かわいい少女——夢のメモ

 吸いこんだ。喉に緑色に湿った気体がまつわりつく。吐き出す。

 私は立ち止まっていた。両手を確かめる。手のひらと指の隙間、手相の溝、爪にもやはり土が詰まっていた。両掌をこすり合わせ塊にして落とす。袖の端にまで染み込んできている薄い泥水の汚れはどうしようもなかった。もう一度深く息をする。その間もずっと空気は蒸れていた。

 私のズボンのポケットは両方とも裏返っていた。靴はよれよれで、黒茶く汚れている。ぶ厚い靴である。この足は、武骨なむき出しの木の根をメシメシ踏んで進んだ。爪先が、半玉スイカ程の石にぶつかった。下影に隠れていた多足虫が二三わらわらと逃げた。隣の石に隠れるものもあれば、木に登って、幹の裏側に隠れていったのもあった。トンボが肩に激突する。自由な虫のノイズが、耳を近遠する。湿地は小さな音でにぎやかだった。

 樹木をかきわけ私は進んだ。どこに目を向けても、新緑の渇望の葉であった。さっ、と明りが顔をかすめた。そこはずっと続いていた葉の天井の途切れた、稀有な部分であった。見上げると、相変わらずな一面の桃色の空に、大きな桃色のシャボンがいくつか浮かんでいる。あれほど高空にあるものがこれだけ大きく見えているのなら、実際は想像を抜くほどの大きさなのだろう。天井穴の端に、落ちて来そうなほど近い巨大な三日月の先が見えた。真っ白い。しかし、それもほんの数歩の景色であった。すぐにまた視界は暗くなり、その明暗差は感覚を失わせた。目が慣れるまでに、二度つまずいた。

 途中、地面に無機質な色の挟まっているのを見つけた。かがんで拾い上げると、古い写真であった。歯を見せて笑っている上岡龍太郎の写真であった。私は少し微笑んだ。右のポケットの袋を入れ戻し、私はその写真をしまった。

 かなり進んで、足裏もいよいよ痛んできたころ。水のちゃぴちゃぴ音がふいに聞こえた。足音を消すつもりでそろそろ歩き、水音に近づく。木で体を隠しそっと覗くと、湖の淵で少女が躍っていた。煙のような布が、少女から遅れてはたはたと舞う。少女がくるりと回ったとき、彼女は私の視線をみとめたようで、ぱたりと踊り止んでしまった。私は安心させるつもりでゆっくり姿を現し、「いいよ、躍りを続けて」と言った。彼女は嫋やかに踊り続けた。


 四月十二日、佐塚湖畔で男の首つり死体が発見された。男の所持品は上岡龍太郎の写真一葉のみであった。男はひとりで湖畔に来て、そこで首つり自殺。身元不明。

「だってさ」

「……お前、新聞とか読むんだ」

「たまたまな」

 真新しい靴は、地面に横たわった桜の花びらを、ペラリと踏んだ。靴の退いた面にまた花びらが着地する。軽いこぶしで叩き合った少年たちは、黒い制服の群れに吸い込まれていった。

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