為には、誰もがその事実と真理を受け入れなければならない。僕らだけが彼らにその理屈を説き、静かに、ただ全てをありのままに受け入れる様導いてやれるんだ。そんな環境で尚生き抜こうとしてこそ、等しいチャンスの中で足掻き、立ち上がる姿が光り輝くんだ。あの古き良き時代の映画が指し示した様に」
説く。説く。雨宮は俺達に、ただ説いた。力強いその言葉と、人を惹きつける輝きを持ったあの眼差しで。シンボルの、白い潜水艦のシルエットを指し示しながら。
「人としての尊厳を失ってはいけない。人としてあるべき姿を見失ってはいけない。だから、『渚』はみんなと共にある」
夏樹君、と雨宮は俺の名を呼ぶ。集会が終わり、あらかた皆が解散した後の事だ。またぞろ彼の部屋まで向かい、俺は要件を尋ねた。「どうした?」
「今度のサボタージュは、大西達の時と違って、もっと犠牲が出る。というより、出さざるを得ないプランになっている。幹部に近い奴を最低一人は出さないと、統率が取れなくなる可能性も捨てられない。どうだろう、見繕ってくれないかな」
「俺に、今回死ぬ奴を選べと?」
「何も今回が初めてじゃないだろう」
と、事も無げに言う。俺は肩をすくめて、そりゃそうだが、と若干の不満もある事を含んで返した。「幹部候補レベルの奴となると話はまた違ってくる。俺が育てた奴だっている」
「平等に訪れる死を、公平に与えなければならない。僕や君ら幹部が生きているのも、本当はバランスが悪いくらいだ。それとも、自分がこれ以上死神になるのが嫌かい。『渚』の理念に疑問が出たかい」
薄暗い部屋に灯るランタンの弱い明かりが、幻想的とも不気味とも取れる色合いで、雨宮の横顔をおぼろげに照らす。その微笑の下にどんな感情が隠れているのか、どんな思惑が渦巻いているのか、俺には分からなかった。知る必要は無いと思っているから別に構わないが。俺は答える。
「名前を付けたペットには、誰しも愛着が沸くもんさ」
「確かに。でも、僕らは人間だ。人間なら、割り切って合理的に行かなければ。人を動かす動機は感情じゃない。感情は、人を突き動かす切っ掛けに過ぎない。タイミングや手段を誤れば不信感しか生まない。だから、論理的に人を納得させる以外に、行動を起こさせる事は出来ない。そしてそれは近しい人間が最も効果的に行える。やっぱり、君しか居ないんだよ」
そうして『論理的な』組み立てをして、彼は俺に審判人となる様促した。
……僅かに。
ほんの僅かにではあるが、俺は目の前の男に対して、今更ながらの不信感が湧いた。それは、正に雨宮が口にした様に、『行き過ぎた感情』が見え隠れした様に見えたからだ。
雨宮は『渚』への入団の理由を、父親の不正が原因と語った。だが、先の工場爆破の裏工作を始め、今までの作戦の幾つかを、その父親の企業をフロントとして陰ながらに進めている場合は多い様に思える。
彼の正義は、本当に人類愛故に生まれたものだろうか。俺の様に、人としての愛情や善意の仕組みを理解した上で全てを客観的なものと割り切って行動しているのとは違い、雨宮は元々愛情の仕組みや理屈を理解していない様に見える。
平和を愛する正義を、ただロジックを推し進めて最適解を求めた結果、彼は死という暴力を振るう事を選んだのではないだろうか。そこには、根元的な愛情を持った上での客観的視点が無い。少なくとも、俺は一瞬だけでもそう感じてしまった。昨日の、十七番アジトの爆破だってそうだ。メンバーを逃がす為の対策や避難経路など、雨宮は初めから考えてなど居なかった。だからこそ、躊躇い無く起爆装置を起動させる事が出来たのだ。
