群青の蟋蟀
気付けば、コオロギの鳴く季節になっていた。
こんな病室の3階でも、その虫の甲高くか細い声が聞こえてくる。
ふと、似た様な音がもっと大きく自分の病室の前で聞こえた。
振り返るのと同時に、音の主が息を切らしてドアを開けた。
「ヒリ」
「アーリャ!遅れてごめん!」
遅れて、看護師さんがヒリの肩に手を置く。
この病院に入院してから、何度も見た光景だった。
***
「いやぁ、今日はいつもより怒られちゃった」
「今日はフジカさんの担当だからね」
恰幅も上背もあるフジカさんにこってり絞られる事10分。
ベットの横に置かれたパイプ椅子を寄せてから座る。
重たかった鞄も床に置いて、ようやく一息付けた。
「アーリャ、ここ最近は調子良いね」
「誰かさんが元気をくれるからね」
読んでいた本がひと段落ついた様で、アーリャは黄色い押し花の栞を挟んで本を閉じた。
黒い長髪と、白く薄い肌。
夏の空の様な青い目と、彼女の肩ごしに見える窓の外の入道雲。
今月に入ってからは、何度も見る事のできた光景だ。
「難しい本、読んでるね」
「これはそんなに難しくないよ。入門編だし」
「入門編の前に書いてる言葉が、私からしたらすでに難しそうなんだけど」
「これ、高校でも習うって聞いてるけど、苦手なの?」
「ん~……苦手かどうかもよく分かんない。テストは丸暗記でやっつけるからさ」
「赤点とってたら部活で色々言われるんじゃない?」
「そこはギリギリで回避してるから」
アーリャとの付き合いは、もう16年になる。
つまり、生まれた時からだ。
私が生まれた病院で、3ヶ月後にアーリャが生まれた。
ちょうど、今と同じ季節だ。
同じ幼稚園、保育園、小学校、中学校……高校は別だ。
「ヒリ、勉強はちゃんとしないとダメだよ」
「何、親みたいな事言わないでよ! 勉強なんて、テストである程度点数取る為にするものでしょ」
「ヒリ、部活は楽しい?」
「え? まあ、楽しい、けど……」
「数学がある程度分かってると、ペース配分とか、目視である程度の距離を測ってから自分がどのくらい動けるか考えたりとか、そういう事が出来る様になるんじゃない? 国語はさ、監督の言いたい事分かったり、自分の言いたい事を伝えられたり、歴史も昔の選手がどういう事していたとか考えられる様になると思うから」
「へぇ~……アーリャ、そんな事考えて勉強してるの?」
「全然。今適当に考えた」
「何それ!」
「勉強してると嘘が上手くなるのよ」
「私の前ではしないでよ! も~、結構感動したのに~……」
それから、私達はいつもの様におしゃべりした。
私は学校の事、彼女は病院の事。
話のラベルはいつもと同じでも、私達は飽きる事なく話し続けた。
アーリャが、高校を中退して3ヶ月が過ぎていた。
体に異変が出始めたのは中学2年生の頃で、その時は症状も軽く、薬での治療で治る段階だと言われていた。感染するものではない事は知っていたから、私はそれまでと同じ様に接していた。
同じ高校に入り、同じ制服を見せびらかし合って、入学式で彼女は倒れた。
私は苦しむ彼女のそばにいる事しかできず、彼女が病院に運ばれた後の事は覚えていない。
数日して、彼女は高校を辞めた。
医者の判断と、彼女の意思だった。
一気に病状が進行して、もう引き返せない所まで来てしまったのだそうだ。
面会ができる様になってから1週間くらいは会いに行けなかった私を、彼女はいつもと同じ様に微笑んで迎えてくれた。
そして、その時に彼女に訊かれてようやく私は学校生活の色んな事を覚えていない事に気付いた。アーリャが心配で何も手につかなかったからだ。
『ダメじゃない、ちゃんと勉強しないと』
その時も、普通の顔して親みたいな事を言うものだから、何だか妙に気が抜けてしまったのを覚えている。
「あ、そうだ、今夜の事覚えてる?」
夕食時間前になり、面会の時間も終わる数分前、パイプ椅子を片付けている私にアーリャが確認してきた。
