『そのペンは誰がために』
「サワガニさん。ひらがなの『ん』って、この書き方であってる?」
「あー、最後の“波”が多いな。ほら、見てろ……」
花曇りの昼下がり、神社の社務所では穏やかな時間が流れていた。“あの”大雑把なサワガニと“あの”やんちゃなベンテンサマのふたりが、珍しく机に向かっているのだ。机の上には『かんじ』『こくご』等々、学びはじめの人にも分かりやすい参考書が広げられている。
“神さま”になったばかりのベンテンサマには、教えなければならないことが沢山ある。本来ならば産土神たるヤトノカミが先生になるべきなのだが、彼女はどうもベンテンサマに対して『世話焼きが裏目に出てしまう』。そこでヤトノカミに代わり、イモリとサワガニがベンテンサマの教育係を務めているのだ。
「文字書くのって難しいよ。ねえ、サワガニさん。私、ちゃんと話せるから、文字を読めたり書けたりしなくても大丈夫じゃないかなぁ?」
「まあ、普通はそう思うよな。いいかい、お嬢。勉強ってのは……」
「イサド、ここに居たのね。相談したいことがあるから、あとで時間ちょうだい」
サワガニのもったいぶった講釈に割り込んできたのは、彼女の同僚であるイモリだ。話の腰を折られたサワガニがバツが悪そうに『分かった』と返事をすると、それを聞いたイモリは忙しそうにさっさと去って行った。サワガニは話を続けようと机に向き直ったが、先に口火を切ったのはベンテンサマの方だった。
「……イサドって、何のこと?」
「ん、ああ。そりゃ私の名前……」
『名前って!?』。ベンテンサマは目をキラキラさせながら前のめりになる。そんなにはしゃぐことかとサワガニが狼狽えながら問うと、ベンテンサマは大きく首を縦に振って肯定した。
ベンテンサマはもはや勉強そっちのけで、『なんて意味なの?』『誰につけてもらったの?』『イモリさんも名前あるの?』と、質問攻めを始めてしまった。サワガニもこうなっては仕方ないと、休憩がてらベンテンサマに付き合うことにしたようだ。
「……そうさ、私の名前は『田蟹(だがに) イサド』。ヤトノカミさまに頂いた名だ」
「すごい、知らなかった! それで、イサドってどういう意味なの?」
「小説から取ったそうだ。『カニにとって素晴らしい場所』で、縁起が良いんだって仰ってたな」
「あっ、じゃあ、イモリさんは?」
「あいつは『蛙井守(あいもり)シュウ』。これもヤトノカミさまから頂いたものだな」
「何でシュウなの? 縁起がいいの?」
「服とかの『ソデ』ってあるだろ? その漢字には読み方がもうひとつあって、ソデとも読むし、シュウとも読むんだ。イモリの持ってる化学物質と関係してる、らしい……」
ヤトノカミに貰った名前を誇れることが嬉しいようで、サワガニはいつになく饒舌だ。一方のベンテンサマは、『へえぇ』と静かに感嘆のため息をついた。自分がまだ読めない小説。自分がまだ読んだことのない漢字。彼女は軽いカルチャーショックを受けていた。それを知ってか知らずか、今度はサワガニがベンテンサマに『どんな名前が欲しいのか?』と質問を投げかける。ベンテンサマはこめかみに指を当てながら悩みはじめてしまった。
「……ええっと、サワガニさんみたいに、小説からもいいなぁ…… イモリさんの『シュウ』みたいに、読み方を変えるのもなんだかカッコいいし……」
そんなベンテンサマの様子を見ながら、サワガニは優しげに微笑み、そのまま手を伸ばして彼女の頭を軽く撫でる。ベンテンサマはどことなく寂しげなような顔で、サワガニの瞳(があるであろう場所)をじっと見つめていた。彼女の胸中を察したのか、サワガニは落ち着いた口調でさっき話しかけていた『勉強する理由』の続きを切りだした。
「難しい話を続けてごめんな。……私たちの名前ってさ、さっきの話みたいに、小説とか、漢字のこととか、いろいろな文化からヤトノカミさまが考えてくれたものなんだ。お嬢はあまりあの方のことが好きじゃないかもしれないが、ヤトノカミさまはいろいろなことを知ってるんだよ」
「……」
「だから、お嬢もしっかり勉強して、文字や文章が分かるようになって、たくさん本を読んだりできるようになれば…… いつかきっと、自分でもカッコいい名前を見つけられるさ」
『勉強は結局、自分のためになるんだから』と、サワガニはそう締めた。ベンテンサマは目を丸くしながら伝えられたことを反芻するように頷いていたが、しばらくして『私、頑張る!』と高らかに宣言した。サワガニも『負けていられない』と笑い、ふたりは改めてペンを握った。
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