短編集:群青と濃緑、或いは陽炎
薄明一座
両手の形
私が黙って家を抜け出すのは、これが初めての事ではなかった。
だから、きっと、夕方5時のチャイムが鳴るまでは誰も私を探さないだろう。
父さんも母さんも、私があまり来る事のない祖父母の家で、大自然を満喫しているのだろうとタカをくくっている。祖父母の家がある
去年までの私は実際にとても楽しんで過ごしていた。今回は違う。
私は、今までに行った事のない道を進み、なるべく遠くへ行こうとしている。
頭の中で、今日までに起きた色んな事を思い出していると、自然と足は動いていた。
一刻も早く、私は私の家族から離れなければいけない。
だから、できるだけ遠くへ。何度も何度も、思い出す。
夜中に聞こえる、できるだけ声量を下げた罵り。私の名前。父の声、母の声。
とてもとても悲しくて、息が切れるのも構わずに山の中に入っていく。
初めて、犬の死体を見た時の事を思い出す。優しい祖母の手が、私の顔を覆って、体の向きを変えさせた。
『おばあちゃん、あのワンちゃんどうしたの?』
『さあてね、何処から来たのかね』
『……飼い主さん、探してるよね?』
『……そうだね。きっとそうだ。もし、飼い主が探していたら、私が伝えておこう』
『……お墓、作らなくていいの?』
『優菜、怖くないの?』
『怖いけど、かわいそう』
『そうかい……じゃあ、一緒にお墓を作ってあげようね』
その後、おばあちゃんと私は、簡単な墓を作ってあげた。
何年も前の事だった。飼い主が探していたという話は聞かない。
今なら分かる。きっとあの犬は誰にも探されていないんだ。
首輪はなかったし、近所で飼われていたかおばあちゃんはわかっていなかった。
捨てられて、どこか遠くからこの村にやってきたんだろう。
私にとって、それは福音だ。遠くに行って、誰も知らない場所で忘れられたかった。
何度も、あの時の声が聞こえる気がする。耳鳴りのように、ずっと響いている。
私の名前、父の声と母の声。
いつの間にか、私は走り出していて、履いていたサンダル越しに何度も刺す様な痛みが足の裏を覆っていた。もっと遠くに。
「うわっ……!」
そんな状態だったから、足に力が入らなくなっていて、何かに足を取られた私は滑って斜面を転がりだした。少しして浮遊感。硬く、強い痛みが私を襲った。まだ転がっている。私は安心して、少し笑っていたと思う。
私さえ思いもしなかった出来事なら、家族達が思い付く事もなさそうだ。
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「……何で?」
目を覚ました私が、まず思った事がそれだった。自然と口から漏れてします。
体を起こして、周りを見回すと、そこは石で出来た階段の入口だった。
少し遠くから、ごうごうと水が流れる音が聞こえてくる。
石段はずっと上まで伸びて丸く大きな穴の奥に消えていた。反対側には崩れたように石が重なっていて、その上にも穴がある。私はそこから落ちたんだろう。
本当なら真っ暗で何も見えない筈のここは、石や壁が出しているほのかな青緑色の光で満たされ、それは大きな穴の奥にも続いている様だった。
立ち上がり、自分の体に傷がない事を残念に思った。背中の痛みも、少しだけジンジンしている位だった。
上の穴から戻る訳にはいかないので、更に奥に向かって階段を上がっていく。
穴をくぐると、その先は更に広い空間だった。
石段はまだ続いていて、今度は下に伸びている。石段以外の場所は、お皿の様な形で水の溜まった地面が何段にも重なっている。鍾乳洞、というやつだろうか。
この場所も青緑色で満たされていて、時々、白く光る何かが遠くで飛んでいるのが見えた。その何かが、私の目の前を横切る。かすかな羽音は虫の様だった。
とりあえず、私は階段を下りていく事にした。
起きた時に聞こえていた水の流れる音はもう聞こえない。
今、この場所にある音は、虫の羽音と私の呼吸だけの様だった。
階段を更に下っていくと、再び大きな丸い穴に辿りついた。
そこを抜けると、更に大きな空間が私の目の前に広がった。
青緑色の光は見えるが、壁と壁の間が広くて、さっきの場所よりも暗い。
ただ、白い光はさっきの場所よりも多く飛んでいて、遠い天井はプラネタリウムの様だった。
そして、私が立っている地面の向こうは、真っ暗な湖になっている。
光る虫も、地面も水の中にはないのか、底がある様にさえ見えない。私が立っている岸の向こうで、小島に建てられた聖母の様な石像が一瞬だけ虫に照らされて消えた。
「……綺麗……」
不意に零れた言葉と一緒に、涙が出てきた。
綺麗だと言って、そうだねと返してくれてる人がいなかったからだ。
お父さん。お母さん。
遊園地に行った事を思い出した。学校の運動会を思い出した。近所のデパートを思い出した。色んな場所で、私にくれた『そうだね』を思い出してしまった。
あれは全部、嘘だったんだろうか。
同じものを見て、同じ様に感じてはいなかったのだろうか?
私以外の音が無い。広すぎてぐずる音も響かない。きっと誰にも気付いてもらえないだろう。さっきまで嬉しい事のはずだったのに。
ザバッ!