だがその不信感も、すぐに頭の中から流れ、消える。『渚』の目的としている結論に至るまでの思考やロジックの過程など、俺にとってはどうでもいい事だ。俺が雨宮の理屈と論理に同意し、そして彼がその夢を実現しうる人間であると考えたからこそ、俺は彼に付き従うに過ぎない。
論理こそ、俺達人間の行動を変えさせる真の手段なのだから。
*
学校を休んで赤本の問題に取り掛かり、答え合わせをしている時だった。机の上の端末が珍しく鳴り、私は液晶に表示される発信者の名前を見る。飯島君だ。少し複雑な思いをしながらもボタンを押し、私は電話に出た。「もしもし?」
『よう。ズル休み?』
「うん」
本当なら、要件がそれで全部なら切るわよ、くらいの事は言ってやりたかったのだが、そんなケンカを売る様な物言いを私が出来る筈も無く、ただ最短文字数で要点を伝えるに止めた。そうか、と少し気まずそうに言った飯島君は、私に尋ねた。
『グループメッセージは見たか?』
「今日流れてきてないよ」
『あー……お前、グループから外されてるな』
「マジで」
意外性も何も無い、予測出来た話題だったので、適当なリアクションに止める。故意に情報を止めたり偽の情報を流したりされる、というのは十分な予測の範囲内の話だ。
だが、じゃあ教えるけど、と前置きして話し出した飯島君の話の内容は、私の予測を超えていた。
『大葉さんが死んだって』
言葉を失い、私は動きを全て止めてしまう。飯島君は続けた。『この前、女子高生が変死したってニュース流れただろ。あれ、大葉さんの事だったらしい。家族は、名前の公表はしたくなかったみたいだな』
そこまで聞いて時間を置いてから、ようやく私は口が回る様になる。
「お葬式は……」
『それなんだけどな……家族が、本当にどうしても来たい方だけお越し下さい、って連絡を学校に入れたらしいんだ。先生達は勿論行くだろうけど……生徒は個人で、行きたい奴だけ行く様にって』
「何で」
『学校側は、高校三年の大事な時期だから勉強に集中して欲しいから、ってのを建前にしてたけど、就職組には関係無いし……多分、死因の所為じゃないか』
麻薬のオーバードーズ。そうした死因が存在する事は風の噂で聞いていたものだが、まさか同級生に麻薬中毒者が居て、しかも亡くなる人が出てくるとは思わなかった。それがどんな凄惨な現場であったかは分からないが、彼女の両親としては、そんな原因でこの世から居なくなった娘を、同級生に見られたくないだろう。
『葬儀は来週の金曜日らしい。警察の手も入るから、もしかしたら前後するかもって。行くなら覚えておいて』
「ありがとう」
『ところで、学校いつ来るんだ』
飯島君は私の今の境遇を知らない。だから私は適当に答えた。
「もう自分で勉強してる方がいい。出席日数ギリギリ出る様にしようかなって」
それは半ば本音だった。在宅教育方針も珍しくなくなった現在、受験に必要な知識や技量は不登校な生徒にも等しく用意されている。教育費的な面から、そもそも彼らは大学への道は無いものとして世間的に扱われる為、勉強する意欲も大学へ行く気力も無くなっている生徒達が殆どだが。
『何でまた』
「色々あるのよ。男の子には分からない」
『何だよそれ。それより、大川さんと遊ぶ機会があるなら俺も誘って……』
連絡ありがと、と言って、まだ話を続けようとする飯島君との通話を強引に切り、私はひーちゃんとの思い出を思い返す。私より更に口下手な彼女だったけれど、映画の話を同等に話せるのは彼女だけだった。最近の映画だけではなく、まだ2D上映ばかりでそれが当たり前だった時代の古い映画も、彼女と語り合う事が出来た。
趣味の友達は、一生涯大切にしたいと思っていたのに。
