第34幕 Nazuna

 無機質な着信音が響いた。

 綴は呻きながら身体を起こし、目頭を指先で拭った。

 ぱりぱりと、結晶化した涙の痕が原稿の上に散る。

 やってしまった。

 湿って文字が滲み、ごわごわとした質感になった原稿用紙を眺め、綴は苦笑した。

 こういうことがあるから、本来ならあえてアナログな媒体に書き起こす必要は無いのだろうが、紙に書くというのは自分にとってある種の儀式だ。こればかりは譲れない。

 流石に泣きすぎた。脳が締め付けられる感覚がする。もう慣れたはずのこの鈍痛が、今日は一段と酷い。

 スマートフォンを見下ろすと、通知欄には着信が2件並んでいる。しかし、それを見なかったことにして、机の上にある鍵付きの小物入れに放り込んだ。一つの物語を完結させたばかりの今、人と話せるほどの精神的な余裕は無い。

 執筆用の作業机の脇に広げた手紙。あの人の存在を証明してくれる、たった一つの遺品だった。

 煩雑を極める手続きが終わり、ようやく黒田の家へ立ち入る許可が降りて手に入れた品だ。恩師である東海林の協力が無ければ、あの店舗住宅の中も、彼の実家だった屋敷も、取り壊される前に遺品整理をすることさえできなかったかもしれない。

 そもそも、あの時葛原という記者が、屋敷の場所を突き止めて、助けを寄越してくれなければ、綴は衰弱し、命を失っていたかもしれないのだ。

 その時のことは、意識が朦朧としていてはっきりとは思い出せないが、目が覚めた時には既に救急車の中だった。

 後から聞いた話では、警察による包囲網が敷かれ、外は大騒ぎになっていたらしい。プライバシーの観点から、綴の情報は一切伏せられたまま、救助が行われたのだという。自分のために手を尽くしてくれた葛原には、頭が上がらない。

 黒田が残したものは二つあった。一つは財産や不動産、経営していた法人についてと言った、法的な手続きのための遺言書だ。

 もう一つが、綴に宛てたこの手紙だった。

 綴は厚い羊皮紙を撫でた。

 筆圧の濃い、骨組みのしっかりとした尊大な字が、エンボス加工のように筆跡を刻んでいる。こういうところも、彼の存在はハインリヒ・ムオトを彷彿とさせた。

 手紙には、赤裸々な彼の想いが綴られていた。口頭で話しきれなかった、幼い日々のこと。家を出てからの、惨めな日々のこと。過去の人生で起きた、悲しみの全てを。誰にどんな言葉を浴びせられたか。どれほど彼が傷つき苦しんだのか。

 そして、黒田は綴との間に重ねた日々の数々を、一時たりとも忘れていなかった。酔っ払って話したことや、仕事中の些細な会話や言葉さえ、彼は一つ残らず大切に思い出の中に仕舞っており、その時の感動を、彼の詩的な感性で描き出した。

 遺書の最後には、詩が添えられていた。

 美しい詩だった。美しく、激しく、繊細で、孤独な、どこまでも哀しい詩だった。

 詩といえば、ずいぶん後になって気が付いたことがある。それは、彼が経営していた店の名前のことだ。

 Florist November。

『思いつかなかったから誕生月にした』などということが、言葉遊び好きな、詩人である彼にあるわけがなかった。

 黒田の遺品を整理するために、あの花屋の入り口を見上げた時、鳥肌がたった。そしてそのまま地面に崩れ落ちて、声を上げて泣いた。涙が止まらなかった。

 ずっと気が付かなかった。

 『November』。それは、黒田がよく読んでいたヘッセの詩の一つだった。

 ”ものがみなおおわれ、色あせようとする。

 霧の日々が不安と心配を孵えす。

 嵐の吹きすさんだ夜が明けると、氷の音がする。

 別れが泣き、世界は死に満ちている。

 おまえも死ぬことと身を任せることを学べ。

 死ねるということは、神聖な知恵だ。

 死の用意をせよ──そうすれば、死に引き立てられながらも、より高い生へはいって行けるだろう!”

