『もしもし、私』
夕方と呼ぶにはまだ早く、昼と言うには遅すぎる…… そんな午後の事。俺と燦は取り立ててやるべき事も無く、ただ何度も読み返した本をパラパラと捲っては閉じる、ぬるま湯のような時間を過ごしていた。
そんな時、何となく手に取った旅行雑誌。『いつか行きたいね』と買ったものの、結局写真を眺めるだけで満足してしまった本だ。青い海に、美味しい料理。魅力的が故に、情報だけでお腹いっぱいになってしまう。
俺は色とりどりの写真を十分に堪能し、左手で本を閉じようとした。しかし、どうしても右手が動かない。『燦』と、俺は右半身にひと言呼びかけてみる。だが、右隣に座っている燦は返事をしない。その代わりに彼女はキラキラとした瞳で、開いたままの雑誌と俺を交互に見た。
「……ねぇ、潑。久しぶりにさ、あれ……」
そして、おずおずと、だが確かな意思を持って燦は俺に語りかけてきた。言葉は少なくても、彼女の意思は確実に伝わる。鮮やかな外界の写真と言えば、もちろん『久しぶり』の『あれ』だ。
そうと決まれば、もちろん気分が乗っている内がいい。ベッドが軋む音と共にかすかな埃を巻き上げ、俺と燦はベッドに倒れ込んだ。白い壁紙、揺れるレースのカーテンから射し込む光。見上げる天井はいつも通りだ。俺は目を閉じ、真っ暗な視界の中に“ひとり”沈み込んでいった。
自らの心音だけがやけに響く闇の中で、待ちわびていたスマートフォンの着信音が聞こえてきた。それはまるで朝を告げる鶏のように、闇の中から俺の意識を引き上げていく。でも、まだ目覚めるタイミングではない。『だいたいこの辺りだろう』と指先の感覚で当たりをつけ、応答ボタンがあるであろう場所をタップする。さて、上手くいったかだろうか……
《……もしもし、潑?》
成功だ! 耳元に当てたスマホから燦の声がしっかりと聞こえてきた。今まで何千何万と聞いてきた、自身の半身の声。だが、電波を通したからか、あるいは左耳で聞いているからか、燦なのに彼女の声ではないように聞こえてきて、少しくすぐったい様な気分だ。それはやはり燦も同様で、少しノイズ気味にざらついた声はやけに弾んでいた。
「もしもし、聞こえてるよ。今どこに居るの?」
《今ね、海に来てるんだ!》
……もちろん、そんな訳はない。これは俺と燦なりの遊びだ。始まりは研究所時代、小さかった俺達はあまり外出できないフラストレーションを解消するため、お互いどこかに出掛けている気分になってただただ夢の旅路を語り合う…… そんな遊びをしていたのだ。半ば無意識で始めたままごと遊びだったのだが、自由に出歩ける今でも続いてしまっていた。
「そっちはどんな感じ?」
《えーっと…… とにかく、めっちゃ広い! 天気も最高だし、海の家もある》
「いいな」
《でしょ! 潑も来れば良かったのに》
どうやら俺はそこにはいないらしい。電話を掛けているという体なのだから当たり前か。燦を見習って、自分の方も“非日常”に切り替えないといけないようだ。そんな事を考えている間にも、燦は彼女の思い描く海を楽しげに紹介してくれていた。弾ける波頭の飛沫を被って冷たいとか、足元が熱い砂まみれになったとか…… おそらく、彼女の空想といつかの思い出が混ざり合ったものだろう。そして、彼女の思い出は俺の思い出でもある。ただの実況に留まらず、俺は電話の向こうに確かな臨場感を抱いていた。
《あー、やっぱ海に入りたいな! 実はもう水着に着替えてるんだよね……》
「あ、そうなの?」
不意打ちのような設定の追加に、思わず素のままの返事をしてしまった。
「水着かぁ…… 燦のは皆の目を惹いちゃうから、気を付けないとだな」
《あら、心配? でも大丈夫だよ、私には……》
「あ、彼氏さんとか居る感じ?」
『違うよ!』と、燦の慌てたような声が“右耳”から聞こえてきた。突然の事に燦の方振り返ると、しまったとでも言いたげな彼女と目が合った。“左耳”に当てたスマートフォンからは、ツー、ツーというビジートーンが聞こえている。どうやら、深刻な設定の食い違いがあったようだ。燦の意図に沿う答えを出せなかったのは残念だが、彼女の思い描いていた世界に悪い気がしないのもまた事実だった。
「……俺、そっちに行ってないんじゃなかったっけ?」
「それはそうだけどさ。離れてたって、潑は潑だし……」
「……今日はこれでおしまいだな。でも、いつか本当の海にも行きたいな。燦の水着も見たいしね、隣で……」
俺と燦は弾みをつけ、ベッドから起き上がる。太陽は多少傾いたとはいえ、まだ十分すぎるほどの日射しを窓から射し込ませていた。無造作に放り出したままだった旅行雑誌を、もう一度ゆっくり読む時間ぐらいは取れそうだ。
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