シュガー・セグメント
「どうも」
「お、今年も来たね。やっていくの?」
「はい」
「どのレベルのやつにする?」
「もちろん、一番難しいもので」
「本気~?」
「今年こそ、できますから」
「……そう。じゃあ、はい」
笑顔の人達は皆、思い思いの方向を向いている。
食べ物の屋台、射的やくじ引きなどの遊戯の屋台、或いは提灯。もしかしたら、遠くのやぐら。
ただ、少なくとも、僕はこのお祭りに来ると、1つの方向に向かっている。
ピンクと、青と、紫のお菓子を売っている、いつも隣にあるたこ焼き屋のせいで少しだけ薄汚れた屋台へ。
今年こそ、今年こそと思いながら。
「どうも」
手渡された紫色の小さな板には、何かのイラストが掘られている。
店に掲げられた看板は、最高難易度のそれを『地球ゴマ』と題してあった。
「今年も頑張ってね、少年」
「……はい。じゃあ、あとで」
板ともに受け取った小さな爪楊枝は、今の僕にとっては正しく一寸法師の刀だった。
この爪楊枝でイラストの部分を割らない様に、板から切り離さなければいけない。
型抜き、というこのお菓子を売っている屋台は今ではもう見かける事は少なくなったとネットには書いてあったが、僕にとっては子供の頃から親しんだものだった。
屋台の店主の女性──鈴木耀子さん、という名前を聞いたのは5年前だった──と初めて会ったのもその頃からで、毎年、お祭りの時期に会う人となった。
屋台の目の前に置かれた長テーブルの一角に座り、深呼吸をする。
ちらりと横を見ると、耀子さんと視線が合った。手を振ってくる。
……よし。
僕は目の前の難題に取り掛かった。そして、この遊びは、今日で終わりだ。
これまでの経験を全て使い、僕は成功させなければならない……!
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はぐれた、と気付くのに少し時間がかかった。
気付けば、後ろに居た筈の両親の姿はなく、妹も見当たらない。
僕の視線は大人達の腰と、彼らが持っている綿飴や風船なんか遮られて、空が見えない様にさえ思えた。まるで、高い壁で囲まれた狭い部屋に押し込められた様に感じ、僕は一歩も動けずにいた。
誰かが僕にぶつかり、よろけて動く。誰かがぶつかる。よろけてしまう。
そうしないと歩けないみたいに、僕は人波に揉まれながら、このままどんどん家族達とはぐれてしまうのではないかという不安感と戦っていた。いや、実際は飲み込まれていた。
人波にも、不安感にも。
「君」
声をかけらても、僕に話してかけているとは全く思えなくて、泣きそうな顔に必死に力を入れて下を向いていた。
「君」
また声をかけられて、今度は僕の肩に手が置かれた。
大きくて温かくて、だけど細いその手から、少しずつ視線を上げていくと、割烹着姿の女性が笑顔を浮かべていた。
「こんばんは。私ね、そこの屋台をやっているの。少し遊んでいかない?」
「……」
「楽しいと思うよ。どう?」
女性が指差している方向を見ると、薄汚れた屋台と長机、パイプ椅子があった。
長机が道にせり出しているからか、人波もその屋台から少し距離を置いている様だった。そこでようやく、僕は自分の足が疲れている事に気付いた。
「……行く」
「よし、じゃあ行こうか、少年」
女性に誘導されて机に座っていると、ジュースと花の絵が描かれたピンク色の板が目の前に置かれた。
「うちのお店はね、型抜きっていって、このお花さんを板からとって自由にしてあげるゲームをやっています」
「……楽しそう」
「でしょう? 本当はお金もらってやってもらうんだけど、今日は客の入りも悪いし、君はサクラをやってもらうからお金はいらないから! 何枚もあるから好きなだけやってね……あ、君、お名前は?」
「……かみしま、ゆうた」
「かみしま、ゆうた君か……お、この巾着袋のイラスト格好良いね」
「お姉さん、ライダー観ないの?」
「日曜日は寝てるからね、私。じゃあ、優太君。このジュースもお店のおごりなので、好きに飲んでいいからね。お姉さん、少し電話しないといけないから」
「分かった!」
「うん。いい笑顔だね、少年」
しばらくして、両親と妹が屋台に現れた。すごく叱られたし、妹にも泣かれてしまったけど、不安だった気持ちがいつの間にか楽しい気持ちに変わってしまっていた。
この屋台はすごく特別な場所に感じていた。
