『無音の足』
しんと静まった名も知らぬ路地裏を、私と撥は影を連ねて歩む。私たちが歩を進めるたび、砕けたアスファルトの破片が靴の裏で乾いた音を立てた。
昼前にも関わらず、この路地は人影ひとつ見当たらない。奥様方の井戸端会議も、家から漏れるテレビの音も、つまり、『生活音』と呼べるものが何一つしないのだ。不気味な静寂は、たまたまここを通っただけの私たちでさえ声を出してはいけないような気さえさせた。その息苦しさは撥も同じだったようで、私たちは言葉を交わす事もせず、ただ早くこの路地を抜けたい一心で歩み続けた。
そんな気ばかり焦っている私たちを一層げんなりさせるのが、家々を囲うブロック塀だ。道の両脇を固めるそれは明るい日射しに照らされ、その無味乾燥な四角い影を道路に落としていた。その塀は、侵入者を入れないためか、あるいは中に潜む何かを外に出させないためか……
撥との会話も無く、また変わり映えしない景色のせいで、私は想像力ばかりが先走り始めていた。
誰かが家の中から私たちの様子を伺っているのではないだろうか? 誰かが、私たちの後をつけてきているのではないだろうか? 私と撥の重なった足音に、知らない誰かが割り込んでくるのではないだろうか? いつかどこかで聞いた“怖い話”の焼き直しが、私の頭の中で歪に積み上がっていく。独り歩きしはじめた思考は次第に体と剥離し、気が付かないうちに隣の撥との歩調がずれる。そんな自分自身の状況に私がやっと気が付いたのは、撥が私たちの縺れた足に慌てて歩みを止めたからだった。
「……燦!ストップ!ストップ! 」
「わっ、急にどうしたの!?」
「『どうしたの』はこっちだよ…… 燦、大丈夫?」
状況が呑み込めず呆気にとられているを見て、撥は怒りよりもまず心配の方が強かったようだ。確かに彼の言う通り、多少の事では私たちの歩みがズレる事は、今までほぼ無かったはずだ。この奇妙な路地の雰囲気が、いつもの調子を狂わせているのだろう。私の反省と緊張でしょぼくれた顔を見たからか、撥はいつもの声で『急ぐけど、慌てるなよ』と笑ってくれた。
「……うん、分かった。気を付けるね」
「ここを出たら、何か甘いものでも買おう。そしたら、用事も…… その…… 」
その変化は、あっという間だった。ついさっき私を励ましてくれた撥の声が、まるで昼を迎えたアサガオのようにみるみると萎んでいったのだ。“どうしたの”と彼の顔を覗き見るが、彼の目線はじっと前を…… 私たちの進行方向、路地の先に向けられていた。肩を通じて流れ込んでくる彼の感情は、さっきまでの焦燥しきった私と同じものだ。私は彼の視線をなぞり、その理由を知ろうとした。
私たちの行く先に立つ、一本の電柱。その陰から、ピッタリと揃えた両足の先が覗いていた。この路地に突如として現れた“人間”に、私も撥と同じように、その薄汚れたズボンの裾と土に塗れたスニーカーの裏側をただ見詰める事しかできなかった。
「何、あれ」
「……やっぱり、燦も見えてるよな?」
撥の絞り出すような声が私の耳に入る。未だに整理のついていない私の頭では、頷くことしかできない。やや日が傾いてきたとはいえ、まだ空は青く、雲も白い。白昼堂々両足を投げ出して寝転がる人物がいるとするならば、どう転んでも“よほどの事”だろう。『死んでるのかな』、『助けた方がいいのかな』と、私は膨らみ続ける不安を吐き出すように呟き続ける。撥は何も答えてはくれず、じっと怪訝そうにその両足を見つめていた。
「……燦。帰ろう。今日はもう駄目だ」
ふいに、撥はきっぱりとした口調でそう言い切った。『どうして』、『なぜ?』。言いたいことはたくさん頭浮かんだが、彼は私の返事を待たず力尽くで自らの体を180°転回させた。私は肩ごと振り回され、無理矢理反対側に向かされた様なものだ。遠心力によろめく足を何とか振り出し、半ば逃げるように歩き出した彼と歩みを揃えた。
「ちょっ、ちょっと! 回るんなら言ってよ……」
「燦も見たろ、あれ!」
「いや、見たけどさ…… もし事故とかだったら……」
「……電柱の後ろから、足首から先だけ見えてるんだぞ。膝とか、上半身とか、どうなってるんだよ。……ブロック塀があるのに」
撥の言葉は微かに震えていた。粟立った背筋が、背後から私たちを追い立てる。私も撥も、早くこの路地を出たい一心でその足並みを揃え、来た道を引き返す。幸いにも、そのふたつの足音に混ざる“3つめ”は聞こえてこなかった。
気が付けば、いつの間にか周囲は見慣れた街並みが戻ってきていた。空はまだ青く、太陽は眩しい。街の喧噪が静寂に慣れた耳を刺激して、私たちを現実へと引き戻す。ようやくあの路地を抜けたことに気が付いた私たちは、顔を見合わせて大きく息を吐いた。撥は私のやつれた顔を見て、その隈のできた目を細めて小さく笑ってくれた。
……その後。あの路地で人が倒れていたという噂も、バラバラ遺体があったなどというニュースも、一切私たちの耳に入ってこなかった。芽吹さんを通じて、桑都の神様やお化けたちにも聞いてもらったのだが、特にあの周囲は曰く付きの土地では無いようだ。あの時から、私たちはあの路地を通っていない。その“何の変哲も無い”足首が、あれからずっとあの電柱の影から突き出している様な気がしてならないのだ。
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