私以外の大きな音が鳴り、驚いてその方向を見る。
水の中から、のしのしと岸に上がってきたその生き物は、湖と同じ真っ黒い目で私を見下ろしていた。
飛んでいた虫がその生き物に集まり、私をも照らし出す。
ぬめった瞳と同じ黒い肌は蝋人形の様に滑らかで、顔の先端からプシュップシュッと空気が吐き出される。
先ほど、一瞬だけ見えた祠の事が思い出された。
「……かみさま」
私は何故か、そう言っていた。でも、祀られているものはこの生き物以外にないと思った。
「私を食べて下さい……苦しいの……私、お父さんとお母さんが喧嘩して、私の名前を何度も呼んでたのを聞いた……私の事で喧嘩しているの、毎日……私、消えたら、2人が仲良くなってほしくて」
私を見下ろしていた目が、すっと細くなった。
「つまり、お前が生贄になりにきたのか」
「……いけにえ?」
「つまり、私がお前を食べる事だ」
「……そう」
「そう? 私は、『お前が私に食べられる為に此処に来たのか』と訊いている」
「……ちがう」
「そうか。では、私はお前を食う事はできない。そもそも、お前は汚い」
私は自分の格好を改めて眺めてみた。傷はないが、土汚れが多い。顔もくちゃくちゃになっているだろう。
「……食べてくれないの?」
「お前、自分の食べ物が泥だらけで食えるか」
「……無理」
「同じことだ。そもそも、神へ捧げる食物というのは神の体に入るからして、神と同じ領域に属する事になる。それが泥だらけではな」
「……?」
「つまり、ちゃんと神の為に用意されるものだ。人間であろうとも」
「……かみさま、私を食べてくれないんだ……」
「そうだと言っている。そもそも、子供は好みではない」
「……好みがあるの?」
「あるに決まっている。私は、脂が多いものは好きではない」
「……?」
「つまり、老人だ。骨まで全て食えるからな」
がっがっがっが、と奇妙な音が生き物──かみさま──から漏れた。笑ったのだろうか。
「小娘、生贄でないのなら帰れ。お前は五月蝿い」
「……いや」
「お前、先ほどお父さんがどうだお母さんがどうだと言ったが、それはお前が言われた事か」
「……言われてない」
「つまり、お前がそう思っているだけなのだな。お前のせいではないかもしれない」
「……そんな事ない」
「何故?」
「……そんな事ないから」
「……小娘」
「何?」
うつむいていた顔を上げると、黒い目と再び見つめあった。白い光が、その目を照らしている。
「生贄は神と同じ領域に属すると言ったな。それはつまり、神の一部になることだ。故に、それにふさわしいものになる様に準備する」
「……」
「小娘、お前は私にふさわしい者か?」
黒い目が、私の目を通して遠くを見ている様な気がした。何を見ているのだろう。かみさまにふさわしくなった私だろうか?
「……今はむり」
がっがっがっが。
「つまり、いつかのお前か」
「そう。かみさま、私が聖母様みたいになったら食べに来てね」
「せいぼ?」
「綺麗な女の人」
「良かろう……では、分かるな?」
「……帰る」
「良し」
がっがっがっが。
「ふふ……あ、かみさま。私帰れない」
「人里に返してやる。目を閉じておけ、動くなよ」
言われた通り、目を閉じてじっとする。
「……小娘、それは何だ?」
「かみさまの前とか、お祈りの時はこうするの」
「……まあいい」
むわっとした、どこか甘い空気に包まれ、途端に眠くなった。足の力も抜けてしまい、柔かい地面に倒れ込む。かすかな揺れが何故か心地良くて、私はすぐに眠ってしまった。
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とても、うるさいと思った。体は揺すられて気分が悪い。さっきまで、とても良い気持ちだったのに。
「……な!優菜!」
「……お母さん」
目を開けると、すぐ近くにお母さんの顔があった。ひどい耳鳴りの向こうから、私を呼んでいる。手を伸ばすと、ぎゅっと握られる。
その手は固く、土と草に濡れている。
「……お父さん」
「優菜!」
耳鳴りが収まらない。お母さんとお父さんの顔が時折赤く照らされて、その度に2人の目と頬が光っている。
「ごめんなさい……」
反対の手をお母さんが優しく握ってくれた。2人の目は、しっかりと私を見てくれていた。あのかみさまと同じ様に。
かみさまは未来の私を。
お父さんとお母さんは今の私を。
不意に、私はとんでもない事をしてしまったと分かってボロボロと涙がこぼれた。
2人の手を握ったまま、自分の両手を重ね合わせて、かみさまに見せたのと同じ手の形を作った。
目を閉じて、そっとかみさまにお礼を呟いた。
耳鳴りの様な救急車のサイレンが近付いて、救助の人が持ってきた台に乗せられる。私は2人の手をずっと握っていた。
救急車に乗せられる一瞬、人垣の向こうに大きな川が流れているのが見えた。
水面は夕日に照らされていても暗く、私は、一瞬見えた大きな波紋が何が跳ねたものなのか見る事ができなかった。
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