 その意味を知った今はどうだろう。店の一番目立つ場所に、この詩が掲げられていたことを知った今は。

 偶然ではあるまい。何せ件の詩集には、エーデルワイスが描かれた栞がわざわざ挟まっていたのだから。

 彼はいつも、どこか人を試すようなことをする。そしてその答えにたどり着くと、大抵嬉しそうに、待っていたという顔で答え合わせをしてくれるのだ。

 川端康成は言った。

 ”別れる男には花の名前を一つ教えておきなさい。花は毎年咲きます”と。

 それを知った時は、なんて甘美な呪いだろうと思ったけれど。

 嗚呼。

 それならば、彼は僕に、一体幾つ呪いをかけたのだろう。

 どの季節が巡っても、どんな場所へ行っても、あの人が教えてくれた花が咲き乱れている。花の名前、色、感触、味、匂い。その全てが黒田との思い出に結びついて、鮮烈な記憶となって五感を駆け巡る。

 嵐のように彼への恋しさが溢れて、狂おしいほど、愛おしくて。

 それは、なんて残酷な愛だっただろう。

 彼が編み上げた、美しい罠に堕ちた。死ぬまで抜けぬ楔が、この胸を穿っていた。

 それでも、貴方に出会ったことを後悔してはいない。もし、あのときに未来が分かっていたとしても、僕は貴方の背を追っただろう。そうでなければ、きっと僕は眠ったまま、創ることも、美しいものに心を揺さぶられることも、誰かを想うことも知ることができなかったのだから。

 花のような人だった。優美な顔に、甘美な匂いに、毒と刺を隠し持っていた。その土の下には、深い深い悲しみの根が張っていて。その花が地に打ち捨てられ、枯れ果てて、初めてその姿を知った。

 馬鹿だな。こんなに回りくどいことをするなんて。

 それでも、そんな彼がどうしようもなく愛おしかった。彼と話をしたかった。彼の声が、言葉が、眼差しが、微笑が、どうしようもなく恋しかった。

 全部、貴方がくれたのに。どうして貴方はここにいないんだ。

 幸運にも、綴は小説家という職業に就くことができた。編集者という仲間がいて、自分の物語に目を輝かせてくれる読者がいる。

 随分たくさんの人と出逢い、話をした。

 それなのに、何かが足りない。

「僕は…あなたと生きたかった。一緒に生きてみたかった」

 そう呟き、綴は手の中の羊皮紙を優しく擦った。

 あの時、僕の物語をこの先も一番最初に読んでくれと頼んだら、貴方を引き留められたんだろうか。

 いつも、本当の感情は遅れてやってくる。

 カフカを失ったマックスブロートも、こんな気持ちだったんだろう。彼の詩は、僕の矮小な物語よりよほど豊潤で、激しくて、繊細で、どんな言葉を尽くしても表せないほど美しかった。何度読んでも涙が溢れるほど美しかった。僕の物語を読んでくれる人に、彼の詩を読んでほしかった。僕は彼から何もかもを教わったんだと。僕のものより遥かに美しいものが存在するのだと。彼は本物の、言葉の魔術師だった。

 あの日から五年が経った。

 黒田が引き起こした事件の後、この数年でたくさんの人が死んだ。

 黒田の計画で集団自殺した人々は、名前と写真だけでなく、自殺した背景となる生い立ちまでもがマスメディアに暴かれた。スキャンダラスな現象に対する不躾な好奇心に、同情と正義感を交えたつもりだったんだろう。

 しかし、結果としてそれは共鳴した人間をさらに自殺へと追い込んだ。所謂ウェルテル効果だ。彼が演出した死は、それほどまでに美しく魅力的だった。

 最終的にここ数年で、自殺による死は三万件を超える状態が続いている。五年前、二万人程度まで減っていた総数が突如爆発的に増えたのは、少なからず彼の影響があるのだろう。特に精神疾患を患う人の自殺は、一年あたりで7000件を超えたと言うのだから異常としか言いようがない。この事件が起きるまでは6000件程だったのだから、黒田の影響の凄まじさを物語るには十分すぎる数字だ。

