マティーニに酔わせて
かがみ透
マティーニに酔わせて
「でさー、俺、大学院行くことにしたんだよ」
「うわぁ、すごいですね!」
「
「はい、普通に事務系のとことか調べ始めてるところなんですけど……」
「まだ二年生なのにエライじゃん、もう就活考えてて」
「いいえ、姉の就職がなかなか決まらなくて焦ってたのを見てたから、自分の時は早めに動かないとなぁって思っただけです」
カウンターの中には、四〇代であろうちょい悪オヤジ風な外見だが気さくなマスターと、黒いエプロンをした若い青年がいる。男が二人分注文したジントニックを作ったのは彼だ。
「そういえば、バーテンダーさん、若いね」
ライムの香るジントニックを傾けながら若いバーテンダーを目で追っていた男が、声をかけた。
「二三になります」
「へー、俺と同い年か。あ、俺、一浪してるからね」
「そうでしたか。僕は大学中退ですから、大学院まで行かれるなんてすごいですね」
「中退してんの? どこの大学?」
「都内の音大です」
「え、音大行っといてバーテンダーやってるの?」
「はい」
身長が高く、人好きのする笑顔の若いバーテンダーを、二人の大学生は感心したように見つめ、好感を持った。
新宿にあるさほど広くはないバー『Something』では、ライブも入る。狭いスペースに配置されたドラムとウッドベースに中年の男たちがスタンバイし、黒エプロンを外したバーテンダーもピアノの椅子に腰掛ける。
ボーカルには、まだ学生だと紹介された若い女子が現れた。
軽快なジャズの曲で始まり、二曲目は、ボーカルとピアノにスポットライトが当てられ、澄んだ高い歌声とピアノだけのしっとりとしたバラードが演奏された。
三曲目に再び軽快な曲になると、ピアノは交代し、バーテンダーはカウンターに戻った。
「お上手でしたね!」
「ホントホント! さすが音大出身だな!」
「いえいえ、まだジャズも勉強中ですので」
日菜子の隣に、ステージを終えたボーカルだった女子が座った。
「優ちゃん、お疲れ! ジントニックもらえる? ああ、あたしのは後回しで構わないから、先にお客さんの作ってあげて」
ウェーブのかかったミディアムヘアに、ナチュラルなメイク、大人っぽく歌う姿とは打って変わり、さっぱりした性格であるように二人には映った。
二人と目が合うと、彼女はにっこりと会釈をし、つられて二人も会釈を返した。
そのうち日菜子が席を立ち、化粧室に向かうと、大学生の男は切り出した。
「えっと、桜木クンって言ったっけ? さっきそう紹介されてたよね?」
「はい、桜木優と申します」
「戻ってきて早速で悪いんだけどさ、マティーニ作ってくれる? 俺と、彼女にも」
「承知しました」
「それでさ、わかるよな?」
不可解な表情になる桜木に、男は小声で告げた。
「彼女のにはアルコール多めにしといてよ。わかるだろ? な? 同い年のよしみでさ」
口紅を塗り直した日菜子が、戻った。
「そう言えば、日菜ちゃん、マティーニってまだ飲んだことなかったでしょ?」
「はい。名前は聞いたことありますけどなんか強そうで、男の人が飲むイメージあるし」
「だよねー? カクテルの王様って言われててさ、確かレシピも多いんだよ。だよな? 桜木クン」
「そうですね。マティーニはそれだけで本が出来てしまうくらいレシピがあります。268種類はあると」
「えっ、そんなに⁉︎」
大学生の男の顔は一瞬こわばったが、すぐに笑顔を取り繕った。
「男性的と思われるカクテルかも知れませんが、女性でもお好きな方はいらっしゃいますよ」
「じゃあさ、彼女と俺にマティーニ作ってくれる?」
男が目配せをする。
桜木は、ジンとドライ・ベルモットの瓶を取り出した。
ミキシンググラスと呼ばれるガラス製のどっしりとしたグラスを二つ用意し、氷だけを入れたカクテルグラスをカウンターに二つ並べた。
「あれは、グラスを冷やす為に入れておく氷なんだぜ。それでな、マティーニってシェイカーは使わないんだ。だけど、あえて使うレシピもあってさ……」
