第33幕 Narcissus

 凶悪事件の情報を見るたびに思う。

 罪を犯す人間の過去は、得てして劣悪だ。母親か、父親か、その両方か。血縁という呪いに魂を掻きむしられて、家族という檻の中で飼い殺されて、転がり出た檻の外でまた傷つけられて。牢獄から牢獄へと綱渡りをする。

 弁明も反論も、憎むことすら許されなかった。

 嗚呼、僕らは。

 好きなものを好きなままでいたかった。

 嫌いなものを嫌いなままでいたかった。

 愛したものを愛したままでいたかった。

 憎んだものを憎んだままでいたかった。

 嬉しいときに嬉しいと言いたかった。

 悲しいときに悲しいと言いたかった。

 笑いたいときに笑いたかった。

 泣きたいときに泣きたかった。

 ただ、それだけだった。

 たったそれだけだったのに。

 僕らは、幼子の首を締め上げました。弱々しく抵抗する、その子供の悲鳴が、自分の喉から漏れてしまわないように。

 一体僕らはどうすればよかったんだろう。

 胸の奥底で煮詰められたそれが噴きこぼれて、ある時は衝動になり、悲観になり、憎悪になり、憂鬱になり、厭世になった。そしてやがていつかは、絶望になり、暴力になり、罪になるのだろう。

 これが、僕らを蝕む病の正体だった。

 そうか。

 彼が完全無欠だったのは。なにもかも上手くできるのは。

 貴方がこれほどまでに完璧だったのは、何よりも尊い貴方の魂を、犠牲にしたからだったのですね。

 どうしてこんなに単純なことに気がつかなかったのだろう。いや、心のどこかで気がついていたのに、見ないふりをしていただけなのかもしれない。

 全部見透せるみたいに、預言者のように、魔法使いのように、僕の前に立っていた彼は。僕が歩んでいる道は、彼が一度通った道なのだ。

 彼が、誰よりも死にたがっていたのだ。

 息が苦しい。

 綴は俯き、胸を押さえた。

「君は自分を責めているんだろう。しかし、僕は君にそれを気がつかれてはならなかったんだ。たった今、このときまで隠さなければならなかった。僕はそれに成功した」

 堪えきれなかった。大粒の雫が、顔の輪郭から滴っていた。

「嬉しいよ。君がこんなに泣いてくれるなんて。やっぱり、思っていたとおりだ。きっと君なら、と思ったんだ」

 黒田の指が、涙を拭った。

「きっと、僕は君に出逢うために生きてきたんだ…全て、君に出逢うためだった。全てが奇跡だった。全部、今報われた気がするよ、綴」

 身体を引き寄せられ、腕の中に抱き竦められる。

「僕は、君の傷痕になりたいんだ」

 綴は相槌を打つことすらできず、啜り泣いた。

 何か言わねば。彼に、たった一つでも慰めを。

 それなのに、口から出たのは嗚咽だった。

 何故、僕が泣いているんだ。

 何故、彼が笑っているんだ。

 彼の背を擦ろうと差し伸べた手が、彼の体躯に縋っていた。黒田の掌が、優しく、骨張った背を撫でた。

「嗚呼……夜が明けてしまうね」

 時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえた。

「外に行こう。君に見せたい場所があるんだ。歩けるかい」

「はい」

 紺碧の空の彼方が、少しだけ明るくなり始めていた。春先の夜はまだ肌寒い。ひんやりと涙が頬を伝う。

 月明りが照らす夜空の下、黒田に着いていくと、そこには小川があった。

「子供のころ、屋敷に帰りたくない時はここにいたんだ」

 野草の絨毯の上に、黒田が腰を下ろした。綴はその隣に、同じ様に座り込んだ。

 せせらぎが澄んだ音を奏でている。水面に、瞬く星が映っていた。土手には水仙が咲き、夜風がその芳香をあたり一面に漂わせていた。

 幻想的だ。

 顔を空へ向けると、砕かれた水晶のような星々が冷たく瞬いている。

 ”また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにみんなの幸のためなら僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。”

