第141話 囮
一気に緊張が戻り、五感がザワつくように鋭敏になっていくのを自覚する。
馬鹿だった。僕はこの状況下で、何を安堵してたのだろうか。最悪じゃないか。
確かに視界の隅にゾンビらしい存在が数体確認できる。
しかしながら、危険な空気を何度も経験してきた五感は告げる。視界にあるものが全てじゃない、今までにないくらいのゾンビに包囲されつつあると。
それは今の異常事態……拘束されて身動きがほぼできない状態ゆえの過剰反応なのかもしれないが、こんな状態では視界にいるだけのゾンビでも余裕でお食事にされてしまうに違いない。
何にせよ、大ピンチである。
「ちょっ!? マズいんじゃないか?」
「……そうね」
僕の焦りとは裏腹。
おっぱいちゃんは、拳銃の残弾を確認しながら緊張感の無い声で素っ気なく答えた。
「わたしは退散させてもらうわ」
そう言いながら、僕の横をスタスタと通り過ぎる。
そして、放置車両の陰に転がっていたリュックサックとライフルを拾い上げ、がちゃがちゃと装備し始めたのだが……、あれ?
「それ、僕の……」
「だからー?」
彼女はこちらを見ることもなく、リュックの収まり具合を確認している。
「だから、って……」
「コレは有難く頂いておくわ。私の荷物は燃えちゃったから」
くいっと親指を燃えている車両に向ける。
どうやら、彼女がここまでやってきた移動手段は、燃えているバンだったようだ。
どの様な経緯があったから分からないが、部屋で聞いた爆発音もこの車が爆発したものだったと想像できる。
「おいおい、じゃあ僕はどうすりゃいいんだよ……」
てか、さっさと手足の拘束を解けよクソおっぱい!
僕は、こんな切迫した状態で呑気にしている彼女に怒りを覚えた。
「んー、ごはん……ってやつ?」
彼女の返答に、僕は思わずキョトンとしてしまった。
僕は「それ取られちゃったら、僕は手ぶらになっちゃうんだけど」って意味のことを聞いてるんだぞ?
この女は、何を言ってるのだろうか。
「わたしが逃げ切るまでの、囮になってね♡」
「へ?」
彼女はここでくるっこちらを向き、テヘペロって感じで舌を出した。
まあ、可愛い……くねえぇぇぇぇぇぇぇ!!!
目が笑ってないし!
そして僕は、彼女の言ってる意味を認識した。
「はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
僕は久しぶりに腹の底から声を張り上げた。
怒りではない。驚愕と恐怖でだ。
「ちょっと待ってくれ!」
いや、解るよ。
僕が襲われて「ぎゃああああああああ」とか大声上げてさ。
ゾンビがそれに釣られて僕に殺到してさ。
更に僕は悲鳴を上げてさ。
更にゾンビが僕に殺到してさ。
その隙に、君はコッソリとここから脱出って感じだよね?
うん、有りがちだけど良い作戦だね! そう思うよ!
そう思うけど!
「ちょっ!? 命と貞操の恩人に、その仕打ちは無いんじゃないの!?」
成り行きとは言え、僕は君を助けたよね?
いま言った通り、命の恩人ですよ?
いくら何でも、こんな仕打ちは無いんじゃないのッ!?
アンダースタあぁぁぁぁぁンッ!?
「うるさい」
「きゃん!?」
「そういうところがキモいのよ」
「……痛い」
くう……! ここまで来ても、命の恩人のケツを蹴り飛ばすとは。しかも、わざわざこちらに再び近寄ってまでして。
「貞操とか……。変態は、ここで死になさい」
そこか。そのひと言がアカンかったんか!
そこじゃなくて、ここ! 「命の恩人」ってところを重視してほしかった。
くそう、確かに僕は昔からひと言多いとか、デリカシーが無いとか言われてたけどさ、それがこんな土壇場で仇になるとは。
……って、いやいやいや。それ言う前から見捨てる気満々だったじゃないか。そんなの後付けやないけ!
どうやらこの女は、恥ずかしいところを見られたことを相当根に持ってるらしい。
しかし、それは先ほども言った通り、不可抗力じゃないか。
言うに事欠いて、変態とか!
誤解だ。いや。確かに僕は変態な部分はあるかもしれないが、今回に限っては明らかに成り行きなのだ。
クソが。女は肝心なときに裏切るものだが、まさかこんなタイミングでソレとは。
地獄に落ちろ。こうなったら、必ず生き残って、オマエを探し出してグチャグチャに姦してやるから覚悟しろ!!!
「そそそそんな! 勘弁してえぇぇぇぇぇ! 助けてぇぇぇぇぇぇぇ!」
心の中での悪態とは裏腹に、僕の口から飛び出したのは、どうしようもない現実から逃れるための最後の抵抗。
哀れな、命乞いであった。
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