春休みが明けて、容貌も性格も変わってしまった麻薬中毒者の彼女の姿を見て、私は距離を置いてしまった。自分が傷付くのを恐れて、既に満身創痍だった彼女を助ける事を拒否してしまった。
助けようという姿勢さえ貫いていれば、ひーちゃんはまだ笑っていただろうか。
私は思考を巡らせながら、ふらっと立ち上がる。カーテンを引いて、自室のガラスのその先に広がる曇天をじっと見つめた。そう言えばあの日、あの凄惨な光景が眼の前で繰り広げられたのも、こんなケチな天気の日だった。あの時の彼女達も、酷く傷付いていた。
三ヶ月前。
それまで、女優の肩書きを持ちながらメディアへの露出も殆ど無く、目立ったコマーシャルなどにも出た事の無い美里ちゃんが、『土星の日』の主演女優としての大役をゲットし、無事クランクアップも終わった頃。進級直前でのビッグニュースに、クラスどころか学年中が賑わった日だった。撮影終了から初めて学校に来た美里ちゃんは皆に囲まれ、一躍その名を学校中に響かせた。
私は、そんな自分とは遥か遠い存在の同級生を、それまでと変わらず遠くに見つめ、自分の世界に籠っているばかりだった。
興味津々な者、興味関心の薄い者に二分されていたクラスの中で、沙織ちゃんは違った。今まで頻繁に言葉を交わし、演技についての意見交換など、積極的なコミュにケーションを図ってきた二人だったが、その日、沙織ちゃんは少し遠巻きに、美里ちゃんを睨む様にじっと見つめているばかりだったのだ。
ほら、嫉妬してるよ。
そんな陰口がちらほらと聞かれ始めた。私はそんな意地の悪い話に参加したくなかったのに、同級生の一人が「ねえ?」なんて促すものだから、私はその話に乗らざるを得なかった。表情も演技臭くならない様に、小馬鹿にする笑いを浮かべ、強い罪悪感と自己嫌悪を抱きながら、こそこそと話をしていた。
その日の放課後、沙織ちゃんは美里ちゃんに声を掛ける。「ねえ、ちょっといい?」
普段仲の良かった二人だから、常であればそのやりとりに何ら疑問は無い。ただし今は、二人の間に妙な緊張した空気が流れていた。美里ちゃんは周囲にやや引き止められながらも、沙織ちゃんの申し出に答えて教室を後にする。余りにも自分達には不似合いな組み合わせで、何となく、誰も二人の後を付けようなどと無粋な事を考えない。
十分程も経った頃だ。「待って!」と叫ぶ様な声がして、帰宅せずにただ呆然としていた私達は教室を飛び出す。廊下のずっと先を、美里ちゃんが泣きながら走っていくのが見える。沙織ちゃんが、その後を追った。
誰も動揺して動けなかったが、私は思わず体を動かしていた。まるで映画のワンシーンの様な、非日常的なシチュエーションに眩暈を起こしていたのかも知れない。彼女達は恐らく、お互いが本音を言い合って、そして決裂しようとしているのだ。
それでもきっと、仲直りしてくれる。また前の様に笑い合っている。
そんな根拠の無い予測をして、期待をした。それを見届けたかった。
ガスマスクをして外へと飛び出した二人を追った。私は住居棟も地下モールへの入り口も無い、打ち捨てられた廃墟と真っ平らな土地ばかりが広がるその場所で、ようやく二人を見付ける。
涙で顔をぐしゃぐしゃにした美里ちゃんは、ガスマスクを外して両手を広げ、天を仰いでいた。沙織ちゃんと私は、その光景に愕然として硬直する。
「もう私、自由だよね……?」
質問ではなく、嘆願に聞こえた。息を荒くして深く呼吸する美里ちゃんは、涙を流しながら私達の方を見て。
その刹那、咳き込むと同時に大量の血を吐いた。喘息の様に席をする度に多量・少量の血が流れ、美里ちゃんは膝から地面に崩れ落ちる。喉を抑えながら苦しそうに嗚咽と咳を繰り返し、えずく程に喀血し、彼女の服は見る見る内に赤黒く変色していった。