『銀河鉄道の夜』の一節が思い浮かぶ。カムパネルラが死んだのは川の中だったな。そう思ったが、綴はそれを口にしなかった。

 ざあ、と優しい風の音がした。

「君に言わなくちゃいけないことがある」

 囁くように、黒田が口を開いた。

「君の同級生に、東百合という女性がいたね。彼女は、僕が壊してしまった」

 どく、と鼓動が早まる。

「……彼女に罪はなかったと思います」

 辛うじて、綴はそう答えた。

「いや、罪ならあったとも。無知という罪が。彼女は、僕がどれくらい君のことを想っているかも知らずに、僕から君を引き剥がそうとしたんだから」

「……それでも、彼女の人生を奪う必要は無かったと思います。そんなことをしなくたって、僕は彼女とあれ以上深い関係を築くことはなかったでしょう」

 白く細い頤が上がる。

「怖かったんだ」

 黒田の口に似合わない台詞だった。綴は、隣にある黒田の横顔を見つめた。

「怖かったんだ、綴。君が奪われるはずないと、わかっているのに。耐えられなかった。僕には君しかいないから」

 なんて冷徹な人間なんだと、綴は自分を恥じた。

 わかっている。わかっている。

 何の関係も、罪もない彼女が、死ぬより酷い目に合っていたという事実。

 それ以上に、彼のことを哀れだと思ってしまった。

 自分が不幸だからといって、何をしてもいいとは思わない。絶対に思わないけれど。

 そうさせるだけの悲しみが、彼の中に根を張っているのだと知ってしまった。

 どれほど謝罪の言葉を重ねようと意味がない。

 僕は今、貴女のためではなく、貴女を貶めた友人のために涙を流している。

「怒らないんだね。流石に君も、怒るかと思っていたんだけれど」

「あんな話の後で、貴方をどう責めたらいいんですか。程度は違えど、僕だって似たようなものです。どんな人とも、こころが通った気がしない。懸命に人間のふりをして笑うので精一杯だった。本当に辛かったときのことを、受け止めてくれる誰かが存在しないことに苦しんでいたのは、僕だって同じです」

 僕はその暗い衝動を知っている。突然何もかも壊して回りたくなるような、人の身体を八つ裂きにしたくなるような、その瞬間を。

「彼女は優しかったけれど、最後の最後で、僕は彼女を信じられなかったんです。抱え込んだこの厭世を、本当の意味で理解し是認してはくれないだろうと」

「……そっか。それは、とてもうれしいな」

 黒田が、綴の薄い肩に頭を乗せた。

「君だけだよ。こんな風に僕を理解してくれるのは。誰も、僕がどんな時間を生きて、何を愛して、何を憎んでいるのか知らないんだ。誰にも魂を認識されないのは、死んでいるのと同じだ」

 濡れそぼった綴の輪郭に頬を寄せ、黒田は囁いた。

「きっと君なら、僕の棺に、たくさん本を詰めてくれるんだろう。君だけなんだ。僕がどんな作家が好きで、どんな物語が好きで、どんな風に思っていたかを、僕のこころを本当に理解してくれたのは。まだ信じられないよ。君が僕を置いていかなかったことが」

