痒みの効果

「出来た!遂に完成したぞ!」

 マイサ博士は研究室で叫んだ。

 普段は冷静な博士も、この時だけは興奮していた。長年苦労し続けた研究がやっと実を結んだからだ。

 その研究とは、簡単に言えば、蚊に刺された時の痒みを無くすというものだ。

 博士は半年ほどの間、様々な案を立てて試行錯誤を繰り返し続け、そして最後に見つかったのが遺伝子操作による方法だった。

 つまり、蚊の遺伝子の中にある唾液の成分に関する情報を書き換えれば良いのだ。

 ただ、その方針が立ってからも決して楽な道のりではなかった。

 蚊の遺伝子操作の研究に半年、蚊の唾液に含まれる痒みを引き起こす成分を別の成分に置き換えるのに半年、そしてその成分を分泌させるよう遺伝子を操作するのに1年、全部で2年かかった。

 早速動物での実験が行われ、問題が起きないのを確かめると、人間での実験が行われることになった。

 その実験には助手のハテツ氏に協力してもらう事にした。

 ハテツ助手はマイサ博士の弟だ。

 お世辞にも優秀と言えるような人材ではなかったが、ここで働けているのには、博士の贔屓が無いわけでもなかった。

 実験では、腕が通る分だけの穴を開けた透明な箱を用意し、その中に遺伝子を操作された蚊を放った。

助手が右腕を差し込むと、箱の中を飛び回っていた蚊が、やがて手首に止まった。

 助手は反射的にいつもの癖で払おうとしたが、思いとどまって、そのままじっと様子を見た。

少しすると、追い払われないことが分かって警戒を解いた蚊が血を吸い始めた。

するとどうだろう。 

 いつもなら感じるはずの、あのうっとうしい痒さを全く感じないのだ。さらに、それどころか、自分が腕のどこを刺されているかの感覚すらも曖昧だった。

 目を丸くしている助手に、博士は得意げに解説した。


「蚊の針の太さは大体80マイクロメートルで、髪の毛よりもずっと細いからな。痛みもほとんど感じないんだろう。」

 蚊は血を吸い終わり飛び立っていったが、特に副作用などは見られなかった。

 満足げに続ける。

「元々蚊の唾液は血を固まりにくくする効果と麻酔効果があるからね。この2つの特性を持っていて、なおかつ痒み成分のない物質をつくるのは苦労したよ」

「でも、これをどうするんだ」

「何百匹か、外に放つのだ」

「しかし、それではひと夏経ったらすぐに効果が終わってしまうんじゃ…」

「実はもう1つ特徴があってね。この蚊が卵を産むと、その子は痒み成分を持たない蚊になる。つまり、この蚊の割合が毎年どんどん増えていくという訳だ。」

「なるほど、それは確かにすごい」

 助手は感心した。


 ライト研究所を出ると、夜の暗闇にまぎれて何匹かの蚊が飛んできた。しかし、博士は追い払おうとはしない。それどころか、今の内にこの独特な痒みを楽しんでおこうとする気分にすらなった。


 それからの博士は忙しかった。といっても研究のためではなく、テレビや雑誌の取材に応じなければならなかったからだ。

 各メディアに何度も似たような、それでいて全く同じにはならないように説明をするのは意外と大変なのだ。

 世間の大抵の人々は嫌な夏の風物詩から逃れられる事に歓迎していたが、一方でそうではない人も居た。香取線香、虫除けスプレー、痒み止めなどを製造している会社の社員だ。

 博士のおかげで商品の売上が落ちるのは目に見えていたからだ。実際、中には倒産してしまう会社も少なくなかった。


 それから数年経った夏のある日、博士が休憩室でのんびりアイスコーヒーを飲んでいると、研究員の1人が青い顔をして部屋に飛び込んできた。

「大変です!」

「どうしたんだ、そんなに慌てて」

「各地で蚊の数が異様に増えているんです」

「遺伝子操作が上手くいかなかったのか」

研究員は首を振って答えた。

「いえ、違います。あの蚊の割合は毎年順調に増え続けています」

「卵の数が増えたとか?」

「いや」

「じゃあ、なぜ……」

「詳しい事は解りません。ただ、おそらくは……」

「おそらくは、何なんだね」

急かす博士に、研究員は少しためらった後に言った。

「おそらくですが、痒みを感じなくなった事で、蚊を退治しようとする人間が減り、その結果ではないかと……」


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