わがまま

 最初に見たのは朝の時だった。いつもの朝食を食べて、外に出る支度をする。窓のような穴のある自室で少しだけ暇をつぶす。押し入れからチェロを引っ張り出す。ケースをしばらく眺めるけれど、結局しまう。それは、チェロよりも必要なものがあるからで、それは、みんなが望んでいるものであるから。

 玄関の壺を取りに行こうとしたとき、穴から女の子が覗き込んでいた。私と目が合ってもまったく動じない。どうしたものかと考えていると、女の子の後ろから手が伸びてきて、そのまま襟元をつかんだ。

「あぅ」

 というような声と同時に、女の子は瞬く間に消えた。ぽっかりあいた穴が、どうも不思議な物に見えた。


 最初に話をしたのは昼時だった。食料品の配給があるので、列に並んで待っていた。長時間立たされるので、いつもはぼんやりして暇を潰す。けれども、今日はあの穴のこと、そこから見ていた女の子のこと、そして、チェロのこと。とにかく、思考の中で妙に浮きあがってくることが多かった。そのたびにつっかかって、意図的に別のことを考えて流す。そんなこんなで、いつもより遅く列が流れているような気がした。

 食料をもらって、家に帰ろうとしたとき、不意に裾が引っ張られた。見ると、朝見つめあった女の子だった。その時は顔だけしか見えなかったけど、肩からカメラを下げていた。

「あの…」

 何か話したいことがあるらしいけど、なかなか出てこない。朝の様子とはまるで違う。

「その…ぅ」

 女の子はそう言って駆け出した。けれども、男性が道を塞ぐ。

「ほら、逃げんじゃないやい」

 女の子はしどろもどろになっている。

「すみませんね、もうちょっと待っていただけませんか?」

「えぇ…」

 女の子は男性と話している。父親か、それに近しい関係なのだろう。何を言っているかは聞こえなかった。

「えっと…」

「はい?」

「あ、朝のことなんですけど」

「はい」

「勝手に覗き込んですみませんでした…」

「あー、はい。…まぁ、放置してる私も大概ですけど」

「で、その…押し入れからなにか出してました?よね?」

「ああ、はい」

「それが、朝からずっと気になってるんです」

「はい」

「できれば…その…見せて頂けないでしょうか」

 そう言って俯いてしまった。男性がため息をつく。

「気にしないでやってください。これでも頑張った方ですから。まぁ、今返事してもらわなくても大丈夫です。日が暮れたら尋ねにいきますから」

「はい」

 そう言って二人は去っていった。


 最初に見送ったのは夜だった。両親に顛末を離すと、いつもの時間に寝るなら良いと言ってくれた。

 チェロをケースから出して、ゆっくり眺める。最後に弦を張り変えてから、ずっと触っていない。遠出した時に目に入って、駄々をこねて買った。久しぶりに見たチェロは、初めて見たときのような煌めきをはなっていた。

 二人を家に招いて座る。譜面を広げて、チェロを構える。徐々に靄がかかる思考を振り払うように演奏を始めた。


 結論から言うと駄目だった。テンポも音も顔も嫌でもわかるほどぐちゃぐちゃになって。二人の前で項垂れた。どうしようとごめんなさいが頭を押しつぶす。

 足音が一つ、私の目の前で止まる。女の子だった。

「あの…元気出してください」

 返事ができない。

「私のわがままに正直に答えてくれたことが嬉しいんです」

「でも」

「私には良い音がわかりませんけれど…あなたはきちんと良い音を出そうとしてくれた」

 弓を持つ手を握られる。

「もし…今日の演奏に満足していないなら、私はもう一度聴きにいきます。あなたが演奏するそれを。約束です」

 顔をあげる。ぼやけた女の子がいる。

「あなたは…自分を抑え込んでいるのでしょう?今やりたいことを…自分の事よりも大事なことがあるからと。それは…わかります。けれども…ちょっとだけのわがままなら…きっと大丈夫なはずです」

 わがまま。なるほど、わがまま。頭の中が広がっていく感じがした。涙を拭い、女の子を見る。微笑みを返してくれる。つられて笑う。すると、女の子はカメラを構えて、パチリと1枚。

「今度はちゃんと…演奏してるところを撮ります…」

 そう言うと、女の子は途端にうつらうつらとし始めた。時計を見ると、いつも寝る時間はすでに過ぎていた。

 男性に名前を教えて、二人の見送りをした後、私は真っ先に両親に相談をした。寝る前の少しだけ、うるさくしてもいいかということ。あとついでに、夜更かしをすることも。

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フラッシュ 安藤州 @bo-kansya

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