ノスタルジック天使

水をはった水槽に赤いビィ玉が落ちるように

僕の心に波紋を作って

その影響は長らく尾を引くことになった


ある夏の昼まっさかり

太陽の透明な光が空気に満たす

風もじゅうぶんに熱せられたなか

蝉がわんわんうるさく

そんな午前にいとこの運転する車に乗せられ

どこに行くともしれず

延々坂道の斜めな町のながれる住宅

家家のその景色を冷ややかに見ていた


その時の感情というのは

古い本をひらいて文字を読まずに

並んだ黒いインクを眺めるのに同じである

エアコンの効いた図書室なら心地よい


坂の果てに土の露出した駐車場

車をバックして止める

はてさて、

これから何があるのやら


友達が新発売のゲームを買ったからと言い

家に遊びに行ったはいいが

結局ゲームなど触らずに

そこにいた飼い猫を

飽きることなく遊んでいた

去年の夏が懐かしい


車を降りるといっぺんに

夏の熱気候に放り出された


そこは研究所のような匂いがした

いとこは何か言ったが聞きとれなかった

適当な油絵のかかった冷やこい廊下を歩いた

外の世界の明るさに頼って

電灯は弱く光っていたが

じゅうぶんにあかるかった

廊下にさしこむのを

目の当たりにする空間にも

数えるほどしか埃のとばない

白い清潔なあかるさだった


二回折れる急勾配な狭い階段をのぼって

少ない廊下に一つだけある扉をあけると

なかはちいさな磨りガラスと

模様のない床と壁の何もない部屋で

ただ一つ巨大な卵があった


巨大な卵は

卵型の水槽で灰色の土台は何かの機械で

そこからこぽこぽ泡がたまにあがる

とても透き通った水に満ちてる

そして中には

白い服のうずくまった

背に小さな羽のある

華奢な少女がういていた


「彼女が完成したら守ってやってくれ」

「なんなの彼女」

「普通の女の子だよ、優しい子さ」


脳のなかでははたりと国旗があがって

風にはためく

ブロック塀の上にしゃがんだ少年が

口笛を吹く

夕日を背に土手のうえで老人が

ボロいギターを弾く


「この子は何なの?」

間違えて同じ質問をしてしまった

「普通に生まれて、普通に暮らすんだよ。おまえが昨日一日を過ごしたようにな」


いつ殻が割れて

そんな日が来るのかはわからない

中学生のころ

理科の実験の授業で

楽しそうにはしゃぐ子を見て

初めて恋人ができたときのような

ミルクチックなそわそわ感が

時間を置くごとに

輪郭をもった


「ふーん」

卵を見ると

こぽりといちだん大きな泡が浮き

そのあとを細々した微細な泡が追っかける

少女の腰にあたると分裂して

頂点に行き着くとその先の穴から

静かに外に出たら

夏の綾たる日の光をよく吸った

綺麗な水だと思った

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世界詩箱 戸 琴子 @kinoko4kirai

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