「当たり前じゃないですか」

 未だ涙は止まらず、塩辛いそれが口の中に幾度も入り込んだ。

「こんなに泣いて。頭が痛いだろう」

 黒田の指先が、白髪を梳く。暗闇の中でも、艶々とそれは煌めいた。

「綴。君が僕の花屋にやってきた日のことを覚えているかい。ちょうど一年になるね」

 綴の髪から手を放し、黒田はそう尋ねた。

 黒田の顔を見つめ、綴は頷いた。

「君が死ねなかった理由が、分かったんだ」

 綴は腫れて重い瞼を見開いた。

「脳はいくつかの化学物質のバランスにより影響を受け、相互作用することはご存知だね。調べた結果、君の脳の化学物質のバランスが、著しく崩れていることが分かった」

 綴は鼻を啜り、顔をゆっくりと上げた。

「精神病の多くは、セロトニンの欠乏が影響するというのが昨今の見解だが、セロトニンは過剰でも、身体に良くない影響を及ぼす。先天性か後天性かはわからないが、君は、普通の人より遥かにセロトニンの受容体も少ないんだろう。総分泌量も少ない。僕は君の望んだ眠るような死を実現するために、脳に作用するものを選んだ。しかし、君の脳は、常人のそれとはもはや違う。自らに苦痛を与え続けることで、精神の均衡を保ってきた。そこに、神経に作用する毒が入り込んだんだ。君の身体は、それに過剰な適応をした。結果として、アナフィラキシーに近い症状を起こすに至った」

 綴は、あの時搔きむしった喉に手をやった。

 そうか。もう一年が経とうとしているのか。

 あの日見上げていた青紫の瞳が、すぐ傍にあった。

「君はその豊かな想像力を、残らず自分を傷つけるために振り向けてしまう。精神的な自傷の一種と言ってもいい。日々の苦痛を和らげるため、苦痛を常とすることで、痛みに耐えていたんだ。二十年間、ずっとね。抑圧ストレスは人の身体を作り変えてしまう。今なら思い当たるだろう。あの時の君は、自律神経も、痛覚も、五感も、内臓も、身体のすべての調律が狂っていた。正常な人と同じように薬が作用するはずがなかったんだ」

「……仰る通りです。今思えば、あの時の僕は、胃腸の調子がずっとおかしくて、食べ物の味がほとんどしなかった。ずっと頭がぼんやりしていて、黒田さんと会う前の日々を思い出そうとしても、ほとんど記憶が無いんです」

 綴は放心したまま、黒田の顔を見つめた。

「これが、君の身に起きた事の正体だ。あの日、君のその悲観主義ペシミズムが、皮肉にも君を生きながらえさせたんだよ」

「そんなことが、あるんですか」

「人間の身体は、まだ解明されていないことがたくさんある。特に脳はね。トランス状態だとか、過集中だとか、そういう状態は神経毒を使った時と同じような反応を示す場合があるんだ。まあ、僕はその辺りのイレギュラーも確率に組み込んだ訳だが……君の背負った傷の深さは、僕の想定を遥かに超えていたらしい」