「美里!」
叫んだのは、沙織ちゃんだった。血で汚れるのも厭わず、彼女は倒れた美里ちゃんの体を抱き起こそうとする。だけど半身を起こそうとしたところで美里ちゃんの体は激しく痙攣を始め、沙織ちゃんは自分の膝に寄りかからせる様にして美里ちゃんを寝かせ、私に向かって叫んだ「レスキュー!」
ハッとして私は端末を出し、涙ぐみながらパニックになった頭で、レスキューの電話をした。その間も、美里ちゃんの体は弱っていく。救助が来るまでもたない。
そう思った瞬間、沙織ちゃんは何の躊躇いも無く、自らもマスクを外した。
事前に深く息を吸って止めた様で、沙織ちゃんの呼吸でその体が膨らむ様子も無い。外した自分のマスクを、ひたすらに美里ちゃんの顔に押し当てていた。美里ちゃんは体を痙攣させながらも必死に本能的に意識を保ち、何とかして命を繋ぎとめようと足掻いていた。血に濡れた左手で沙織ちゃんの手とマスクを自分の顔に押さえ込み、荒々しく呼吸と吐血を繰り返す。
しばらくして、沙織ちゃんが咳き込む。だが大気の毒を吸い込んだ事による喀血の兆候ではなく、ただ息を止めていてむせてしまっただけの様だ。だがそれを切っ掛けに、美里ちゃんに押し付けていたマスクを外して自分の顔に押し当てる。
美里ちゃんも、沙織ちゃんがそうした様に一度息を止められれば良かった。でも、既に毒を吸い込んで身体中から血を流している彼女は、呼吸のタイミングを自分でコントロールする手段を無くしていた。ましてや、息を止めて我慢するなど。
マスクが顔から離れるのとほぼ同じタイミングで、また彼女は咳をして、血を吐く。慌てた沙織ちゃんは、自分の呼吸などお構い無しにマスクを美里ちゃんにあてがった。そしてそのまま、また長時間息を止めようとする。
だが、こんな状況で落ち着いて呼吸を整えたり止めたりなど、出来る訳が無かった。
ゴホ、と大きく咳き込んだ瞬間に沙織ちゃんも口から大量に血を吐き出した。顔中に冷や汗が流れている。美里ちゃんは目を見開き、痙攣して力の入らない両手を使って、自分の顔にマスクを押し付ける手を払いのけようとするが、沙織ちゃんの腕は決して動かなかった。私は端末を放り出して二人に近付き、膝をつく。でもそこからどうしたらいいのか、まるで分からない。
常軌を逸した光景だった。学年で最も輝かしい場所に立つ筈の二人が仲違いをし、一人が何故か自殺を図り、一人はそれを助けようとして。
皆、誰かを助けようとしている。自分を犠牲にして。誰かを犠牲にして。そして私は、助けようとしても自分が死ぬかも知れない恐怖に囚われて、何も出来なくて。
誰か。誰か。二人を死なせないで。
どんどんと広がる血溜まりの中で、私は声にならない声を出して泣いた。
救急搬送車が来たのは、その二分も経っての事だった。
美里ちゃんが退院した後は、しばらく誰も話し掛けられなかった。美里ちゃんも、話し掛けられる事は望んでいなかっただろう。飯島君は姿を見せようとさえしないくらい、事件にショックを受けていた。
私はと言えば、あんな姿を見てしまったものだから、受験生にもうすぐなろうというのにろくに勉強に身も入らず、頭が混乱したままの日々を過ごしていた。
メディアは、人気絶頂の新進気鋭現役女子高生女優が自殺未遂、などと好き放題に報じたが、美里ちゃんや遠藤さんら所属事務所が何ら具体的な反論や文句も言わないものだから、すぐに飽きて別の話題を探してしまった。仕事そのものには、あまり影響はなかったものと言われている。
でも、美里ちゃんの心は?
