西暦2020年、東京都(その2)
うっすらと木目が見える緑色のドアだ。
大きさはごく普通。二メートルくらいだろうか。よくわからないがアンティークなたたずまいで、欧米の屋敷とかで見かけそう。金色に輝くレバーハンドルのドアノブがついている。
そして単に古めかしいだけというわけでもなかった。ドアノブのすぐ上にディスプレイがはめ込まれ、漆黒の画面に赤い光が呼吸するようなリズムで灯っているし、ドアの上部のひさしには、同じく漆黒に赤い光を漏らす防犯カメラのような半球系の物体がついていた。
それにしてもなぜ扉。なぜこんなところに。
そもそも、話しかけてきた声の主はいったい?
公人は左斜め前に二歩踏み出し、ドアの後ろを覗き込んだ。
誰もいない。
ドアの厚みは十センチもなく、人が隠れることはできそうにない。
女の子が運べるような物体ではないし、空耳だったのか。
「いや、あたし、ここ」
今度は上の方から声がした。
声のするほうに顔を向けると、ドアがぐにゃりとねじれ、半球カメラが公人を覗き込むように見つめていた。
此主公人は二十一世紀に生を受けたIT社会の申し子であるから、ドアから声が出たとしても別に驚いたりはしない。なんならひとりでに動いたっていい。
しかし、アンティーク調のドアがコンニャクかなにかでできているかのように身をよじり、その上辺にあるカメラがこちらを見つめているとなれば話は別だ。
思わず声を漏らして飛び退き、足をもつれさせて尻餅をついた。自分の後ろに置かれたキュウリに驚いて飛び退く猫の気持ちがわかった。
「そんなに驚かなくても」
緑のドアは左右の足を動かすようにずりずりと動いて公人に向き直った。
(まず刺激しないよう後ずさり、驚かせないように普通の声の大きさで喋り続け、目をそらさず……)
公人は
「驚かすつもりがないなら、もう少しドアらしくしてほしいんだけどな」
「あたしは生まれてこのかたずっとドアだけど、
「この世界のドアじゃないのか」
「そう、君を迎えに来た。いわゆる異世界のドアだからね」
聞き捨てならないことを言う。ドアはしゃべってるあいだ少しばかりくねくね揺れていたが、だんだん慣れてきた。
「迎えに来たって?」
「そう、君を」
公人とドアが問答する横を、若干訝しげな顔をしながらランナーが走り抜けていく。二十一世紀であるから、ドアと少年がしゃべっているくらいのことでは誰も驚かないのである。なお特に言及はしなかったが、そもそも車もびゅんびゅん通り過ぎていた。都会は冷たい。
「本当なら、あくまでも『自分の意志』で通ってもらうとこなんだけど……」と、ドアはそう言いながらピョンピョンと二回軽く飛び退いた。
「今、ちょーっと急ぎだから」
ドアがバク宙した。後方宙返りのことである。ためを作って大きくのけぞるように飛び上がり、空中で女の子になって着地した。
そして少女(としか言いようがない見た目である)は、なんの説明もなくそのままつかつかと公人に歩み寄ると、赤ん坊を抱くように両脇に手を滑り込ませ、なんの躊躇もなくひょいと真上に放りあげた。
なすがまま空中に投げ出された公人は(こういうとき、人間の体は動かない。そのくせ、まわりがゆっくり見える)という実感をかみしめながら、空から地上にぼんやり目を向けた。少女が公人のバッグを拾いあげ、くるりと回転して再びドアの姿になるのが見えた。
ドアは扉を開きながら仰向けに倒れ込んだ。扉の向こうは薄暗く、なにがあるのか見通せなかったが、少なくとも実際あるはずのコンクリートの地面ではなかった。
公人はそのままドアの中に落ちていく。
少年を飲み込んだ緑のドアは扉を閉じると間をおかずに無反動で起きあがった。ちょうど相対したビルの隙間の暗がりを見つめるかのように直立し、輪郭線をなぞるような光とともに消滅した。
この不可思議なできごとは、特にだれも見ていなかった。それぞれスマホに目を落とした二人の若者がすれ違った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます