『ファントム・ファンタズム』

 夜中、ラトは知らない布団の中で目が覚めた。嗅いだことの無い洗剤の匂い、据わりの悪い枕、さらに言えば、布団だけでなくこの部屋すべてが彼に違和感を抱かせていた。まるで自分の部屋ではないような……


(いや、そうだ…… ラクタの所に遊びに来てたんだった)


 見慣れぬ部屋も、友人のものだと分かれば話は別だ。ラトが寝返りをうつと、隣で寝息を立てるリリのシルエットが目に入った。この居室の主であるラクタが、彼とリリのふたりへ部屋と寝具を貸し出してくれたのだ。『持つべきものは友だな、ありがとう』と、ラトは独り感謝を呟いた。当のラクタは“ソファで寝る”と言い、寝室には入らずひとり居間に残っていたからだ。


 ラトは部屋の中をぐるりと見回す。すると、ドアを縁取るように白い筋が走っている事に気が付いた。彼が寝ぼけ眼を擦って目を凝らすと、それは少しだけ開いたドアの隙間から漏れ出す光であった。どうやら、ラクタは居間でまだ起きているらしい。その証拠に、ドアの向こうで何かを呟くような話し声がラトの耳に入った。


(……いいの? ふたりを一緒の部屋にして……)

(大丈夫だろ。ラトはその辺しっかりしてるし)

(リリちゃんは?)

(……その時はその時だ)


 いまだ半分夢に浸かっているような頭で、ラトはぼんやりと、扉の隙間から漏れてくるラクタの会話を聞いていた。『こんな夜中にSkypeでもしてるのか』と、彼は息を殺して聞き耳を立てる。次第に醒めていく眠気と入れ替わりに、彼の心の中で好奇心が頭をもたげてきていた。


(あのふたりは奥手だからねー。そうだ、ポルターガイストでもしてこようかな?)

(やめてやれ。メルカはそういう……)


 『なんだ、いつものメルカさんか』と、ラトは拍子抜けしたように枕へ顔をうずめた。メルカといえば、ラクタとは切っても切れない縁を持つ、正真正銘、彼の“パートナー”であった。島に居た頃はよく4人でつるんでいたのだが、彼女だけは日本へ来る前に事故で死んでしまった。ラトはそう覚えていた。

 

 そう思い出した途端、ラトの背筋を粟立つ悪寒がなぞっていった。『メルカさんは死んだ。その筈だ』。ラトの眠気はとうに消え失せており、扉の隙間から漏れる線香の残り香がつんと彼の鼻を突く。『確かに線香だって供えたはずだ』と、記憶の底から微笑んだメルカの遺影が思い出される。だが、その煙の流れに乗ったラクタとメルカの話し声は否が応でもラトの耳に入ってくる。“悪い夢”という言葉が彼の頭に浮かんだ。


 『……そうだ、夢だよね』。信じがたい現実から逃げるように、彼は頭の中でその言葉を反芻した。だが、その誤魔化しも長くは続かない。ラトの背に触れる何者かの感触が、彼を無理矢理現実へと引き戻したのだ。油が切れた機械のようにラトが恐る恐る背中を振り返ると、そこには額に脂汗を滲ませたリリが今にも泣きそうな顔で彼の寝間着を掴んでいた。


「……ねぇ、あの声。メ、メルカさんだよね」

「聞こえるんだ、リリも……」


 夢ではないという現実を突き付けられ、ふたりは青ざめた顔を見合わせた。そうしている間にも、隣の部屋からはラクタとメルカの談笑が聞こえてくる。それは寝ている(と思われている)ラトとリリを気遣うような囁き声だったが、それが逆に不気味さを掻き立てた。


 リリの浅い呼吸がラトの鼓動を急かす。いつまでもこうしている訳にはいかないと、ラトはそう考えていた。『ラクタがおかしくなってしまったのか?』『よく似た声の主が居るのか?』『……あるいは、メルカさんが亡くなった事は夢だったのか?』。いずれにせよ、ラトは横で震えているリリを安心させようという決意の下、やおら布団から立ち上がった。暗闇の中、彼は振り返ってリリへ笑いかける。ぎこちない笑顔だったが、彼女は小さく頷くと掛け布団の中に潜り込んだ。


 四本の鼻足を動かしながら、ラトは這うように扉へ近付きノブへ手を掛ける。いよいよラクタとメルカの声は大きくなり、その息遣いすら分かるようだった。

 

 ラトは覚悟を決め、勢いよく扉を開け放つ。白い蛍光灯の光に目が眩んだが、次第に世界が輪郭を取り戻していく。彼の目に入ったものは、まるで幽霊でも見たかのように目を丸くしているラクタただひとりであった。


「……ラクタ。メルカさん、いるの?」


 呆然とするラクタの目の前で、ラトはそう絞り出すのが精一杯だった。しんと静まり返った部屋の中、ラトの声も、ラクタの声も、寝室にいるリリの声も、そして居ないはずだったメルカの声もしない。お互いに目を逸らすこともできず、奇妙な睨み合いが続いた。

 だが、沈黙は永遠には続かない。最初に動いたのはラクタだった。彼は自省するように目を伏せると、言い訳をして取り繕うでも、あるいは開き直るでもなく、ただひと言『いないよ』と呟き、バツが悪そうに頭を掻いた。


「話し声がしたんだ。ラクタと、メルカさんの」

「……そうか、あいつは何て言ってた? 最近、恋しくてな」


 ラクタは近くに置いてあったペットボトルの水を呷ると、小さく溜息をついた。『慣れない部屋で眠りが浅かったのだろう』と言いながら、彼は何かを確かめるようにラトへ向き直る。ラトはしばらく逡巡していたが、結局は追及を諦めた。近くにあったパソコンのディスプレイを指差し『きっと、誰かと通話してたんだよね。俺たちはそれを聞き間違えた、でしょ』と、ラクタに念を押すように問いかけた。


「……ああ。うるさかったよな。ごめん」

「いいよ、お邪魔してるのはこっちだし……」

「リリは?」

「言っとくよ、俺から」

「悪いな、頼む」


 ラクタと別れたラトは暗い部屋に戻りながら、安心したような、逆に薄ら寒いような、自身でも実体を掴みかねる感情を抱いていた。『あれは、いつものラクタだった。彼はおかしくなどなってはいなかった。いや、あるいは、出会った時から……』。そこまで考え、ラトはその考えを散らすように頭を振った。ラクタはラトにとって、掛け替えのない友人である。それは紛れもない事実だった。

 

 だが、まずは怯えていたリリを安心させ無ければならない。それを伝えるために、ラトはリリが隠れている掛け布団をめくった。そんな彼の思いを知ってか知らずか、布団に包まっていたリリはすでに安らかな寝息を立てながら、再び眠りへと落ちていたのであった。



ーー

ーーーー


「……一応、誤魔化せたのか?」

「ラトくんが理解力高くて助かったよ。……ねぇ、それより。私の事、“恋しい”の?」

「……何だよ、その顔」

「はははー、赤くなってる」

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