 報道上の自殺対策用ガイドラインも存在はするが、この過剰な情報社会においては、その程度の紳士協定で人の口に戸を立てることなどできはしなかった。

 恐らくは、この後追い型の自殺が起きることも、彼の思惑通りだったのではないかと思う。注目を浴びたい人間の浅ましい欲求や、抑えきれない野次馬的な好奇心を刺激し、彼の起こした事件に多くの人間を触れさせる。花粉が蜜蜂や蝶によって媒介されるように、彼の思想は人の口によってばら撒かれ、現代社会で窒息しかけていた哀れな人たちを、死へと誘ったのだ。

 特に悲惨だったのは、黒田を慕っていた人が、彼の後を追ってしまったことだろう。

 まだ花屋で働きたての頃、黒田のためにシロツメクサの花冠を作ってきてくれた、桂月という名の少女。彼女が自殺未遂により半身不随になったと聞いたときは、呆然として食事が喉を通らなかった。彼女は梅の花を手にしたまま、自宅のクローゼットの中で踠き苦しんでいたのだと言う。

 幸い命だけは助かったが、植物状態に近い彼女の姿があまりに悲惨で、直視することができなかった。

『可哀想にね。ご覧、綴。いっそ死んだほうが幸せだったかもしれないだろう』

 そう黒田が、自分の耳元で囁いた気がした。

 桂月は遺書を書き残していた。その年、受験に合格したことを黒田に伝えたかったのだと言う。そしてもう一度、あの花屋で働きたいと申し出るつもりだったのだと。

 どうしていつも、無垢な人ばかり大切なものを奪われるのだろう。

 憤りと悔しさで震えた。それでも綴は、誰を責めればいいのか分からなかった。

『自殺』という言葉には、それほどまでに強い力がある。宛ら遅効性の毒のように、黒田の遺志が社会を巣食った。

 そうした事情もあって、社会全体が若者の自殺を止めようと躍起になっていた。「命を大事に」「一人で抱え込まないで」「貴方を失ったら悲しむ人がいます」。そんな言葉と専用フリーダイヤルが書かれたポスターが、町中に溢れかえっていた。

 幾度か、自分にも自殺という問題に関連する取材や、記事の執筆依頼などが舞い込んできたこともある。その度に東海林と葛原が割って入り、不必要な禍に巻き込まれないようにと取り計らってくれたのだった。

 彼らの支援もあり、今も綴は物語を書くことで生計を立てることができている。

 本名で物書きをやっているからか、随分と色々な人から手紙が来た。謝罪文だったり、サインが欲しいという話だったり、『自分は綴が将来素晴らしい作家になると予言していた』という旨の話─

 そういう取るに足らない紙切れの中に混じって、母親からの手紙が来ることがある。

 自分の身の回りについて、当たり障りのない近況と、最後にはいつも『不甲斐ない母親を許してほしい』と添えて。

 一度だけ、返事を書いた。だが、自分があの家に帰ることはもう無いだろう。とうの昔に、道は違えた。

 自分の心をかき乱すものにも、敬愛と賛辞を包み込んだ、愛すべき言葉たちが背を支えてくれるから、立ち向かえる。

 それでも、黒田の手紙ほど重たく、大切なものは他に無い。

『君は本当によく泣くね』

 この手紙を読み終わる時、そう言って黒田が部屋に入ってくるのでは無いかと、潰えたはずの可能性がどうしてもこの頭を去ってくれない。

 羊皮紙を手にしたまま綴は膝を立て、流れてくる涙を飲みこんだ。

 突如、インターホンが鳴る。

 連動するように、物入に放り込んでいたスマートフォンが、着信を知らせた。慌てて端末を引っ張り出す。

「はい、深谷です」

 ずず、と鼻を啜ったまま、綴は応えた。

「ああ、やっと繋がった。実は、もうご自宅の前まで来ているんですけど、お邪魔しても?」

 電話越しに、凛と澄んだ女性の声音が鼓膜に響く。

 綴は目を擦り、玄関へ急ぐ。戸を開けると、通話相手の女性が立っていた。綴の担当編集である、賀茂川かもがわひなだった。

「失礼します。急な訪問ですみません」

 雛の声は、声量があるわけでは無いのによく通る。目が覚めるようだ。

「どうしてまた。原稿はお送りしたんですが」

「生存確認ですよ。締切間際の作家って、みんな無茶をするでしょう。先生の場合は、書く話の内容によって情緒不安定になったりするじゃないですか。あと、この間の分の校正も上がってきてるので、少しそのお話を─」

