アブノーマル④


奴にとって、全てはゲームと同じ。


口の中が急速に乾く。予定は狂っても、最後の計算さえ合えば良い。ブラッドはクレイの懐に踏み込んだ。クレイはおもちゃを見つけた子供の様に笑っている。ひゅっ、と音がして、次の瞬間にブラッドは宙を舞っていた。叩き付けられる直前に浮遊感。気づけば口から血を吐いていて、脳が状況を理解する前に体中の血液が逆流して、さらに吐き気を催す。腹を殴られたのだ。


強すぎる。勝てる気がしない。


苦しむブラッドを見て、クレイが嗤っている。完全に遊ばれている。


この異常者を倒すために掲げた覚悟なんて、そんなものかと思う。死んでもクレイを止めると思っていた。刺し違えてでも。自分を囮にして、犠牲にして、格好をつけて。実際はどうだ。ありえない光景に体の自由を奪われ、恐怖し、呆気なくサンドバックにされている。情けない事この上ない。


なによりも、敗北するのが、恐ろしい。


自分で終わらせる気だった。もう誰も、クレイの犠牲にさせないつもりで、自分しか出来ない事だと思い込んで。結局、ブラッドも今までの人間と同じ、『常人』。


常人は、異常者に勝てない。


分かっていたけれど、分かっていなかったのかも知れない。どこかで、自分だけは違うと思っていた。漸く理解してしまった。どうあがいても勝てないと。


でも。


せめて、二班の到着まで待ってくれと願う。陣形の完成まで、あと数分。隊員達には、ブラッドが合図を出すのが困難な状態になった場合でも一斉射撃するタイミングを決めてある。それは、ブラッドが死んだ瞬間。奴が最も油断するだろうその瞬間。


死にたくない。苦しい。誰か助けてくれ。ブラッドは心の中で醜態を晒して、自嘲する。今更覚悟が揺らいだ所で、もう止まらない。


(頼むぞ、お前ら)


先代の隊長は、無念と無力を嘆きながら死んでいった。隊士達は、隊長のそんな姿を見て戦意を喪失した。もうそんな無様は晒さない。


自分が、どういう状態なのか、もう分からなかった。陣形が完成するまでの時間が長い。


『ブラッド、さん…!』


漸く来たと思った連絡は、待ちわびていたものではなかった。どうした、と声に出せない疑問。霞む視界に、クレイのナイフが光る。


バラバラにされるんだな、とどこか他人事のように思った。


「…は…?」


しかし、クレイは襲い掛かっては来ず、素っ頓狂な声を発した。ただ、何かがクレイの後ろにいた。またあの得体の知れない恐怖を味わう。勘の良いクレイさえ、それまで気づかなかった。


「随分、楽しそう、だな」


声はひしゃげていた。まるで、無理やり出したように。クレイの後ろに目を凝らす。やっぱり、彼は、殺しても死なないのか。ブラッドは不思議な程それを受け入れていた。


首は繋がっていた。足もあった。ただ、左腕だけがない。止血もしてないのに、出血は『最初に見た時と同じように』止まっていた。眼球が動いたのも、錯覚ではなかった。


見間違いだと思っていた。あの時ブラッドの思考を奪った現象は、現実だった。


彼は血を流したまま、切断された筈の足で、確かに立っていた。首も、斬られていた証拠になるのか知らないが、呼吸が掠れて意味を為さない音を立てている。息をしなくても生きていけるのなら、いらない機能な気がした。


クレイの表情に緊張が走ったのを見たのは、恐らくブラッドが最初で最後の人間だろう。今まで人に恐怖で動けないという経験を与えてきた彼は、初めて自分がそれを体験している。


クレイが振り返ると同時に彼が緩慢に右腕を振り上げた。その手には、ナイフが握られている。


「あ あ ぁ ああああああああ!」


断末魔。


今度はクレイの、ナイフを持った腕が飛んだ。


他人をあれほど切り刻んでいた男が、腕を切断される苦しみに悶える。そこには自分より生物的に強い生き物に対する恐怖があった。純粋な腕っぷしでは、クレイの方が強いだろう。だけど、目の前の怪物は、強いだけでは死なないのだ。


「なんで、なんで、なんで!てめぇは死んだ筈だ。俺が殺した!誰がどう見ても、死しかありえねぇ!なぁそうだろう?お前も見ただろ!なぁ、滅多刺しにしてやったのに、生きている方が可笑しいだろうが!手足切って、首も胸もバラした!なのになんで立ってたんだよ!!なんで足がくっついてんだよぉおおお!」


これほどまでにクレイが取り乱した事がかつてあっただろうか。


「足は、先に、くっつけた」


まるで壊れた人形でも直したかのような気安さで、化け物が答える。クレイが逆上し、青年に襲いかかる。クレイの性質上、そうなることは予測できた筈なのに、彼はやはり無抵抗で、呆気なくナイフを奪われた。


「……!!」


クレイは、奪ったナイフを青年の頭に突き刺した。これで、弱点は全て潰された。青年は、またピクリとも動かなくなった。


もう、どれほど浴びたか分からない返り血。クレイは、もう笑わなかった。まだ、何かに怯えていた。見下ろした肉塊が、ぐちゃぐちゃと音を立てて、蠢いている。


「あ、ああぁあああああきめぇんだよ!死ね!死ね!」


その恐怖を振り払うように地団駄で肉の塊を踏みつけ続ける。


メキ、ゴキ、グチャ。

酷く不快な音が、鼓膜を犯す。異様としか思えない。もう動けない筈の人間を執拗に踏みつけるその行為。悦楽ではなく、あるのは恐怖。死なない。勝てない。ブラッドが今までクレイに感じていたものだ。


『すみません遅れました…二班です。二時の方向到着です。照準…、良好です。いつでもいけます』


随分な遅刻をした二班の言い訳を聞くのは後だ。それが聞ける事を祈る。標的クレイは、目の前の肉塊をミンチにすることに必死だ。流石に吐き気がする。狂ったように踏みつけ続けていた足が止まり、ふらりと後ずさる。


「流石に死んだ…か?はは」


クレイが歪に笑う。放心したように息を吐く。


好機。


「――っ、撃て」

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