『軒端に揺れる』

 夏の日の夕方。濁った浅葱色の空は灰色の雲の波に覆われていた。太陽は山並みに沈むよりも早く雲に隠れてしまい、すでに街明かりがちらほらと灯り始めている。

 俺は埃っぽいサンダルを突っかけ、ベランダから夕暮れの曇り空を見上げる。七夕の夜が始まるというのに、金、銀、そして砂子さえ見えやしない。……砂子ってなんだ?


 そんなことを考えながら、広げた翼を風に当てる。冷えた夜風の心地良さに呆けていると、ベランダが急に明るくなった。アズマさんが部屋の灯りを点けたのだ。先輩は掃き出し窓を開け、『天の川、見える?』と俺の背中に声を投げ掛けた。俺は首を横に振り、『ダメです』と伝える。だが、そう見えないと伝えたはずだったのに、ベランダに降りたアズマさんはぺたぺたと気の抜けた足音を立てて近寄ってきた。先輩は俺の翼をのれんのように潜り抜け、少し背伸びしながら俺の隣で空を見上げている。


「やっぱり見えないね」

「言ったじゃないですか」

「……前の五福だったら、“見えないんだったら、雲の上まで飛んでいきます”とか言ってたのにね」


 微笑ましいのか、からかっているのか。よく分からない目の細めかたをするアズマさん。昔の話を蒸し返されるのはもちろん良い気はしないし、何よりアズマさんにからかわれたままなのはちょっと悔しい。かくなる上は……


「……アズマさんが行ってくれって言うなら、俺はいつでも行きますよ」


 まるで悪い誘いをするかのように、俺はアズマさんに小さく耳打ちをした。先輩に味わわされた恥ずかしさを更に塗りつぶすよう、自ら恥ずかしさを曝け出す作戦…… そのつもりだったのだが、これはダメだ。『やっぱり、何でもないです』と呟くのが精一杯、俺は情けないほど熱くなってしまった翼をおずおずと畳むしかなかった。


 一方のアズマさんといえば、『ありがとね、五福』と照れの色を浮かべることも無く、ただ嬉しそうに返事をしてきた。俺はやっぱり、先輩には敵わない。いつかアズマさんに天の川を見せられる日が来るのだろうか。そんなことを考えながら、俺は先輩と一緒に明るい部屋へと戻った。

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うちの子 リタ(裏) @justice_oak

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