 雛が言葉を切り、じっと綴の顔を眺める。

「深谷先生?」

「え?ああ、すみません。とりあえず、中へどうぞ」

 まだ視界には涙が滲んでいる。震えたままの声で、綴は平静を装った。

 ふう、と雛が息を吐き、呆れたように笑った。

「瞼、腫れてますよ」

「すみません、見苦しいところを見せて」

「本当に、情緒不安定な人ですね。心配になります」

「はは……せっかく来てくれたんだし、紅茶でも淹れましょうか」

「それなら私が」

「今は君がお客さんですから」

 もてなす役を買って出ようとする彼女の申し出を退け、綴はキッチンへ入っていった。

「ダージリンでいいですか?」

「ええ、構いません」

 湯を沸かし、ガラスのポットで茶葉を煮出す。ゆらゆらと紅い色素が揺れ、黒い葉が舞う。

 ああ、そういえば、彼が出会ったときに最初に淹れてくれた紅茶もダージリンだったな。

 湯気を吸い込み、涙を堪える。

 ボーンチャイナの茶器にマドレーヌを添えて、紅茶と共にダイニングテーブルに並べた。

「やっぱり、今日ここへ来てよかった。一段とひ弱そうに見えますよ、先生。何か、悲しいことでも?」

 紅茶を口にするなり、雛はそう言って笑った。

「……いえ、わざわざ聞かせるようなことでは」

「先生の精神状態を見るのも、編集者である私の仕事なんですよ。本当に、貴方には心配事が多いから」

 雛が大きく息を吐いた。

「先生、大事な話があるんです」

「うん?」

 湯気の向こう側から、黒目がちな眼がじっとこちらを見つめている。

「深谷先生、私はね。貴方と貴方の物語が好きなんです」

「そんなに改まって言われると面映ゆいんですが……」

「言わせてくださいよ。編集者としてではなく、一人の人として。覚えてますか、初めて先生の担当になったとき、いきなり私の下の名前を呼んで褒めてくれたこと。素敵な名前だって。生命力を感じる、暖かい名前だって言ってくれて。お互い、名前が小難しい漢字一文字じゃないですか。その小さな共通点さえ嬉しくなるほどには、貴方のことが好きなんです」

 その時のことを思い出そうとしているのか、雛の目が伏し目がちに閉じられる。

「出逢う前に、上司から聞いていた印象とは随分違っていたから驚きました。どんな気難しい人かと思ったら、タンポポの綿毛みたいな人だったから。少し息を吹きかけただけでどこかに消えていきそうで。でも、そんな貴方が書く物語は、いつだって重苦しくて悲しいのに、放心するほど美しかった。─小説と作家を同一視はしてはいけないとわかってます。小説家だって人間だし、知れば嫌な部分だって見えるから。けれど、何度も惚れ直しました」

 雛がマドレーヌを割り、その片方を口にする。

「仕事の邪魔になるのは絶対に嫌だと思っていたから、こんなこと言うつもりじゃなかったんです。だけど、今の貴方を見ていたら、耐えられなくて」

「あの、もしかして、僕は口説かれてるんですか?」

 綴はカップを持ち上げたまま、動きを止めた。

 ようやく自分の置かれた状況が呑み込めてきた。

 こういう時、あの人なら気障な、けれど粋な返答をするのかなと思う。それに比べると、相変わらず自分は会話が下手だ。物語を書いているくせに、まともな台詞一つ思い浮かばない。