大人の男の人と話しているお姉さんに両親はしきりにお礼を言って、僕はジュースのペットボトルと何枚も抜いた型抜きをお姉さんに自慢して、私もやりたいと駄々をこねる妹を引きずって、その日は終わった。
僕の心の中ではもう、来年またあの屋台に行く事は決まっていた。
人波に揉まれている内に着いたから、どう行けば着くのか分からなかったけど、そんな事を思い付かない位、僕はあの店を好きになっていたのだった。
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「あ~、失敗しちゃったねぇ」
「……これ、本当に抜ける様になってます?」
中学生になった僕は、その年も変わらず屋台の店主に会いに来ていた。
「人聞きの悪い事を言わないでよ、少年。うちはイカサマ無しのお店だから。抜けない型は置かないの。私、ちゃんと自分でやって確かめてるんだから」
机に散らばる青色の型の破片を集め、まとめて口に放り込む。
初めて屋台に来た日から1週間ほど経ってから、母親から僕がソフビ人形と一緒に飾っている型は食べられる事を聞いた。
その時は食べてしまうと屋台に行けなくなってしまう様な気になり、すぐに食べる事が出来なかったが、3年も経てばその場で食べても平気になっていた。
「もう1回」
「いいけどさ、少年は大人になってもギャンブルとかやっちゃダメだよ」
「何それ」
「一旦落ち着くとか、少し距離を置くとかしないから。失敗してもそのまま同じ方法でまた失敗する気がするんだよねぇ」
「大丈夫だから、今のでこの型は大体わかったし」
「大抵、そう言う人が失敗するんだよなぁ」
「うるさいな」
数分後、僕は割れた絵と共に型の破片を胃袋に放り込んだ。
「やっぱり」
「だから、うるさいって……もう1回」
「やめときなって。少年、今日は友達とかと来てる?」
「……だったら?」
「一旦友達と遊んできなって。集中力なくなってるから、休憩してきな」
「じゃあ、次で最後にするから……これ、本当に抜けるんだよね?」
「しつこいし失礼なやつだな」
僕に型の板を投げると、店主のお姉さんは同じ物を持って目の前に座った。
「……何?」
「風評被害が出る前に、ちゃんとしたものだって教えてあげる。あと、私ができたの見たら、少年も冷静になれるでしょ」
そう言って、型抜きを始めた。僕も少し遅れて取り掛かる。
祭囃子より、人波の喧騒より、何故か目の前の女性が型を削る音がよく聞こえた。
「少年」
いきなり話しかけられて驚き、手元が狂う。幸い、絵は割れなかった。
「何?」
「これさ、決めてもいないのに何か競争してる気分にならない?」
「……なる」
「だよねぇ~、逆に焦るよねぇ~」
「……あの」
「ん?」
「僕がこれ成功したら、少年って呼ぶのやめてよ。それと……名前教えて」
「……え、何それ」
「競争ならいいでしょ」
「……よし、じゃあ、私は成功したら今のお願いを無しにする」
「……何それ」
「お、難しい所抜けた」
「あ、ずるい!」
そして僕は今までになく集中して型抜きをして……遂に青色の型からキリンを救い出す事に成功した。
「できた……!」
「おめでと~」
にやけないように力を入れながら顔を上げると、俺と同じキリンの型抜きに成功している店主の笑顔が見えた。
「私の方が少し早かったね」
「……そう」
店主は、顔の横で型をひらひらさせている。つまり、僕が成功した時にはもう出来ていたのだ。
「スズキヨウコ」
「え?」
「鈴木、耀子。私の名前」
「……僕、負けたんだけど」
「私、お願いを両方とも無しにするとは言ってないから」
「……何だよそれ」
「少しは落ち着いた? 今日はここまでにして、また明日来なよ」
お祭りが開かれているのは3日間。今日はその初日だった。
子供の頃は1日だけで満足していたので3日やっていると知った時は驚いた。
「……分かった。そうします」
「じゃあ、また明日ね。少~年!」
『少年』をやけに強調して言ってきた店主……鈴木耀子さんに少し苛立ちを感じながら、その日は屋台を後にした。
彼女の名前を何度か呟いている内に冷静になり、何故か少しだけ嬉しくなった。
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耀子さんとの過去を思い返していると、妙に嬉しくなり、嬉しいのに手元は揺れる事なく、冷静に型抜きに没頭できていた。
