『夏のはじまりとその終わり』
赤褐色に枯れかけた庭先のアジサイの花を見ながら、半分だけ開けたテラス窓のサッシに身をもたれかける。冷えたアルミが湿気った肌に心地良い。『もう、初夏も終わりだな』と、霞んだ空を見上げて呟いた。
「……夏のはじまりをそんな風に言う人、なかなか居ないよ」
「あ、ふみつき。おかえりなさい」
からかうような声と共に、玄関の方からぺたぺたと近付いてくる汗ばんだ裸足の足音。俺の触角がふみつきの纏う街の匂いを受け取り、小さく揺れた。“雑居ビルの並ぶ街道”、“駅の人混み”、“棚に並んだ野菜”…… 昼間の外出にも関わらず、かなりの大冒険をしてきたようだ。『お疲れさま』と、労いの代わりに片手をひらひらと振る。それでもふみつきの歩みは止まらず、彼の匂いは段々と強くなる。気が付けば、それは自分のすぐ後ろで存在感を放っていた。何かお土産でもあるのだろうか。俺はすっかりぬるくなったサッシから頬を離し、背後の彼へと向き直る。俺の顔を見た彼は、『赤くなってる』と笑いながら、俺の頬についた直線の痕を軽く撫でた。
「……で、何かあったの?」
『これ、これ』と、彼は上側の右腕で、下の腕を指差す。その途端、彼の匂いの中に感じていたにあった“棚に並んだ野菜”の記憶が、まるで釣られた魚のように現実に引き出された。この匂いは……
「スイカだ」
「そ。さっきそこでいのりさんに会ってね、貰ったんだ」
いのりさん。いのりさん……? いまいちピンと来ていない俺の顔を見て、ふみつきは上の階にいるオオカマキリの人だと教えてくれた。『人の名前を覚えないんだから』と、彼はまたくすくすと笑う。カブトムシは視覚よりも嗅覚が優れているのだから、俺だって匂いさえ分かればすぐ思い出せると言い訳をしてみる。ふみつきはまるで子供をあやすように『はい、はい』と相槌を打ち返してきた。どうにも、彼は出会った時から俺の事を(概念的な)子供だと思っている節がある。だが、俺自身それは否定できない。何よりの証拠として、すでに俺の意識は目の前の“素敵なお土産”、ふみつきの腕に抱えられたスイカに向けられていた。
「立派なスイカだね。身も詰まってるっぽいし……」
「うん、かなり重いよ~。持ってみる?」
俺は二つ返事で、そのスイカに腕を伸ばす。彼の腕の中で、より一層強くなる青臭い野菜の匂い。緑と黒の果実に秘められた真っ赤な果肉を思い浮かべていると、ふみつきはスイカを転がすように俺の両腕へと受け渡した。『あっ、思ったよりも重い』。それが、スイカに対する俺の最後の思いだった。
声を上げる間も無かった。スイカはその見事な球面を以て、俺の腕の中から滑り落ちていく。予想以上の質量に、力の入れ具合を完全に見誤ったのだ。緑と黒の果実は断末魔の声すら上げず、俺とふみつきの目の前で鈍い水音と共に弾けた。砕けた果皮の内側に、(皮肉にも予想に違わない)鮮やかな赤い果肉が顔を覗かせている。『後悔先に立たず』、『覆水盆に返らず』。突然の出来事に、後悔と憤りの思考ばかりが空回りする。それはふみつきも同じだったようで、俺達はもはや何も言えず、そのスイカだったものをじっと見詰め、現実を受け入れるしかなかった。飛び散った果汁が俺と彼の足を赤く濡らしている。俺はその汁の生温い感触のせい(お陰か?)で我に返り、慌ててそこら中に散らばったスイカの欠片を拾い集める。埃まみれの“それ”は、どう見繕っても食えたものではないだろう。ああ、俺はスイカを殺してしまったんだ。粘つく汁に濡れた指の間から、果肉の欠片が滑り落ちていった。
……それから数日が経った、ある日。俺はふみつきとふたりで桑都の街へ繰り出していた。雑居ビルの隙間を埋める街路樹の緑は目に見えて濃くなり、道沿いに並ぶツツジの植え込みからは雑草たちがここぞとばかりにその頭を覗かせていた。まるで街そのものが植物園の大温室になったかの様だ。息苦しさを感じるほどの湿度と熱気が、やはり初夏はもう終わった事を実感させる。この調子だと、きっとすぐに夏も終ってしまうのだろう。残念そうに肩をすくめると、ふみつきは呆れたように『またそういう風に言うんだから』と笑った。
俺たちのような夜行性の昆虫は、目や耳よりも鼻が頼りだ。昼も夜も関係なく街を満たす匂いを触覚が受け取り、街そのものの輪郭をよりはっきりと際立たせる。そう、これは俺がスイカを落としたあの日、ふみつきが纏っていた街の匂いそのものだ。“雑居ビルの並ぶ街道”、“駅の人混み”、“棚に並んだ野菜”。陽炎のように朧げな記憶が、現実の街の風景と重なっていった。そんな白昼夢と現実の間を漂っていた俺を、隣に立つふみつきが桑都の街へ引き戻す。彼は俺の袖を軽く引っ張りながら、『いのりさんだ』と、いつになく神妙な雰囲気で耳打ちしてきたのだ。確かに、あの時と同じ匂いが段々と強くなっている。どうやら、彼はこちらへ近付いてきているようだ。俺はふみつきと顔を見合わせる。言葉を交わすまでも無く、ふたりとも同じ懸念に直面している事は分かっていた。それはつまり、『この前のお礼をどうしたものか』、という事だ。
「……あ、はづき君にふみつき君! こんにちは。今日はお出かけ?」
「ええ、まあ。そんな所です」
「暑いからねー、日射病とかは気を付けてね。まぁ、ふたりなら暑さは慣れてると思うけど…… あ、そうだ。この前のスイカ、美味しかったでしょ!」
……来た。愛想笑いを浮かべながら、俺たちはたった二文字の『はい』という言葉を、まるで絞り出すように呟いた。それでも、いのりさんは『なら良かった』と手を合わせて喜んでいる。ひとしきり話した後、俺達は楽しそうに立ち去るいのりさんを苦い気持ちで見送った。彼の背中が見えなくなってから、ふみつきはただ一言『はづきも共犯者だからね』と呟いた。そんな事は俺も分かっている。砕けたスイカは二度と元には戻せない。夏の匂いはすでに散ってしまっていた。
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