 綴が何を言うべきか頭を巡らせていると、雛が再び口を開いた。

「そうです。貴方を愛してます。深谷先生。でも、付き合ってくれなんて言いません」

 友人以上、恋人未満でもいい。そんな言葉が続くのかと思った。

「結婚してください」

「はぁ?」

 自分でも驚くほど素っ頓狂な声が出る。綴は思わず落としそうになったカップの持ち手に、力を込めた。

「だって必要でしょう、介護」

「介護って……酷いな」

「ついこの間、この家で倒れていたの、忘れてませんからね。私が伺わなかったらどうなっていたか」

 数週間前の話だ。雛の言う通り、綴はこの自宅で突如失神したのだった。幸いどこにも怪我はなく、病気でも無かった。原因は低血圧と低血糖だったようだ。脳に関係した病気ではなかったことがありがたい。

 確かに、彼女が自宅に訪ねてくれなかったら、適切な治療を受けることもできずにいただろう。

「一年前だって、刺されたばっかりじゃないですか。ただでさえ虚弱なのに……放っておいたら死にそうなんですよ、深谷先生は」

 こうも根拠となる事実を並べられては、反論の余地が無い。

 紅茶を口にする。

 どうしたものかと、綴は目を泳がせた。

 ふと、雛の目が怯えるようだったことに気がついた。

 雛は分かっているのだ。好意を口にすることで、仕事上の信頼関係が壊れるかもしれない。ただの戦友には戻れないかもしれない。担当を外されるかもしれない。それらのリスクを全て承知し、覚悟の上で、好意を伝えることを選んだ。

 息を深く吸い込む。

「……少し前だったら、僕は断ることができずに、貴女が喜ぶように言葉を選んで返事をしたと思う。けれど、僕は貴女も知っての通り人と関わることは苦手だ。愛と生活は全く別のことだ。僕は、愛することと共に生活することの意味を履き違えて、破滅していった人たちをたくさん見過ぎている。僕自身が、誰かと生活を共にすることはとても考えられない。君が目指す場所と僕が目指す場所は、きっと対極にあると思うんです」

「試してみなくちゃ、分からないじゃないですか」

「三回」

「え?」

「三回までです。人を手放しに信頼できるのは。”学習”ってあるでしょう」

「ええ、知ってます。多分、深谷先生が過去にあまりに人の薄汚れた部分を見すぎていて、失望し、愛想を尽かしているってことも。だから、今更他人を信じる気になれないってことですよね」

「いや、まあ、そこまで辛辣な言い方をするつもりはないけれど……」

「人を信じられない。そんな悲しいことってないじゃないですか。先生、ご自分が今、どんな表情をしてるか気がついてますか?」

 そう言われ、思わず自分の顔の輪郭に触れた。濡れている。

「放っておけるわけがないじゃないですか。こんなに泣いてるのに。目の前にこんなに苦しんでいる人がいるのに、それを素通りするなんて……私にはできません」

 熱いものが頬を伝う。

 嗚呼、彼女のような人がたくさん居てくれたなら、東海林も、煌も、大庭も、あの人だって。

「わかってるんだ。僕が思っているほど、悪いことばかりじゃないって」

 唇が震える。

 雛が身を乗り出し、綴の手を掴んだ。

「辛いなら、私に頼ってくれていい。私に甘えてくれたっていい。私は、誰より貴方と貴方の作品を愛しているんです。貴方の悲しみだって、全部一緒に背負いたいんです。貴方には、誰かに労わられることが必要なんですよ。私が、貴方の帰る場所になります」

「どうして、僕なんかにそんな……」

「貴方は、きっとそうやって一人どこかに消えて行ってしまう。愛したものを慈しみ、守りたいと思うのは自然な感情でしょう。貴方と貴方の物語を守らせてほしいんです」

 綴は、握られた自分の手を見た。華奢でありながらも、ふっくらとした雛の掌の中では、余計に頼りなく、貧相に見える。

「……それは、あまりに不健全な関係では。守るだなんて、子供じゃあるまいし」

「いいんですよ。ただ、誰よりも側で、先生を支えたいと思うだけです。……必ず、貴方を幸せにしてみせます。だから、私に一度だけチャンスをくれませんか」

 揺るぎない意志が宿った目だった。

「幸せ─か。雛、貴女にとっての幸せって、何ですか?」

 綴はそう問いかけた。

 雛は口を噤んだ。

「一言で表すのは難しいです。きちんと考えたことがなかったから。でも、強いて言うなら、誰かを愛せることでしょうか」

「その相手に愛されなくても?」

「……意地悪ですね、先生」

「すみません。意趣返しをするつもりじゃなかったんです。でも、一方的な愛は、必ずどこかで破綻すると僕は思う。それは犠牲に近いから。僕は貴女の想いに応えられないでしょう。でも、僕は貴女のことが嫌いだからこんなことを言っているんじゃないんです。貴女を人として信じている。だから、断らせてください」