男は自慢気に付け焼き刃の知識を語り始めた。チラッとボーカル女子が見たようだったが、男も日菜子も気が付いていない。
「マティーニになります」
桜木は、二人の前に、ピンに刺したオリーブの実を沈めた、うっすらと白く濁る透明なカクテルの入った逆三角形のグラスを置き、その隣に水の入ったグラスも置いた。
グラスを掲げて「乾杯」というと、男は彼女がグラスに口をつけるのを待った。
そうっと慎重に一口、口にした日菜子は、目を見開いた。
「美味しい……!」
「それなら良かったぜ。マティーニは作り手にもよるし、酒に慣れないうちに飲むと
「強いお酒だって聞いてたから私には無理だと思って、正直味見だけのつもりでしたけど、確かに強いけど、これなら香りが良くて美味しいから飲めますね!」
日菜子は男と桜木を交互に見ながら、瞳を煌めかせて二口目を飲んだ。
ニヤニヤとそれを見ていた男が、自分もマティーニに口を付ける。
「あ、ああ、……確かに美味いな」
男は自分の手元のグラスを覗き込み、「マティーニってこんなにキツかったっけ?」と確かめるようにもう一口含むが、なんでもない顔を装った。
桜木は隣に置いた水も合間に飲むよう勧め、日菜子は言う通りにしていた。
男は「水なんかなくても俺は大丈夫だぜ」と言わんばかりの
「カクテルの中にあるこのオリーブとかチェリーとかって、食べてもいいのかいつも迷うんですけど」
日菜子は桜木を見上げた。
「食べていいんですよ、いつでも。食べたくなければ残しておいてくれてもいいですし、お好みで」
「じゃあ、もうちょっとお酒の方を味わってから食べてみます」
「どうぞ」
オリーブをかじった日菜子は、少し顔をしかめたが残りも食べ、カクテルも飲み干した。
「あの、美味しかったので、もう一杯いただけます?」
「えっ!?」
驚いたのは男の方だった。
「日菜ちゃん、全部飲めたの?」
「はい。美味しかったので」
笑顔になる日菜子を見つめてから、男は慌ててグラスを空けると言った。
「お代わり」
桜木が笑顔で応え、瓶の蓋を開けるとジン独特の柑橘系の香りが漂った。
「先輩、先輩?」
カウンターに俯せる男の肩を揺らすが、男は眠ったままだ。
「マティーニに酔ったんでしょうか? 私は大丈夫だったのに」
「日菜子さんは、ちゃんと水を飲みながら飲まれてたので。強いお酒を飲む時は、恥ずかしがらずに
「女子の前でカッコつけるからよ」
ジントニックからマティーニに変わっているボーカル女子を、日菜子が振り返った。
「自分が飲めるところをカッコつけてあなたに見せたかったのか、もしくは、あなたとは違うマティーニを飲んでいたか」
「違うマティーニ?」
「優ちゃん、ジンの配合を変えてたでしょ?」
「日菜子さんにはジンとフレーバードワインのドライ・ベルモットが3:1の本来のマティーニを長めに混ぜたので、その分加水されて薄まり、慣れない人には飲みやすくなったかと。彼には5:1の現在主流の配合と、それ以上でお出ししました。正確にはドライ・マティーニになりますけど」
日菜子が首を傾げると、ウェーブヘアのボーカル女子が脚を組み、カウンターに肘をついて言った。
「あなたが席を立った時、彼は、あなたの方のカクテルはアルコールを強くするよう頼んでたのよ。意図はわかるでしょ?」
「あ……」と、日菜子は口に手を当てた。
「わ、私、先輩とはそんなつもりなくて……!」
「気を付けてね」
「は、はい」
にっこり笑うボーカル女子を見てから、日菜子は感謝するような視線を桜木に向けた。
「ああ、彼のことは心配しないで。後で起こしてタクシー呼びますから、どうぞお先にお帰りください」
「ありがとうございました。また来ます」
「いつでもお待ちしてます」
若いバーテンダーの笑顔を見つめているうちに、日菜子の頬はほんのりと赤らんだ。
マティーニに酔わせて かがみ透 @kagami-toru
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