沙織ちゃんの机には、常に花が生けられる様になった。枯れそうになったら、何も言わずとも誰かが花を換え、水を換えた。皆がその花瓶と花に気を払っているのに、誰もその花の意味について言及しようとしなかった。
腫れ物に、誰も触りたくない。余計な事をしたくない。関わりたくない。
口に出さずとも、誰もがそれを肌で感じ取っていた。
無神経に近付き、話す様な奴が居れば、それこそ八つ裂きにされんばかりの異様な状況と雰囲気。
それでも、私は美里ちゃんに声を掛けたかった。
だけど周りの無言の視線が怖くて、キョドキョドと落ち着き無い動きをするばかりで。
……そして、美里ちゃんの方が私に声を掛けてきた。
紙媒体の書籍に触れる生徒も殆ど居なくなった図書室で、私は勉強をしていた。周囲に人の居ないその環境で話し掛けてきたのだから、きっと私を探していたのだろうと思う。
声を掛けられた時は人違いだと思った。でも、疲れた様な笑顔を、見ようによっては自虐的とも取れるその笑顔を見て、彼女の事を突っぱねようなんて考えは毛頭生まれなかった。美里ちゃんは私に言ったのだ。
「映画、詳しいって聞いたよ。お勧め、ある?」
*
捜査は、遅々として進まない。猪瀬、と呼ばれていった先は、上司のオフィス。口を酸っぱくさせて、ネチネチと進捗状況についての報告はまだかと急かされた。こうして一々呼び出す事を何度もしていなければ早く捜査が進むかも知れません、と一言言ってやりたくもなったが、一応出世は考慮に入れて仕事をしているので、黙ってハイハイと頷き、簡単な状況報告をするだけで終わらせた。
この上司も、彼が子供の頃はどうだったか知らないが、すでに高齢者と呼ばれる区分にカウントされている。引き下げられた定年後も、きっと再就職をして厄介な口出しをする元上司として、現場の舵取りをしたがるのだろう。事件とは関係のないところで、私は胃が痛くなる。現場を離れて十年以上も経っている様なこの男に、あれこれと指図されたくないものだ。
オフィスに戻ると、慌ただしく社内を行き来する捜査員達の間を縫って、キリオはマグカップを運んで来る。コーヒーだ。
「お疲れぇ」
「全くだよ」
私は言って、キリオからコーヒーを受け取る。インスタントの安っぽい味が、私の舌と喉を潤わせた。「どうにかならないかね」
「豆なら諦めろ。総務に言ったが、まだ壊れたミルの代用品を仕入れやがらない」
「コーヒーと違う」
「分かってるよ、冗談だ」
下らない話をして、私はまた嘆息する。『渚』が水面下で何がしかの活動をしている事は明らかだ。だが、尻尾をまるで掴めない。地下モールで爆弾の材料を購入している筈だが、あらゆる原価が高騰している現代に十分な監視設備や装置を設ける店はいまだに僅かで、だだっ広い地下通路内に定間隔で設けられている公共用監視カメラだけに警備を頼る店も多い。セキュリティと安全性に投資しない企業や店は遅かれ早かれ潰れる様な店だ、と信じている私だが、それらに関して他力本願の精神が異様に多いモールの住人に言っても焼け石に水だろう。
特に、雑多な建て増しによって建造物の構造を把握しきれない様な場所は得体が知れない。そういった場所は、戦後の移民が一つの区画を買い占め、勝手に建て増しを繰り返して際限無く広がっていき、移民が住み着いたり勝手に店を出して商売をしているケースが殆どだから、まともな技術屋を雇えないのだ。そんな連中だから、何を売っているのか分からないし、監視カメラを置いて公共機関の世話になりたがらない。移民政策による特別法令の所為で、違法にならないギリギリのラインで商売をしているのも警察としては痛い。せいぜいが、厳重な注意勧告しか出来ないからだ。
もしも『渚』がこうしたホットスポットで違法資材を購入しているとすれば、証拠が出にくい。移民にとって彼らは大事な金づるであり、大口の顧客を逃す様な不利な情報は口にしない。そうして移民の味方をする『渚』は、低所得者層以外のシンパを着実に増やして行くのだ。
そうして、ふと思う。『渚』は一体、何の為に、誰の為に戦っているのだろう。五年前の、過激派路線を取り始める前から彼らを知る身としては、正直な話、混乱も感じているのだ。