 綴の掌を包む力が緩む。雛は気まずそうに眼を逸らした。

「ごめんなさい。少し強引に迫れば、承諾してもらえるかと思っていたところもあったんです。先生が、断るのが苦手なことを知っていたから」

「はは、それはよく言われます」

 誰かの機嫌を取るために、自分の感情を押し殺して言葉を選ぶ。それが、過去のことになりつつある。こんなことさえ、あの花屋で教わった。

 まだ手を付けていなかったマドレーヌを口にする。仄かなブランデーの香りと上品な甘さが調和した一品だ。紅茶によく合う。

「でも、心のどこかでは分かってました。私は誰より貴方のことが好きなつもりだけれど、先生に同じように私を好きになってもらうのはきっと難しいんだろうなって」

 肩を落とし、それでも笑いながら雛は呟いた。

「一つだけ、教えてください」

 探るように、雛の顔が少しだけ上目遣いになる。

「先生は、一体誰を追いかけてるんですか?」

 息が詰まった。

 一瞬、呼吸の仕方を忘れ、身体から意識が浮遊する。

「追いかけているって……?」

「先生の作品には必ずと言っていいほど、特徴の似た人物が出てくる。”天才肌で、厭世的で、傲慢な、破滅願望のある美しい青年”。どの物語でも、主人公を目覚まし、導くような役回りです。最初は先生の自己投影なのかと思ったけれど、それにしては違和感があって。モチーフとして何度も取り上げるのは、それだけ執着があるからでしょう。誰か、モデルがいるのではないかと」

 綴は辛うじて、息を吐き出した。

「……ばれてたんだ」

「ファンの間では結構有名な話ですよ。先生の作品は、男性同士の深い友情を描いた作品が多いでしょう。そのせいで先生のことを女性作家だと思っている人もいるくらいですから」

 名前も中性的ですからね。

 雛はそう付け加えた。

 綴は紅茶を飲み干したカップを、ソーサーに置いた。

 別に無意識というわけではない。ずっと、心のどこかで、魂の片割れとして彼を追い求めていた。いや、追い求めているというのは正確ではないのかもしれない。花を見るとき、ガラスペンを握るとき、物語について考えるとき─どこへ行っても、彼の微笑を背後で感じるようになっていた。この世にいないはずの彼の眼差しが、僕を空想の中へと誘うのだ。

「答えを言うよ。貴女の言う通り、僕の書く青年にはモデルがいる。友人だったんです」

「ご友人は、今どこに?」

 雛は少し躊躇いながら、そう尋ねた。

「月に帰ってしまったんです」

 綴はそう言って笑った。

 雛が目を瞬かせる。

「……ならそのご友人は、K君と呼びましょうか」

 綴は静かに首肯した。

 テーブルに、ぱたぱたと雫が落ちる。

 止まらなかった。情けないと分かっていても、嗚咽が漏れる。

 そっと、雛がハンカチを差し出した。

 しかし、それすらあの人と出会った日のことを思い出す。泣く僕に、ただそっとハンカチを差し出して、微笑んでくれたあの日を。

「すみません、本当に」

「いいですよ。だって、先生の情緒が安定してたことなんて無いじゃないですか。たまに電話口で泣いてるし。そういうところも、好きだったんですけど」

「本当に、ごめん……ごめんなさい」

 綴は顔を覆った。

 あの人の声が聴きたい。あの人の話を聴きたい。嗚呼どうして、どうして、生きていてくれなかったんだ。貴方が生きてさえいてくれれば、どんなに離れても手紙を出すことくらいはできたのに。