 黒田の掌が、再び綴の頭を愛撫した。

「耐え難い人生だったろう。他の誰が君の悲しさを否定しようと、僕だけは、君を理解しているよ」

 黒田の言葉遮って、慟哭が喉を突き破った。

 あれほど流したはずの涙が、再び目の裡から溢れた。

 背を強く引き寄せられ、二人の身体が草むらに倒れこんだ。

 視界が歪み、すぐ近くにある黒田の顔すらはっきりと見えない。

 顔を覆った綴の腕を、黒田が掴み避けた。

「君の涙が夜空に流れたら、天の川さえ霞むだろうね」

 黒田の指先が目尻を拭う。

 嗚咽が抑えられない。

 悲鳴のような、か細い鳴き声が鳴る。

 どれほどの時間そうしていただろう。数分だったのかもしれないし、数時間だったのかもしれない。

「泣き疲れただろう。いいよ、眠って」

 子供をあやすように、黒田の掌が背を優しく叩いた。いつの間にか、綴は意識を手放した。耳には、せせらぎと黒田の声が響いていた。


 草の匂いに目を覚ました。

 オオイヌノフグリが視界一面に咲いていた。カタバミもその葉を一杯に広げ、麗らかな陽光を浴びている。

「おはよう」

 深淵から響くような声が、頭の上から降ってきた。

「おはよう、ございます」

 昨晩のことが、現実に起きたことなのか、綴は信じることができなかった。腫れぼったい瞼だけが、あの時間を証明してくれていた。

「行こうか。立てるかい」

 黒田に差し出された手を掴み、立ち上がった。

 花畑は、見事な満開だった。

 鮮烈すぎるその色彩の中、黒田は花畑の中へと進んでいく。

 一体、これからどうすればいい。

 ふと、黒田が進む方向が、屋敷の方角ではないことに気がつく。

「あの、帰らないんですか」

 屋敷に帰るのだと思っていた綴は、その場に立ち尽くした。

「帰るさ。行くべきところに。何処に帰るかなんて、君が気がつかないわけがないよね」

「……何を、言ってるんですか」

 あれほど流したはずの涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちて腫れた瞼に染みる。

 痛い。目が、脳が、内臓が、胸の奥が痛い。それらの痛み全てが心の痛みとなって、全身を引き裂く。

 言葉にならない叫びが喉を突抜け、彼の足元にすがった。

 痛いほどわかっていた。これから彼が一体何をしようとしているのか。

「そんな、いやだ、いやだ」

 駄々を捏ねる子供のように、そう繰り返した。

 黒田の身体にすがりつく。自分の命乞いをするように、懇願した。

「俺はもうたくさん人を殺してる。。君ならわかるだろう。俺はどのみち死ぬしかないんだ。それが他人の手によるものか自分の手によるものかの違いしかない。聡明な君ならわかるね?」

 綴は唇を震わせ、首を振った。

 上手く空気が吸えない。

 黒田が膝をついて、繰り返し綴の背を擦った。

 嗚呼それは、僕が貴方にしてあげなくちゃいけないのに。僕が今まで貴方に何ができただろう。

 まだ、これからじゃないか。やっと、僕は何をしたかったのかがわかったんだ。全部、貴方が取り戻してくれた。今度は、今度こそ、貴方の魂の破片をかき集めてみせるから。だから。

 生きてとは、言えなかった。

「どうして…」

 か細く、綴は呟いた。

 答えなどとうに分かりきっている。

 それなのに、問わずにはいられなかった。

「簡単なことだよ、友よアミーチェ。魂が先に死んでしまったから、身体がそれを追いかけようとするだけだ」

「貴方の魂は、毒に犯されていたのではありませんか」

「いいや、ナイフでしっかり止めを刺されているよ。君が一番よく分かっているはずだ。君も僕も、もはや手遅れであることを。壊れたものは二度と元には戻らない。……きっと君は、底の抜けた甕に水を貯める方法を考えなければならないだろう。それはとてつもなく苦しく、難しく、果てしないことだ」

 黒田の服を掴んだ。全身に力が入らなかった。

「僕は、もう駄目なんだ。ずっと、胸に穴が開いている気がするんだ。この身体の内側に、何も入っていないような気がするんだ、綴。僕の喜びは、みんなどこかへ消えてしまった。ずっと好きでたまらなかった本も、お菓子も、酒も、僕の痛みを麻痺させてくれることはあっても、もはや魂を満たしてはくれないんだ」

 ただ彼の胸に縋って泣いた。

「どこかのオペラ歌手みたいなことを言わないでくださいよ」

「その通りだ。君は、僕にとって何より甘美な麻酔だった。信じてほしい。君と過ごした時間だけは、僕はちゃんと呼吸することができたんだ」

「そんなの、僕だって同じですよ…この二十年、僕は、ずっと死んでいたんです。貴方が、全部教えてくれたんだ。今なら分かるんです。貴方に会うまで、僕は、なにも見えていなかった。自分がいったい何を愛していて、何を憎んでいるのかさえ分かっていなかった。魂の宿らない、ただの抜け殻だった」