この国には、最早誇れるものは数える程しかない。それこそ、食事と治安が他国に比べていいという程度だろう。第二次大戦後の人海戦術とマンパワーによる異常な労働環境を誇りにし、のし上がった時代の労働精神を根幹に持つそれは、世界基準で異様な文明レベルの低さであり、『人の手で出来る事は、可能な範囲の努力でしかない』として充分な対価を払おうとせず、一世紀近くを無為に過ごした。そして技術もブランドも、下地の力を付けて着実に技術を発展させてきた他国にあっという間に追い抜かれた。労働力はアジア諸国で安価となり、海外企業が「労働力が安いから」という理由で国内に数多の工場を建造するに至っている。かつてこの国がそうしていた様に。
職の数には困らなくなったが、その分社会的な地位や身分の保障されない労働人口が増える事となった。そんな現状だからこそ、学生は勉学に躍起になり、或いは自らの才能を生かしてビッグマネーを掴み取ろうともがく。それでも、かつての生活水準を未だに基準としている価値観から脱却出来ない国民はその生活を悔やむばかりで、現状を受け入れられず、子供を産む不安を抱え続け、どんどん子供は少なくなる。
最早、緩やかに緩やかに、死にゆく国なのだ。
そんな国の為にと口にして、『渚』は人を殺していく。
矛盾の塊の様でいて、一つ一つの理屈はしっかりと繋がっているのだろうか。私には、到底そうは思えない。
「とにかく」
とキリオは一気にコーヒーを飲み干した後に大きくゲップし、切り出した。「来週末の経過観察発表で、連中が何かする事は確実だ。寧ろ、昨日は何で何もしなかったんだ」
「都合があったんだろ。……だが、もし来週のプレスリリースで何かするとなると、或る意味その方がベターだろう」
「何故?」
「例の、実験に立候補したという女優の女の子が出席する。フジカズの言った、プロモーションの一環だ」
私は液晶端末を開いてニュース記事を見せる。詳細な日程と場所以外を記した、フジカズの公表する実験過程のスケジュールが発表されている。来週の平日、いずれかのタイミングで投薬実験。のち、経過観察。実験対象は、志願した大川美里を含める五名。性別年齢をなるべく分散させて被験者を選別したらしい。実験としては通常の対応だろう。
キリオは、一通り記事を読んで嫌悪の表情を隠さなかった。
「やっぱり、正気の仕事とは思えねぇな」
「何で?」
「だってそりゃあそうだろう。人間の体をいじくりまわすなんて、農作物の遺伝子組換えじゃないんだぜ。しかも世代交代無しなんて……」
「……そうかな」
私は呟く。
人間の体は、数ヶ月のローテーションで体の全細胞が新陳代謝により入れ替わる。フジカズの一時発表によれば、それと同期間というわけにはいかないが、新陳代謝を繰り返す事で一年から五年の間に、遺伝子の一世代変換は終了するとの事だ。それにより、遺伝子組換え後の当人の体は大気の持つ毒に対して耐性を持ち、ガスマスクを必要としない体を得る事が出来るというものだ。曰く、肺のフィルター機能に更なるレイヤーを追加する事で永続的な活動が可能らしい。勿論、これが技術的に、世界的に見てもかなり高度なものである事は素人の私でも分かる。
「採算取れるのかね、これ」
そう呟いてみた。開発の諸経費や初期投資が多過ぎて、一般家庭には中々浸透しないタイプの技術開発ではないか。速やかな資金の回収が可能でない技術に対しては予算が認可されない傾向の強いものだが、幾ら支援金があったからといっても、最初の一年でペイ出来るかどうかも厳しいのではないだろうか。
と、キリオが唐突に声に出す。
「それだ……」
「何が?」
「それだよ。資金。利益。道徳や宗教的な枠組み以外の面から、フジカズのこの技術開発を良く思わない奴らがいる筈だ」
私は眉をひそめ、訊き返す。「そんな奴居るのか?」
「居る。ガスマスクの生産会社だ」
あっ、と私も声を漏らす。『大災厄』以降に起業した企業も多く、その多くは大気毒に対する防衛製品、主に空調チェンバーやガスマスクを製造・開発する企業だ。人類の夢であるこの大気毒の克服は、彼らにとっての廃業を意味する。確かに面白くないどころの騒ぎではなくなるだろう。
「そいつらが、もしも『渚』と接触して、陰で協力していたら?」
製造や検査の過程上、工場では薬品や化学実験の検査機関を設置している事が殆どの筈。もしそうなら……
「俺達の予測出来ていない爆弾か、化学兵器が使われる可能性がある」
*
美里ちゃんとは、しばらく連絡が取れなかった。流石に少し心配になって何度か端末から連絡を入れるけど、一向に繋がらない。美里ちゃんの家族に電話を掛けてみる。緊急連絡網の電話番号など久しぶりに使ったが、コール音数回ですぐに相手は出た。美里ちゃんのお母さんだ。
簡単に自己紹介をして、美里ちゃんと連絡が取れないので近況はどうか、と丁寧に尋ねた……つもりだったが、相手の反応は少々辛辣だった。言葉遣いそのものこそ丁寧ではあるが、さもうざったそうな口調でため息を頻繁につき、適当に相槌をついていた。
『あの子なら大丈夫ですよ。マネージャーが、撮影やら例の治験やらで数日間は帰れなくなりそうですって、ペコペコして挨拶してきたから。全く、あの子もあの子よねぇ。親に黙って治験に立候補なんてさ。成人してるって言っても、あなた達はご存知ないかも知れないけどね、アタシらの親の世代じゃ成人年齢って二十歳だったのよ、二十歳。だからウチではまだまだあの子は子供って扱いなんだけど、最近なんだか反抗し始めてねぇ。家の考えは古いとかなんとか言っちゃって、生意気でしょう、あの子? 収入はあの子が今一番稼いでるからアタシらに預けなさいって何度も言ってるのに、自分で管理するって言って聞かないのよぉ。暗証番号も教えやしないの。不安でしょう? ねえ、それとなくあなたから、勘付かれない様に口利いといてくれない? いやね、変なつもりはこれっぽっちもないのよ、本当本当。でも生意気に自分の意見を親に言ってたて突くって、そんな子が大金管理するって不安でしょう? あの子の為なのよ。あなたも卒業したらどうせ働くクチでしょう? 大学なんて行ってもどうせ無駄だもんねぇ今の時代。親にしっかりお金を返して奉公しなきゃダメよぉ。その点、ウチの子は有名になった途端あんな態度になっちゃって、今までどれだけ役者になりたいなんてわがまま聞き入れてやったと思ってるのかしら? ねえ、あの子学校でそんな独りよがりな事してない? レベルの生徒さんにそんな態度取ってたら、強く注意してやってくださいな。そんないい案件に逃げられたら大問題よ、大問題。長男みたいに自分よがりの正義感押し付けて退学なんてなったらそれこそ本末転倒でしょう? あの子も勉強だけが取り柄みたいな子だったのに。……勉強もお芝居もどうでもいいから、芸能界なんて浮き沈みの激しいトコ離れて、いい収入の家庭に入って悠々自適の生活をしてくれたら、アタシ達だってこんなレベル1なんかに住みゃしないのよぉ……ああ、そうそう! アタシ達ね、娘の収入のお陰でね、今度レベル2に引っ越すのよぉ。ここまで長くってねえ。旦那が甲斐性無しだからそっちの収入的に期待なんて出来なかったのに、ホント美里様様ヨォ。だから……』
およそ、相手に話させる気の無い一方的なトーク。いや、TalkというよりTellだろう。自分だけの価値観が相手にも共通のものと信じ切っており、それを改めるつもりが無い。
そしてそんな押し付けがましい意見とは別にして、純粋に私は美里ちゃんの親を好きになれなかった。確かに私は自分からものを言わずに、そして言い返せずに、ただ受け身になって話を聞く事しか出来ない。だがそれでも、こんなたった数分の短い会話だけで不快感を覚える程度に、美里ちゃんの母親から毒を感じた。それは大気の毒よりも、よっぽど私の体に悪い。
しかし私がそんな事を言える筈も無く、結局三十分も無駄に通話してしまった。ネット接続優遇の通信プランだから、通話料高いのに。
でも、と思う。美里ちゃんは、あのお母さんに育てられたんだ。
他人の家庭環境について口出しをするつもりは無い。母親がどうだからと言って、私が知る美里ちゃんの姿にフィルターが掛けられるなどという馬鹿な事もしない。