 分かっている。彼はもうどうしようもないほど壊れていて、どんな美しいものも、もはや彼の傷を癒してはくれないのだ。

 叶うなら、せめて、貴方の亡骸を見送らせてほしかった。貴方が愛したたくさんの物語と、花と、僕の想いを棺に入れて、別れを告げることくらい、許されたかった。

 貴方の死を、僕は受け入れられない。頭でどれほど理解していても、その悲しみは底無しだ。少しでも踠くことを止めれば、引き摺り込まれる。

 優しい死神が、彼の姿で囁くのだ。『もう十分だよ』。『こっちへおいで』と。

 それでも、戦う。闘い続ける。この地獄で、貴方だけのために、言葉を綴る。

 何度だって言う。

 黒田さん、貴方を愛していました。ただただ、貴方を愛していました。貴方の代わりなど、どこにもいない。最後の拠り所は、あの手紙とガラスペンだけだ。

「ああそうだ、部屋にインクとペンを放置したままにしていて。少し部屋に行くから待っていてください」

 立ち上がった瞬間、綴はよろめいた。咄嗟に雛がテーブルの反対側から飛んでくる。そして綴の腕を支え、椅子に押し戻した。

「また迷走神経反射じゃないですか。本当に心配です」

「大丈夫ですよ」

「大丈夫じゃないですって。頭でも打ったらどうするんですか。ほら、作業部屋に用があるんでしょう?ついていきますから」

 雛の手を借り、綴は再び立ち上がった。

 綴の執筆用の部屋の前に立つ。扉を開け、雛は目を見開いた。

 夥しい数の花が花瓶に活けられ、部屋の中を埋め尽くしていた。だが、雛の目を奪ったのはそれではない。

 壁一面に、文章が書かれた紙が貼りつけられていた。遠目には、その内容まで読み取ることができなかったが、物語を書くためのメモの類に見える。

 いつの間にか、片付けを済ませた綴が雛の目の前に立っていた。

「駄目だよ。君はこれ以上入ってはいけない」

「……先生?」

 綴が微笑する。その顔が、雛にはなぜか別人のように見えた。

「……それにしても、先生の家って花がたくさんありますね。花屋に来たみたい」

 部屋の光景から意識を逸らすように、雛はそう言った。

「先生は花の種類やその歴史についても詳しいですし、物語の中にもよく花を使いますからね。私としても勉強になります」

「それはよかった」

 綴はそう言って笑ったが、瞳は白い睫毛の下で翳ったままだった。

 茶器がテーブルに乗ったままのリビングに戻る。この部屋にも、綴はたくさんの花を活け、育てていた。

「先生のお蔭で、外を歩くのが楽しくなりました。花を知ると、何気ない風景が素敵に見えるものなんですね」

 雛が、花屋のようだと称した部屋の中を見回して笑う。

 そう、世界の見え方が変わるのだ。

 どんな場所にも花は在る。その背景に、植物の神秘と物語が見えるようになる。それを、彼が教えてくれた。

「私ももっと花について勉強したいな。手始めに、この花の名前を教えてくれませんか。ずっと気になっていたんです」

 そう言って雛は、硝子の花器に活けられた青紫色の花を指差した。

「これは鳥兜です。園芸品種なので、毒性は多少ましになっていますが、触れるのはやめておいてくださいね」

 雛の目が見開かれる。

トリカブトですか?こんなに綺麗な花なんですね。想像していたよりずっと小さくて驚きました。もっと大きくて迫力のある雰囲気だと思っていたので」

『そう。この小さな花に、人をも殺す毒が宿っている。トリカブトアルカロイドはナトリウムチャネルに作用し、神経信号を阻害して人を死に至らしめるんだ。狼殺しの異名を持つ、恐ろしくも美しい花だよ。そんな花が、スミレと同じ漢字で表記されることもあるのだから面白いよね』