最高難易度『地球ゴマ』の型抜きは、外側以外に、内側にも抜く部分がある。
今までは、その部分をやっている内に絵の部分を割ってしまっていたが、今日は小さい所まで正確に抜けていた。
今日はお祭りの3日目。最後の日だという事も、今の僕の頭にはなかった。
そして、最後に残してた外側の大きい部分、つまり一番簡単な所を油断せずに抜いた。安堵の息を肺から思いっきり外に吐き出した。
「……すごい!」
一部始終をそばで見ていた耀子さんは、何故か僕以上に喜んでいた。
手を叩きながら体を揺すっている。今にも跳ね飛びそうだ。
「……ありがとうございます」
「何、ひと仕事終えた職人みたいな顔してんの! 嬉しいくせに」
確かにめちゃくちゃ嬉しい。が、今日の目的はこれだけでは無い。気を抜いてはいられないのだった。
「いや、嬉しいですよ。ずっと挑戦してきた訳ですし……それに、今日が最後ですから」
「最後?」
「耀子さん、僕、高校3年ですから」
「あ……そっか。もうそんな年なんだね。県外に行くの?」
「はい。僕、ここの祭りが好きですから、民俗学の勉強に行きます」
「民俗学? 何かすごそうだね」
「隣の県の大学で、有名な教授がいるのは助かりました。車で2~3時間でこっちに来れますし」
「そっか……じゃあ、来年もご贔屓にしてくれると嬉しいな。あ、景品……」
「耀子さん」
「ん~?」
「景品は要らないんで、お願い聞いてくれませんか?」
「お願い?」
訝しげな顔をしていたのは一瞬で、耀子さんはすぐに思い至った様に笑顔になった。
「そうだね……私はもう少年って呼べないのは少し寂しいけど、大学生になるなら仕方な──」
「耀子さんの連絡先、教えて下さい」
「──え」
「耀子さんの連絡先です。それと、少年って呼ぶの止めて下さい」
「……は、はあ!? 何、何言って」
「僕、何回でも言いますよ。耀子さんがちゃんと聞き取れるまで!」
「いや! いい、言わなくていいから!」
耀子さんは手をぶんぶん振って距離を取るが、人波にぶつかって戻ってきた。
「……本気で言ってる?」
「本気です」
「私何個上だと思ってんの」
「耀子さん、元ヤンだから初めて会った時から若かったですよね。8歳差ぐらいだと思ってましたけど」
「……合ってるけどさ……えぇ~……」
「……な、無しにするなら、耀子さんも『地球ゴマ』の型抜きして下さい」
耀子さんの反応で何故か僕が恥ずかしくなってしまい、妙に上擦った声になった。
「……言ったな?」
「え? あ……」
しまった。耀子さんは型抜きに問題がないか、自分で確かめていると言ってた。
『地球ゴマ』もやっているとしたら……!
そう思った時にはもう、型抜きを2枚、持ってきていた耀子さんを止める事は出来なかった。
実際は10分ほどだったかもしれないが、僕の体感で5分程度の早業で1枚目の型抜きは成功していた。祈るように、2枚目の型抜きを見守る。
(あ……あぁ……)
僕の祈りは届かず、耀子さんは2枚目の型抜きを成功させていた。
『無し』の型抜きは2枚。僕のお願いと同じ数。そして何より、あんなに難しい型抜きを2枚、連続で成功させてしまうほど、僕に連絡先を教えたくないと耀子さんが思っている事に、凄まじいショックを受けてしまった。
耀子さんは、成功した2枚をじっと見つめると、席を立って屋台に引っ込んでしまった。僕の脳内に、今の内に型を傷つけてしまえと囁く声があった。
だけど、それは出来なかった。耀子さんの意思を思えば。
数分後、席に戻ってきた耀子さんは……僕の目の前並んだ型抜きを1つ、口に放り込んでしまった。
「……紫ってグレープフルーツ味だったんだね。忘れてた」
あっけに取られている僕の前で食べきった耀子さんは、紙片を僕に差し出した。
「……私ね、結構面倒くさいやつだから。普段はこんな感じでもないし。もし、これを取るなら……ちゃんとその辺の事、考える様に」
僕は、差し出された紙片をゆっくりと受け取った。
英字と数字の羅列。携帯会社のドメインと、ある通話アプリのアカウントも書かれてあった。
「……じゃあ、よろしくね。少年!」
「……はい!」
祭りの終わりを知らせる、最後の花火が打ち上がった。
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