捨てられた傘

 彼女は朝、私が出社する時間になってもまだ眠っていた。

 起こそうかとも思ったが、眠っている姿があまりにも気持ちよさそうで、そこから引きずり出すのは可哀想だった。

 用意した朝食の横に、簡単なメモとスペアキーを置いて部屋を出た。

 恐らく私が戻る頃には彼女はいなくなっているだろうし、もしかしたら部屋が荒らされてめちゃくちゃになっているかもしれない。盗まれて困るようなものもほとんどないが、名前も知らない人間に鍵まで渡して一人にするなんて、我ながら不用心だなとも思う。

 まあ別にいいか。

 その不用心さは、なぜか私を爽やかな気持ちにした。いつもより軽い足取りで会社へ向かった



「山崎さん、この書類、計算にミスがあるから。急いでやり直して」

「あ、はーい」

「あと、同じようなミスが最近多いわよ。もう二年目なんだからしっかりね」

「はーい、気を付けまーす」


 綺麗にカールした髪の毛が、彼女の動きに合わせて上下する。カツカツとヒールの音を高らかに響かせて席に戻ると、これ見よがしに隣の同僚と顔を寄せ合って、ひそひそと話し始める。


「笹森さん、マジ面倒くさいわ」

「やだ、聞こえるって」


 いつもと代わり映えしない陰口を聞き流して、私は席を立った。その口と同じくらい仕事をしてくれたらいいのに、と心の中で呟く。

 朝に感じていた爽やかさが、ゆっくりと、しかし確実に薄れていく。

 十年前に入社したときは、私も彼女と似たようなものだった。仕事は適当にこなして、終業時間までやり過ごせば、それでいい。どこかで、そのうちここからいなくなるんだと思っていた。それなのに――。

 三十二歳になってもここにいるなんて思っていなかった。

 長めの黒髪を一つにまとめて眼鏡を掛けた今の自分の姿は、新入社員時代に恐れていた「お局さま」に驚くほどよく似ていた。最後の抵抗、と最近まではコンタクトにしていたけれど、それも眼鏡に切替えた。

 山崎さんもこんな風になるのかしら。彼女の十年後を想像してみるが、やる気もない彼女は、恐らく適当なところで寿退社するんだろうとしか思えなかった。

 他部署から書類を受け取ったあと、席に戻る途中で声を掛けられた。


「あ、笹森さん。ちょっといい?」

「なんですか、岡田さん。忙しいんですけど」

「そんな冷たい言い方しないで、ね」


 そう言いながら、人気のない階段の方へと促される。


「用があるなら手短にお願いします」

「美奈子さ、まだ怒ってるわけ?」


 岡田は同期入社で、ほんの数日前まで私の恋人だった。

 今、彼の左手の薬指にはプラチナの指輪が嵌められているけれど、それは私とのものではない。


「美奈子がさ、この間まとめてくれたプレゼンの資料、出来がいいって課長に言われたよ」

「そうですか。でも、私のこと名前で呼ぶのはどうかと思いますよ。婚約者のこと、ちゃんと考えてあげて下さい。あとプライベートではもう仕事の手伝いもしませんので」

「分かってるよ。でもあいつ、うるさいんだよね。この指輪だって結婚してからでもいいだろって言ったんだけど、毎日着けてなきゃ許さないって大騒ぎしてさ」


 捨てた女に婚約者の愚痴を言うなんて、この男はどれだけ無神経なんだか。


「私より若くて可愛いんですから、それくらい我慢したらいいじゃないですか」


 岡田が私に言い放った言葉を使って皮肉ると、彼は困ったように頭を掻いた。


「なぁ美奈子、この間は悪かったよ。言葉の綾ってやつでさ」

「仕事に関係ないなら戻りますね」


 これ以上岡田の言葉を聞く気にはなれなかった。背を向けて歩き出す。昨日の雨雲にも似た重苦しさが胸の中に立ちこめていた。

 岡田とは二年ほど前から付き合い始めた。人当たりがいいだけの、いつもへらへらした男。それなのに、二十代から三十代に移り変わるころの私の焦りに、彼はするりと滑り込んできた。

 恋とか愛なんかじゃなくて、ただ誰かに側にいて欲しい。そんな打算的な恋愛だった。それでも、彼と一緒にいると楽しかったし、頼まれれば仕事のサポートもした。忙しくて会う時間がない、と言われても信じた。

 それなのに、五日前、私が出社すると、岡田が新入社員の女の子と婚約したという噂が社内を駆け巡っていた。会社では彼と私が付き合っていることは秘密にしていたから、私も驚いた顔をするしかなかった。

 仕事終わりに岡田を呼び出して問い質すと、彼はあっさりと認めた。


「別に美奈子とは付き合ってたつもりじゃなかったし、それに、あいつの方が若くて可愛いからさ」


 そんな言葉とともに。

 岡田を愛していたのかどうか、今でも分からない。ただ人恋しかっただけなのかもしれないし、必要とされたことが嬉しかっただけなのかもしれない。

 ただ、その日から私はコンタクトから眼鏡に変えた。何かが自分の中で切れたような感覚。ある意味では楽になった。けれど、その反面、とてつもない虚無感にも襲われていた。

 仕事を終え、会社からの帰り道、駅の片隅の、薄暗がりにビニール傘が人目を避けるように捨てられていた。昨日の雨と風のせいか、ビニールが剥がれ、骨も折れ曲がっている。

 いらなくなったら捨てられる。

 その傘と自分を重ね合わせて、少し笑った。

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