『When You Wish upon the Moon』

《今日は“中秋の名月”だね》

《満月の日と一緒になるのは、8年振りなんだってさ》

《楽しみだね……》


 電車に揺られながらうつらうつらとしていたアズマの耳に、小声で囁くような男女の会話が届く。それは空調の風向きや車内の混み具合など、様々な偶然が重なったほんの一瞬であった。


 その他愛ない会話がやけに引っ掛かったアズマは、薄目を開き声の主がいるであろう前の座席をちらりと見る。そこにはまるで双子のように瓜二つな男女の姿があった。彼らのこそこそとした会話はもはや聞き取れなかったが、その顔はほがらかだ。『兄妹きょうだいかな』と、アズマは再び目を閉じた。


(でも、8年振りの満月か……)


 『8年』。反芻するように、アズマはその数字を頭の中で繰り返した。閉じた瞳の中で、彼の意識は過去の記憶を“まるでモグラのように”掘り進めていく。


(あの頃はまだ、先輩もいた。イサドさんやこころさんにも会ったばかりで……)

(何より、五福とはまだ出会っていなかった)


 アズマははっと目を開いた。『そうか』と、思わず声が出る。前の座席に居た男女は訝しげに彼をちらりと見やったが、すぐに目を逸らし会話を再開した。

 

 『この世界にとっては8年振りの月夜だけれど、五福にとっては初めての事なんだ!』。アズマは居ても立ってもいられなくなり、早く五福に伝えてあげたい一心でスマートフォンを取り出す。だが、彼の気の焦りは自身が思っていたよりも深刻だった。慌ててもつれた指の間から、スマートフォンは滑るように飛び出してしまった。

 声を上げても、もはやスマートフォンへは届かない。それは躊躇うこと無く電車の床を滑り…… コツンとアズマの前に座っていた男性の靴に当たった。彼は薄黄緑の髪を揺らして足元を見、スマートフォンを拾い上げる。そのままアズマに軽く目配せをすると、隣に座っていた女性と共にやおら立ち上がり、気まずそうに腰を浮かせたままのアズマの元へと歩み寄った。


「はい、どうぞ。大丈夫ですか?」

「あ、ありがとうございます…… よかった、画面も割れてない」


 スマートフォンの埃を払いながら、アズマはひとまず胸をなで下ろす。彼の眼前に立つ男女も笑いながら、ふたりが全く同じタイミングで『『なら良かった』』と呟いた。


「……そういえば。だいぶ慌ててたみたいですけど、どうかしましたか?」

「え? あ、ああ…… ちょっと、伝えたい事があって。その、知人に……」

「中秋の名月、ですか?」


 あどけなさすら感じるような彼らのストレートな質問を受け、アズマは答えに詰まってしまった。それもその筈。アズマはつい先刻、彼らの目の前であからさまに声を上げてしまっていたからだ。あれでは“盗み聞きしていました”と告白した様なものだと、アズマはまた気まずそうに目を泳がせた。


「燦! 困らせる様な事聞くなって……」

「あ、ごめんなさい。責めてる訳じゃ無いんです。つい気になっちゃって……」

「……あー、いや、その…… ええと、ごめんなさい、おふたりの話、ちょっとだけ聞こえてました。8年振りの満月と名月のお話、すごく素敵だと思って……」


 『それを、伝えたい人が居たんです』と、アズマは恥ずかしそうにそう答えた。その緩んだ顔に釣られてか、目の前のふたりも顔を綻ばせる。『『きっと、喜んで貰えると思いますよ』』。まるでコーラスのように重なったふたりの言葉は、喧噪に満たされた電車の中であっても、確かにアズマへと届いていた。

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