『月に届くまで《2題》』

 今日も一日が終わる。仕事を終えたアズマは事務所の扉を出て、涼しい夜風に身を晒した。事務仕事ですっかり凝った体が冷やされて、アズマは心地良さそうに腕を大きく伸ばした。彼女はすっかり暗くなった西の空を見上げると、家路へと急ごうとした。


 その時、彼女の携帯端末が光と音を放った。頭が仕事からまだ切り替わっていないせいか、アズマは慌てて端末を覗き込む。早く電話に出て欲しそうに明滅する画面には、『河守 五福』とよく見知った名前が表示されていた。


「……はい、今泉です。五福、どうかした?」

《もしもし、アズマさん! 今日は何の日か分かりますか?》

「今日? 何かあったっけ……」


 答えを探るアズマの思考を上書きするように、五福は『中秋の名月ですよ!』と跳ねるような声で答えた。“中秋の名月”。アズマははっと空を見上げた。乱雑に黒く塗りつぶされたような東の夜空に、白く浮かぶ銀の球。そしてアズマは、月面に落ちる逆光の人影を確かに見た。


「あ……  あれ、もしかして五福?」

《そうです! アズマさーん、見えてますか?》


 逆光の五福が大きく手を振った。その表情は光の加減で分からないが、きっと月に負けないほどの輝く笑顔なのだろう。アズマはそれに答え、月に届きそうなほど大きく手を振り返す。アズマからの返事を受け取った五福は得意げに、月の輪郭に沿って飛んでみたり、月面の模様を体全体で真似してみたりと、重力を感じさせないほどの軽やかなアクロバット飛行を繰り返した。


《えへへ、どうですか? アズマさん》

「うん、すごいな。やっぱり、飛べるのって羨ましいね」

《あ…… ごめんなさい、私ひとりではしゃいじゃって……》

「ああ、いや、謝らないで。こうして一緒に月を見られたんだもの。地面と空に分かれていたって、離れ離れなんかじゃないよ」


 アズマは片手の手のひらを水平にして上に向け、そっと空へかざす。すると、月の前に浮かぶ五福がまるでアズマの手のひらに立っているかのように見える。シンプルな遠近法だ。だが、アズマと五福はそこに遠近を超えた確かな絆を感じていた。



~~~~~~そのころ~~~~~~~



「今日は月が綺麗ですね」


 考古館のラウンジから月を見上げ、メイドペンギンのキルダが呟いた。乳白色の月光が展望窓のガラスを通して差し込んでいる。メアリーは彼女が持ってきてくれた紅茶に口をつける前に、『そうね』とただひと言で返した。だが、それは突き放すようなものではなく、カップから淡く立ち上る湯気のように柔らかな声だった。


「そうだ、メアリーさま。私、ネットで見たんですけど、月って、空に浮かんでるおっきなボールみたいな感じなんですね。空をずうっと高く飛んでいけば、月に行けるのかなぁ」

「あ、そうか。キルダさん、『アポロ計画』は知ってる?」

「いいえ、知りません」

「そうよね。あなたは生まれたばかりだものね。……もうずいぶんと昔のことなんだけど、人間が月に行ったこともあったのよ」


 メアリーは滔々(とうとう)と、月への長い旅路とその結末をキルダへ語る。まるで子供に絵本を読み聞かせる親のように優しい声だった。38万キロ彼方から届く月光が、ふたりの心をゼロ距離に繋いでいた。


「……それでね、月の重力は地球の6分の1なの。すごく簡単に言えば、大地が私たちを縛る力が弱いのね。もしかしたら、キルダさんも月でなら飛べるかもしれないわね」

「本当ですか! ……いつか私が月に行ったら、飛んでるところを見ていてくださいね」


 その夜、メアリーはキルダが月の空を飛び回る夢を見たとか、見ないとか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る