それでも、何だか私は寂しい気持ちになった。
美里ちゃんとよく話す様になって、彼女と本音で話をし合う事がようやく出来る様になった頃、どうして女優を選んだのかを訊いた事がある。
『一芸に秀でてればそれを活かせばいいって良く先生には言われるけど、美里ちゃんはやっぱりそれが理由?』
強化ガラスドームで目一杯の採光をしている学内の庭園で、ベンチに腰掛けてお弁当を食べながら、私と美里ちゃんは話していた。絶滅危惧種のスズメとハトを放し飼いにしている、恐らく学内でも最もお金を掛けている、そんな贅沢な場所。美里ちゃんは、頭上を飛んだスズメのつがいをぼんやりと見上げながら、そうだなぁ、とぼやく。
『勿論それもあるけど、でも、夢よりも先に必要性が前に出てきちゃうな』
『必要性って?』
更に訊くと、美里ちゃんは困った様に微笑んでみせながら、自分で作ったという卵焼きを口にした。そうしてやはりぼんやりと晴天の空を見上げながら答えるのだ。
『簡単に言うとね、私、早く家を出たいんだ。高校出たらすぐに就職するのが一般的だけど、レベル2以上の生活を維持したかったら大学に行って、正社員になる必要があるわけじゃない。でも私は、今の家が嫌いなんだ。早く出て行きたいけど、ただ流されてその他大勢の生き方をしただけじゃ、実家から抜け出せない気がして。かと言って、大学に行くのにバイトだけじゃ足りないし、親はお金を出したがらないだろうし。……そうして私が自分を活かせそうなものが何かって考えて、女優を選んだの。つまり、消去法なの。私が選んだ未来は』
それ以上詳しい理由は言わなかったが、私には何となく察する事が出来た。美里ちゃんは、自分には、『そこそこ』程度の容姿と身一つしか取り柄が無い、と言いたいのだろう。あとは躊躇いも迷いも無くした『演技』を身に付けられれば、成功すると。
『でも、甘かったなぁ。ほぼ三年間、全然芽が出なかった。親にはそれ見た事かって一日中言われるし、マネージャーの人は私の為に所長や仕事先の人に頭下げて……だから沙織ちゃんは、本当に凄かったんだって思う。ちゃんとやりたい事を見付けて、やり切って、その後に大学っていうまた新しい目標を見付けて、頑張って……誰にも流されない生き方が、とても羨ましかったのに……』
『美里ちゃんだって。学校じゃ今や発言力トップだし、リーダーシップもカリスマもあって……』
順調じゃん、と言おうとして、流石にそれは控えた。『とにかく良かったね。とうとうスタートが切れたじゃん。映画主演デビューで』
誇らしげに、私はそう言った。
美里ちゃんはぼんやりした顔で遠くを見たまま、何も答えなかった。
あの時、彼女は何を考えていたのだろう。
ともかく、美里ちゃんは取り敢えず無事らしい。一安心だが、やはり連絡が取れないのは少し気になった。彼女は、ひーちゃんの訃報を知っているだろうか。葬儀に出席は出来るだろうか。
一緒に行けるかな、と一瞬考えた、何を言っているんだ、と私は自虐的に笑ってしまう。毎日学校に行く必要なんて無いと割り切ってから、私はとても気が楽になっていた。出席日数と定期考査の点数だけ気にしていればいいというのは、私にとってストレスを最低限に抑えるこの上無い手段だ。だが、友達とスケジュールを合わせられないという事の裏返しでもある。ましてや、既に学業と女優・モデル業を平行させている美里ちゃんと日程を合わせるなんて。
やはり一人で行こうと決めた。スケジュールを確認しようと端末を開くと、SNSニュースが流れてくる。
【速報】フジカズ治験経過公表、日程公開
それは、ひーちゃんの葬儀の日、午後から行われるとの事だった。
午前中にお焼香を済ませた後は、地下鉄を使って十分行ける距離だった。でも、着替えていたら間に合わない。手提げの中にカーディガンなどを入れていけば問題無いだろうか。色々考える事があるなぁと他人事の様な感想を呟いてから、私は再び勉強に取り掛かった。
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