「流帯祭でしょ? 本当にやる気?」
「だって、この病院から見上げた方が綺麗に見えるでしょ? ここ、山の上だし」
「街から見たって変わんないよ。それに、どうやって入ればいいの?」
「警備の人に話付けたから、今夜だけ大丈夫」
「何を付けたって?」
「おわぁあ!! びっくりした!」
「ヒリちゃん、そろそろ面会時間終わるよ」
「いきなり背後に立たないでよ、フジカさん!」
「で、何を付けたって?」
「何でも無いですよ」
「……ま、いいわ。そうそう、アーリャちゃん、今日は21時に消灯だからね」
「え? は、はい……」
「ほらほら、アンタは早く出なさい」
「グイグイ押さないで下さいよ! 同じ年頃の女の子なのにアーリャより扱いが雑!」
「看護師が病院で健康な子に気を使ってどうすんの。さっさと出る!」
「じゃ、じゃあね、アーリャ! また後、いや、明日! 明日ね!」
「うん、また明日」
追い立てられる様にして病院を出てから数時間後、私は動き易い服装に着替えて病院の前に立っていた。
正面玄関は夕暮れ時より更に静まり返り、入口の自動ドアを覆うカーテンの奥では緑色の淡い光が見える。
入口から離れて裏に回ると、救急車の出入り口の隣に、守衛室と繋がった扉が見えた。中にはおじさんとお爺さんが座っていた。液晶画面を見ていない方、お爺さんが私を見つけ、親指を上げる。
恐る恐る扉に手を掛けると、小さな電子音と少しの重さと共に扉を開く事ができた。おじさんが私に気付き、手を振ってきたので、手を振り返す。
一気に3階へ上がり、アーリャの病室に入るが彼女はいない。
看護師さんの詰所には誰もいなかったし、いたとしても訊きに行ける訳も無い。
更に階段を上がって屋上に向かうと、アーリャを見つけた。
彼女は読んでいた本から顔を上げ、私に手を振る。
「先に上がってたの?」
「うん、待ちきれなくて」
「いつから待ってたの? 体、大丈夫?」
「全然平気。5分も経ってないし」
「そう? っていうか、私が来る時間分かってた?」
「フジカさんが消灯時間を教えてくれたじゃない」
「……あぁ~……あれって私に言ってたんだ」
「流帯祭って、始まる時間が毎年違うから、気を利かせてくれたんだと思うよ」
「何かお礼しとかないとね」
夜風が、アーリャの髪と屋上を囲むフェンスを揺らした。
「あんまり眺め良くないね」
「仕方ないよ。それに、周りはあまり関係無い」
ブォォオ……ブォオオオ……
屋上を撫でる風が、少し乱れる。
そして、その乱れはどんどん強くなってくる。
流帯祭の、前兆だった。
***
音が強くなってすぐ、私とヒリは屋上の真ん中辺りに移動した。
少しして、東の空で茶色の『木星』が強く輝き始め、西の空にある黄色の『金星』も輝き始めた。
そして、小さく見える街の明かりの更に更に向こう。
夜闇を水で薄めた様な影が立ち上がっていく。
街では今、人々の盛り上がりは最高潮に達しているだろう。今いる病院の患者達も、窓からこの光景を見ているに違いない。
薄い影はどこまでも伸びる大地の様だけれど、先端は夜空に溶けて見えなくなっている。でも、その先にある物が何なのか、此処で暮らしている人は誰でも知っていた。
見上げている私達に応えるかの様に、夜空の中に橙色の光が1つ灯り、ユラユラと揺れ始めた。
同時に、ひときわ風の音が強くなり、屋上のフェンスを、病院の窓を揺らす。
夜空を裂くように、白い雲が横切っていく。雲は途切れる事なく、形を変えながら橙色の光に合わせる様に揺れている。
流帯祭が始まった。
「わぁ~……今年は綺麗に横切ったね」
「『竜』はまだまだ元気みたい。よかった」
「何年か前だったけど、かなり揺れた時があったね」
「3年前じゃなかったっけ。あの時は『木星』の姿勢制御が上手くいってなかったって聞いた。今年はヒリのお父さんが頑張ったのね」
「いや、あそこで働いてるのお父さんだけじゃないから」
