『ハンドセラピー』
あらすじ:疲れ気味のメアリーは、芽吹から聞いた『サワガニのマッサージ』を受けてみることに。だが、彼女が訪れたサワガニの部屋は暗く静まり返っている。妖しげな雰囲気を放つその部屋に足を踏み入れたメアリーが見たものとは……
「いらっしゃい。“蟹の岩屋”へようこそ」
カーテン越しに射し込んだ月明かりが、まるで千手観音のような異形のシルエットを闇の中に浮かび上がらせる。“私”が生唾を飲み込む音が、やけに響いたような気がした。
「……いや、そんなに緊張しなくてもいいんだけど。ただのマッサージだし」
そのシルエットの主、サワガニさんは呆れたようにそう言うと、伸びをして6本の腕をそれぞれの肩から回した。私は『よろしくお願いします』と蚊の鳴くような声で挨拶をする。彼女は返事の代わりに30本の指を鳴らしながら、『まずは下調べだ』と私を月明かりの元へと誘った。
「じゃあ、手を出してくれ。……ふーん、だいぶ冷えてるね。ああ、いや、『気』とかじゃなくて…… 冷たいかどうかは、触れば分かるよ」
彼女はハンドクリームを私の手を擦り込みながら、『ふむ』と残りの手を顎に当てて何か考え込んでいる。私にとっては器用な技に見えるが、生まれながらに多腕の彼女にとっては造作もない事なのだろう。
「ロボットに施術するのははじめてだ。何か、厭な感じがあったらすぐ言ってくれ」
彼女の赤みを帯びた手のひらが、直角に交錯するように私の手のひらへ差し込まれた。親指同士が組み合うような形だ。親指の付け根の膨らみ(母指球)に彼女の親指が乗せられ、ゆっくりと渦を描くように押し込まれる。
「……どう?痒かったり痛すぎたりだとか、そういう事はない?」
いいえ、と私は首を振る。彼女はどことなく嬉しそうに『そりゃあよかった』と呟いた。手のひらが指で圧されるたびに、圧と共に少し痺れるような感覚がノイズとなって回路を走る。だが、不快ではない。そして彼女が指の力を緩めるたびに、堰き止められていたエネルギーが手に広がっていくのが分かる。気持ちが良い。
「ロボットに気の流れがあるなんて。初めて知ったよ。どう? 気持ちいい?」
こくんと頷く私の顔を見やり、彼女も満足げな顔で同じように頷いた。そして彼女は一度手を離すと、今度は手のひら全体で私の人差し指を包み込むように握る。小刻みに力を込めながら、ゆっくりと根元から指先へと移動していく。握って、緩めて、握って、緩めて……
「指って、意外と疲れるものなんだ。ほぐしてあげないとな」
指先へ向かって握られるたび、先端へ向かってエネルギーが移動していく感覚を覚える。先ほどの手のひらと同様に、ただただ力を加えられるだけでも心地よい。触覚センサーの閾値が下がっているのか、指を軽く擦られるだけでも熱を感じ始めていた。
指の先端まで握り終えた彼女は、仕上げにと私の爪の両脇を人差し指と親指でつまむ。それは圧し続けるのではなく、緩急のリズムを刻みながら。力が加わるたび、表面だけでなく指の内側まで痺れるようなこそばゆさが満たす。『指ごとに、経穴と繋がってる臓器も違うんだ』と彼女は言っていたそうなのだが、申し訳ないことに私はその痺れ具合の心地よさに呑まれて上の空だった。
「……ほら、これで仕上げだ」
まるで別れを惜しむように、彼女は私の手の甲を擦る。『細くて、白くて、本当にお人形さんなんだな』と、彼女は微笑みながらそう言った。それを聞いて、『私の体は他の生きものと違うのだろうか』と思わず返事に詰まってしまった。もちろん彼女に悪気などあるわけもない。それでも私はどう返していいか分からず、ただ愛想笑いをして誤魔化そうとした。
「あはは、ありがとうございます……」
「いや、すまん、変なこと言ったな。無理に笑わなくてもいいよ」
「……分かりますか」
「まあ、な。でも、気に病むことは無いよ」
サワガニは首を振った。『自分の躰が何の役に立つかなんて、自分が一番分からないものだから』。彼女は一番上の両手でピースサインをつくり、おどけるようにチョキチョキと動かす。
「挟むことしか能が無かった私のハサミでさえ、何だかんだ人の役に立ててるんだから。そのうち良いところも見つかるさ」
彼女はそう言うと、静かに私の手を撫でる。いつの間にか、東の空がかすかに白みはじめていた。
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