『右手と左手』

 昼間の喧騒もすっかりなりを潜めた、静かな秋の夜。翌日の予定を急に思い出した燦と撥のふたりは、風呂上がりの濡れた髪を乾かすのもそこそこに準備を始めた。当初は『予定をなぜ覚えていなかったのか』とお互いに言い争っていたが、そのうち『相方が覚えていると思っていた』と水掛け論が始まったため、キリの無い理由探しはすでに切り上げている。ふたりは文字通りの一心同体、いざこざが起こった時の対処法も十分心得ているのだ。


 その準備のさなか、『ネイルがしたい』と燦が呟いた。最近は爪の手入れがあまりできていなかったと、彼女は残念そうにため息をつく。その途端、撥は化粧棚を何のためらいもなく開き、机の上にネイル用品をずらりと並べた。そして、撥は何も言わずに机の前に座ろうとする。彼と体が繋がっている燦は抗いようがないし、彼のやることは分かっているので抗う理由もない。燦もそのまま机の前に腰を据えた。撥は燦の右手をとり、机の上に載せた。そのまま慣れた手つきで爪を磨き、ベースコートを塗る。それぞれの体の性別は違えど、ふたりはやはり一心同体。撥の左手により、燦の右手の爪はあっという間に輝きを取り戻した。


「……そろそろベースが乾いたかな。じゃ、マニキュア塗っちゃおう」


 燦の大きく広げた右の手のひらを見ながら、撥は左手だけで器用に小瓶の蓋を回し開けた。秋らしいパステルオレンジのマニキュアは、撥が選んだものだ。最初こそ、体が繋がっているせいでしぶしぶ燦の買い物に付き合っていた撥だったが、最近は逆に燦よりもネイルに詳しくなってきたほどだった。


 小瓶の蓋についた付属のブラシを取り出すと、それは艶のある雫を滴らせた。マニキュアの香りがつんと鼻をつく。撥は小瓶のふちにブラシを擦り付け、余分な液を手際よく払い落とす。燦はそれを期待を込めた瞳でじっと見つめていた。先程まで準備でてんやわんやしていた室内は、あっという間に秋の夜長らしい静かな雰囲気を取り戻していた。


「オッケ。手、出して」

「ん……」


 交わす言葉は少ないが、ふたりには十分だ。撥はまず、燦の親指にブラシを落とす。爪の付け根の、ちょうど中央。ブラシと爪の間に、マニキュアの雫が表面張力で丸く集まった。彼はブラシを爪に当てて広げ、そのまま何のためらいもなく先端まで一息で滑らせた。滑らかな橙色の筋がブラシの後に続き、燦の爪を彩る。彼女は『おお』と小さく感嘆のため息をついた。


 撥はその賞賛が何となく気恥ずかしかったようで、わざと唇を尖らせた。だが、動かす手を緩めはしない。爪の中央に引かれたライン、その両脇を埋めるように再びブラシを動かす。爪の表面を撫でられる感覚は決して強いものではないのだが、燦は心地良さを感じていた。『ブラシをかけてもらっている時みたい』と、彼女はひとり考えを巡らせる。


「ブラッシングと一緒で、撫でることで血行が良くなってるとか……」


 ふと、撥が考えを読んだかのようにタイミング良く呟いた。だが燦は驚くことなく、むしろ感心したように相槌を打つ。ひとつの魂を二分するふたりにとって、無意識のやり取りは当たり前なのだ。


 そうこうしている間に、燦の爪が艶やかなパステルオレンジに満たされていく。燦がそっと撥の横顔を覗き見ると、彼は鮮やかなマニキュアとは裏腹の真剣な表情でブラシの先を見つめていた。親指、人差し指、中指……と、順番に彩られていく指先。撥がひと息ついたのを合図に、燦は自身の右手に視線を戻す。彼女の右手は柔らかな夕陽のように輝いていた。


「よしっ。あとは乾いたらトップコートだ」

「うあー……何だこれ……」

「え? 何か変だった?」

「めっちゃ良い…… ありがとう……」

「それなら良かった」

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