『サボタージュの歌』
冬の夜は、冷たい。姿の見えない寒風に怯え、ジャケットに埋もれるように首をすくめる。さっさと外の用事を済ませ、事務所の中に戻ろう。この大きな『1つ目』が凍りつく前に。
私はごく普通の単眼娘、『芽吹 珠美』。冬が深まるにつれ、仕事終わりを待たずに夜が来るようになってきた。つい数ヶ月前まで沈む太陽と共に帰っていたなんて信じられないな。
そんなとりとめの無い思考を巡らせながら、物置から持ち出したゴミを袋にまとめる。丸めた背中を寒風が追い越していくたび、風が空を切る甲高い音、ガサガサと落ち葉が舞う音、どこかの車のエンジン音が耳に届いた。
その音たちはまるで、リズムをつくっているようだ。張り詰めた冷たい空気を揺らしながら、鈴の鳴るような声でメロディーを奏でている……
メロディー? 私の背中に、寒さとはまた違った悪寒が走った。まさかこの寒空の下、誰かが歌っているとでもいうのだろうか? その“歌”は張り詰めた夜の空気をほぐすようにしっとりとしていて、だがはっきりとした旋律を持っている。音楽の事はよく分からないが、その歌には何か惹かれるものがあった。
『誰が歌っているのか、気になる』。私は恐れ半分、興味半分で歌声が聞こえてくる方へ向かった。いざとなったら、ヤトノカミさんたちにやっつけてもらうしか……
「……って、豊先輩?」
「あら、芽吹さん。今日はあなたが来たのね」
『鬼が出るか蛇が出るか』とは言うが、まさか人魚が出るとは。星明かりの空の下、半人半魚の豊先輩が物置の屋根に腰掛けて笑っていた。夜風に煽られたストールが翼のようにはためくさまは、まるで神話のセイレーンだ。『歌っていたのは先輩ですか』と問うと、彼女は静かに頷いた。
「サボるなら、静かにサボってくださいよ。そんな綺麗な声で歌われたら、聴いちゃいます」
「あら、お上手。でも、私のサボタージュ を覗いた罰よ。1曲、聴いていきなさいな」
「共犯ってことですか。……まあ、いいですけど」
『聴いているうちに冷えないように』と、豊先輩は羽織っていたストールを私に放り投げる。落とさないように慌てて受け取ったそれはまだ暖かかった。
「先輩、ありがとうございます……」
「準備はできた? 今日は特に冷えるから、暖かい歌にしましょうか。……『オリオンの三ツ星は、空に映った私とあなたの輝く瞳。さァ、1つ目のお嬢さん。私の秘密を貴女にもお裾分けするわ』」
きっぱりとした口振りで大仰な口上を述べると、豊先輩はゆっくりと呼吸を整える。そして、彼女が次に口を開いたときにそこから流れ出た“歌”は、ブレスすらも心を揺さぶるものだった。私は星明かりに照らされながら歌う彼女を、ただじっと見つめていることしかできなかったほどに。
ーー
ーーーー
「……どうだったかしら? 私の歌は」
「……え、ああ! もう、なんて言うんだろう、その…… 」
私は胸中に渦巻く感想を口に出すことができず、豊先輩にすべてを込めて拍手を送る。とにかく、セイレーンの歌声は、心を捉える“魔性”のものだったことは確かだ。先輩は胸に右手を当て、静かに一礼をした。その後も私はしばらく呆然としていたが、先輩に『メアリーに怒られる前に早く戻りなさい』と促され、ようやくハッと目が冴えた。慌てて駆け出す私を見ながら、豊先輩は悪戯っぽく笑っていた。
ーー
ーーーー
私は息を切らせながら、事務所の扉を開く。外の寒さに比べると、暖房の効いた部屋は暑いぐらいだ。パソコンに向かっていたアンドロイドのメアリー先輩が、『遅かったわね』と私に声を掛けた。そりゃあそうだ、ただのゴミ捨てでこんなに時間が掛かるなんて、メアリー先輩は訝しむに決まっている。
「まあ、仕方ないか。あの人の歌声は魅力的だものね」
「えっ、いや、それは……」
どうやら、すでにバレていたようだ。今さら言い訳をしたところで取り繕えるはずもなく、私は『素敵な歌でした』と笑うしかなかった。メアリー先輩はそれ以上詮索したり叱ったりすることはなく、むしろ嬉しそうに微笑んでいるだけだった。それにしても、どうして私が豊先輩の歌を聴いていたことが分かったのだろう?
「そのストール。借りっぱなしよ」
「……あっ!」
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