 呼吸が儘ならなくなる。

「僕は、貴方をこの世に繋ぎ止めるには足らないんですか」

「綴、君の価値はそこにあるのではない。君自身に、僕の命ごときでは辿りつけない価値があるんだ」

 言葉が見つからなかった。

 ああ、もし、貴方にも心象を綴ることが許されていたのなら、結末は違っていただろうか。

「僕は、運がよかっただけなんです。僕だって、貴方がいなかったら、貴方が導いてくれなかったら、きっと人を殺してた。僕は運がよかったんです、ただ、それだけで」

「運がよかった、か。君は、君の人生を生きても、そう言えるんだね」

 黒田が眉を下げ、笑った。

「僕は、君が時折恐ろしく思えて仕方ないよ。ねえ、綴。君は人が好きかい。この世界が好きかい」

 綴は首を振った。

「君は、君の苦しみを飲み込んで、それでも尚生きていける。君が、その弱さを抱えて生きながらえてきたことが、逆説的に君の強さを証明しているんだ。ヘッセの定義を借りるならば、君は僕よりも確かに”自殺者”だった。どこまでも気高い”荒野のおおかみ”だった。僕はとても、君のように気高く生きてはいけない」

「貴方が死ぬって言うのなら、僕だって死にますよ」

 喉が詰まる。鼻から流れ出た涙が、口に入り込んでくる。

 黒田の指が愛おしそうに、繰り返しそれを拭った。

「それは君自身の決断でなければならない。あえて聞くよ、綴。君は今、自ら命を絶ちたいと思うかい」

 綴は再び首を横に振った。

「それでも、貴方の命を、この世に繋ぎ止めることもできないなら、意味がない」

「意味はある。僕は、君に看取られたかった。綴、君でなければいけないんだ」

 青い瞳に、ぐしゃぐしゃに汚れた自分の顔が映っていた。

「貴方がいない世界で、どうやって生きていけばいいんですか」

 綴は、責めるようにそう言った。

「出会う前の君に戻るだけさ。君はずっと独りで、それでも生きてきたんだろう。なにも問題はないはずだ」

「あれは、生きていたとは言わない、ただ呼吸することは生きることと違う。それを、貴方が教えてくれたのに。そんなこと、貴方が一番よくわかってるはずだ!貴方が自分の命に価値を見出せないなら、僕のために生きてくれたっていいじゃないですか。、僕はただ─」