『金星』と『木星』は輝き続ける。その光で目立たないが、夜空を青いスパークルが散っていくのも見える。上手く衛星の機能が動いている様だった。
「ねえ、『竜』の名前って何だっけ」
「記録は残ってないみたい。私達の先祖が『竜』に乗って元々居た星を離れた後で、戦争があったから」
大昔。
何らかの理由で『竜』に乗った私達の先祖が、遥か彼方にある別の惑星に向かっている事は小学校で習った。『竜』の背中に載せられるだけの物資と環境を載せ、『竜』が移動の間に障害物や別の生物に襲われて死なない為に、管理保護衛星機構『木星』『金星』『水星』『土星』『月』『火星』の6基で『竜』を囲んだ。そして、飛び立ってから何十年か経った後、先祖同士で戦争が起きた。
何故戦争になったかは記録が残っていない。何せ、今は戦争から1000年程も経っているのだから。
そしてその長い年月の中で、『竜』がいつもは前方に突き出している筈の顔を振って身じろぎをするごく短い時間がある。
その時だけ、『竜』の橙色の瞳が夜空に浮かぶ。
人々は、その一瞬に『竜』に祈りと感謝を伝えようとする。
これまでの旅路が無事に済んで良かった。ありがとう。
こらからの旅路が無事でありますように。どうか、どうか。
それが、流帯祭の興りだった。
私は、じっと夜闇の向こうにある橙色の光を見続けた。
一年の、ほんの一瞬に見える『竜』は輪郭さえも分からなかった。
***
腕時計を見ると、もう日付が変わっていた。
もう空に橙色の光は見えず、『木星』と『金星』の光も通常の状態に戻っている。
「今年は長かったね。一瞬で終わる時もあったのに」
「短くても1時間は見えてるけどね」
夜空に湧いた雲は細かく千切れて徐々に北の方角へ消えていく。
「アーリャ、今、体は大丈夫?」
「うん、平気。じゃあ、戻ろっか」
ガリガリガリ、ガリガリガリ。
屋上を歩くアーリャの足音が、やけに響いた様に思えた。
「……どうかした?」
「……足、かなり変わっちゃったね。前はあんなに細かったのに」
「……そうね。でも、私スカート好きだから結構平気」
アーリャは、勉強したくなくて運動している私とは違って勉強が出来て頭の良い子だった。
歩いているよりも机に向かっている時間の方が長い子だったけど、今の彼女の足にその面影は無い。
鉱石みたいに滑らかに節くれ立ち、太さは私の顔ほどもあり、指先はまるで辞典で見た鍾乳洞の様だった。
今までと同じ様な感覚で歩くと床や地面を傷つけてしまうので、薬と訓練で力を抑えなければならない。
硬質化した部分が鱗に見える事から『竜鱗病』と呼ばれ、いずれ彼女の腕や体も同じ様に変わってしまう。初めてこの病気が見つかったのは何百年も前だったそうだけど、治療法は未だ見つかっていない。
「アーリャ」
「何?」
「私、明日も来るからね」
「部活、大変なんじゃないの? 来れる時で良いよ」
「……うん、もし来れない日があっても、別の日に必ず来るから」
この病気の治療法が分かっていない理由の1つに、患者の奇妙な行動があった。
全身に鱗が広がった患者は、ある日突然いなくなってしまうという。
書き置きも、誰かに言伝をするでもなく、ふっと消えてしまうのだそうだ。
消えた人達の中で、見つかった人はいない。
「ヒリ、部活の大会とかって近い?」
「え? 来月にはあるけど……」
「応援してる。終わったら大会ってどんな感じだったか教えてね。私は、病院にいても勉強してるから」
「……じゃあ、アーリャの勉強は私が応援するね」
「うん、応援してて。私、頑張るから」
屋上にあった扉を開けたアーリャが持っていた本のタイトルを、階段の蛍光灯が照らして『竜鱗病入門』の文字を浮かび上がらせた。
短編集:群青と濃緑、或いは陽炎 薄明一座 @Tlatlauhqui
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