「深谷先生?どうしたんですか、またぼーっとして」

「ああ、いや、失礼」

 部屋に充満した花の芳香に、翻った雛の黒髪に、意識が奪われた。

 仄かに眩暈を感じて、綴は壁に手をついた。

「ところで、ご友人って、どんな人だったんですか?」

 唐突に、雛がそう尋ねた。心を見透かされたようで、動揺を悟られまいと綴は目を逸らした。

「そうだなぁ。一言で表すのはとても難しい」

 綴は赤くなった鼻に手を添え、考え込んだ。

「最初に思いつくのは、大酒飲みだったことです。ワインを水みたいに飲むんですよ。あと甘いものが大好きだったな。チョコレートを切らすと挙動不審になる程度には。蒐集家なせいか浪費癖があって、日常的に、見てるこっちがヒヤヒヤするような金の使い方をするんです。それから本当に読書好きでした。物語についての議論が好きで、常に何かを考えているらしく、一度喋り出すと3時間も4時間も喋り続けて。酒が入るともっと凄かったな。でも、それを聴くのが全然苦じゃないんです。話術で人を惹きつけるのがとてつもなく上手かったから。博識で、頭の回転も速くて、人の心を掴むのが上手かった」

 雛が呆気に取られ、そして噴き出した。

「そんな人、出逢ったら忘れられないでしょうね」

 鳥兜と同じ、青紫色の瞳に思いを馳せ、綴は頷いた。

 忘れることなんてできない。花の傍で匂いを嗅ぐ度に、必ず彼の幻影が現れるのだから。

 匂いは不思議だ。他のどんな感覚よりも鮮烈に、記憶を引き出してくれる。

「深谷先生がそれだけ言うなんて。私も会ってみたかったな」

「はは、ごめんなさい。それはできないんです」

 綴は、鳥兜の隣に飾ったナズナの花弁に触れた。それを見た雛が、ぱっと顔を輝かせた。

「ああ、これは知ってます。ぺんぺん草ですね?子供の頃、遊んだことがあります。ハート型の葉っぱが可愛くて」

「和名はナズナと言うんです。学名をCapsella bursa-pstoris、英名では『羊飼いの財布』と呼ばれています。ありふれた野草だけど、まれにこの花の亜種がブーケに使われることもあるんですよ」

「この花にも花言葉とか、あるんですか」

 綴は頷き、ナズナを活けた小瓶を持ち上げた。

「薺には『貴方にすべてを捧げる』という意味があるんです」

「へえ、ロマンチックですね」

「由来は経済的な意味なので、ちょっとニュアンスが違うんですけど。それでも、結局は気持ちの問題ですから。花には、人の想いと物語が宿る。だから、言葉にならない何かを託して、人は誰かに花を贈るんだと思います」

雛がうっとりと、目を細めた。

「本当に、素敵。……先生に花を贈られるような人になりたかったな。ああ、さっきの話は忘れてください。でも、いつか、深谷先生が選んだ花を私に贈ってくれたら嬉しいです。それがどんな気持ちを託されたものでも構わないから」

「それくらいなら、明日にでも。日々の仕事への感謝を込めて選んでおきますよ」

 雛の屈託のない笑顔につられ、綴もまた笑った。

 自分の答えは、どれほど頭の辞書を捲り、推敲したとしても、雛にとって残酷な言葉にしかならない。

 何せ、本当の意味で花を贈りたい相手は、たった一人しかいないのだから。

 愛しい水仙。

 深淵の導き手。

 悲しき詩歌い。

 哀れな天才。

 たった一人の友人。

 貴方が僕にエーデルワイスを贈るなら、僕は貴方にブルースターを贈ろう。

 貴方が僕に白薔薇を贈るなら、僕は貴方に青薔薇を贈ろう。

 貴方が僕にクリスマスローズを贈るなら、僕は貴方にヤグルマギクを贈ろう。

 貴方が僕に勿忘草ワスレナグサを贈るなら、僕は貴方にナズナを贈ろう。

 どれだけの花と言葉を束ねても、きっと僕の想いには遠く及ばない。

 これは、今は亡き君へ捧げる献花。僕が綴り君へ贈る、言葉の花束。

 どうか、どうか、僕の悲しみが貴方に届きますように。

 綴は手にしていた小瓶を掲げた。

 差し込んだ春の陽が、小瓶の中で反射している。屈折したそれが青緑色の光になって、薺を柔らかく包み込んでいた。


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魔術師の秘蜜 犬養創 @retsej00

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