 ずっとこのまま、共に生きていくのだと思っていた。いつの間にか、それが当たり前だと思っていた。

「意味がないんです、黒田さん。あなたがいなくちゃ、僕には生きる意味が無い」

 黒田が心底安心したように、あどけない笑みを浮かべた。

 綴は、震える手で黒田の手首を掴んだ。

「せめて、貴方にしてもらったことへの感謝を伝える時間くらい、くれたっていいじゃないですか」

「君は、君の作品でその魂のすべてを僕に見せてくれた。厭世も、悲しみも、君自身の美しさも、僕への敬愛も。十分だ。十分すぎるよ」

「全部、全部貴方がくれたんだ。僕はまだ、何一つだって返せていない!」

 きっとこの先の人生で、貴方より深く誰かと関わることは無いんだろう。

 生まれて初めて、誰かを失いたくないと思った。こんなにも、痛々しい感情があることを知らなかった。

「…こんなの、あんまりだ」

 彼が悲しみの果てに、あらゆる種類の暴力を振るったとしても、一体どれほどの罵詈雑言を吐かれようと、彼を受け入れると決めていた。死すら覚悟した。

 どんな仕打ちにも耐えられると思っていた。

 だのに、この仕打ちは耐え難かった。

 僕が哀しめば哀しむほど、彼は嬉しそうに笑った。

 彼が嬉しそうに笑えば笑うほど、悲しくてたまらなかった。

「大丈夫だよ。"僕が行くのは死の家だ。死と眠りは兄弟だろう"?」

 宥めるように、黒田がそう言って綴の薄い肩を摩った。

 ぼろぼろと、止めどなく涙が溢れていく。

「なんで、おかしいじゃないですか」

 言葉が纏まらない。舌が縺れ、無意味な嗚咽だけが口から流れ出た。

「はは、何て言ってるかわからないよ……君がこんな風に喋るところを初めて見たな」

 声を上げて泣いた。今まで泣いたどんな時よりもみっともなく泣いた。涙と鼻水が混ざって、顔を濡らしていた。

 それでも、言えなかった。生きろとは言えなかった。

 どうすればいい。一体何を言えばいい。

 誰か、彼を助けてくれ。

「聞いて、綴」

 ああ、そうか。ただ、聞いて頷くだけでいいんだ。

 綴は顔を上げた。

 あの日と同じ、青紫の瞳。あの日と同じ、凄惨な笑みだった。

「ずっと、孤独だった。誰も、本当の意味で僕を受け入れてくれなかった」

「うん」

「満たされなかった。どれだけ安心と平穏を貪っても満たされなかった」

「うん」

「誰も、僕を真実愛してはくれなかった。僕の弱さを、僕の情けなさを、僕の幼稚さを、受け入れてくれなかった」

「うん」

「すべてを受け入れてくれる誰かが、欲しかったんだ」

 そうか。貴方はあの日、僕の目の中に失った自分の片割れに出逢ったんだ。そうでなければ、こんなにも歓喜が瞳に溢れているはずがない。

 すっ、と白い手が綴の頬に触れた。

「君は本当に、美しい人だな」

 黒く長い睫毛が、綴の瞼に触れた。

「君を愛していた」

 唇が重なった。

「愛していたよ、綴。この世でたった一人、君だけを愛していた」

 黒田の腕が、自分の身体に回る。

「ありがとう、綴。君に出逢えてよかった」

「僕も、貴方に出逢えてよかった」

 身体が離れる。

「僕は、幸せだ」

 そう告げ、黒田はこの上なく穏やかに笑った。

 白い掌から、魔法のように拳銃が現れた。

 雷鳴が鳴った。

 風が舞った。

 膝から力が抜け、綴はその場に崩れ落ちた。咽返るほど、花の匂いが立ち込めていた。

 春の匂いだ。温かくて、眠たくて、自我が曖昧になる、天国みたいな、花の匂い。

 薔薇のような、

 百合のような、

 紅梅のような、

 白檀のような、

 鈴蘭のような、

 水仙のような、

 素馨のような、

 甘い、甘い、花の香り。

 身体を引き摺り、花の中に倒れ込んだ彼の身体の上に屈んだ。

 馬鹿か、僕は。

 なんで止めなかった。何もかも、選択を間違えた。

 血で染まった黒田の体躯にすがった。

 温かい。まだ、温かい。こんなにも温かい。

 約束したじゃないですか。僕の願いは何でも聞くと、貴方が言ったんだ。こんなのって、酷いじゃないですか。最後の最後、僕が本気で願っているのに、たった一度の裏切りが、この瞬間のために用意されていたなんて。

 命が尽きる音がする。

 今さら、自分がどれだけこの人を愛していたのかを思い知った。

 走馬灯のように、思い出が駆け巡る。

 どうしたら、彼を止められたんだろう。一体どんな言葉なら彼を慰められるのか、分からなかった。

 ─ああ、こんな気持ちになるのか。

 カムパネルラに置いて行かれたジョバンニを、ハインリヒに置いていかれたクーンを、よだかに置いて行かれたかわせみを、ゴルトムントに置いて行かれたナルチスを思った。

 このまま、後を追ってしまえばいい。きっと、そうすべきだ。

 黒田の顔の上に屈み込む。唇をつけて、彼の舌に自分の舌を絡めた。まだ温かい唾液を嚥下する。

 死人にキスをすると、魂が奪われると言う。それなのに、舌先は甘く痺れるだけで。

 彼への愛しさが溢れてやまない。

 どうしようもなく愛おしい。

 分かっていた。

 壊れたものはもう二度と戻らない。彼は、とうの昔に、粉々に壊れていた。この身体は、脱け殻でしかなかったんだ。その抜け殻が崩れ落ちる前、最後の力で、僕に愛を告げてくれた。

 どうしようもないほど、理解してしまった。

「貴方を、愛していました」

 再び、春の風が吹いた。

 黒田の胸からは、もはや何の音もしなかった。

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