第54話 最後の手段
「ああ、本当だ」
ハダルクの問いに返す、苦々しげな夫の声が聞こえた。
「これほどおたがいに不信感を抱いたままでは、夫婦を続けていくことはできない。その点は、リアナの指摘は正しい。これは、最後の手段と思っていたが……」
リアナは、思わず扉によりかかった。
自分で言いだしたことなのに、デイミオンの口から「夫婦を続けていくことはできない」と聞くのはつらかった。
だが頭の冷静な部分では、夫から切りだされるのが一番いい方法なのだともわかっていた。どれほど不仲であれ、デイミオンを説得して離婚に持ちこむというのは難しいと思っていた。この夫は、他人に指図されることと酸っぱい牛シチューがなにより嫌いなのだ。
彼と離れるつもりで、だからこそ腹案のためにロールを確保していたが、この分だと彼の同伴は必要なくなるかもしれない。
その夜、デイミオンがベッドに戻ってくることはなかった。思いたったらすぐに行動という夫らしい。
――よくわかった。おまえがそういうつもりなら、こちらにも考えがある。
そう捨て台詞を残していった夫である。さらに、さっき盗み聞きしてしまった「最後の手段」という言葉……。どういう「考え」なのか想像するに、リアナには、「離婚」以外の選択肢は思い浮かばなかった。
(当面のことを相談しなくちゃならないわね)
寝台の上に身を起こし、リアナはうつうつと考えた。(ひとまずは、カールゼンデン家のタウンハウスに泊まらせてもらうとして)
昼にエリサが起こした騒ぎのせいもあって、使用人たちが当番に立って起きていたのは幸いだった。小姓を一人呼んで、
もう王都にいたくないという投げやりな気持ちになりつつあったし、ルーイや子どもたちと北部に行くという考えにもそそられた。しかしそうはいっても公務があり、すぐに中断するわけにもいかない。フラニーへの引きつぎもふくめ、しばらくはまだ城の近くで生活する必要があるだろう。
……部屋を確認してまわっていると、ここで暮らした一節(十二年)近くのことが思いだされ、しんみりしてしまう。仕事を持ちこんでは文句を言いあった書斎、よく息抜きをしたアトリウム、たがいの服装を選んだ衣装室、そして愛情を確かめあってきた寝室。
荷造りは女官にまかせればいいのだが、宝飾類は管理が複雑なので、家令もいない身としては自分でやるしかないだろう。ほとんどはデイミオンからの贈り物か、かれの家からの借り物となる。贈られたものはリアナの財産になるが、あえて持って行かないことにした。仕立て直せば、かれの新しい妻が、また公務で使えるだろう。
が……思いなおして、先日もらった首飾りだけ持っていくことにした。例の、悪趣味な首輪を仕立て直したものだ。楽しかった夫婦の日々の思い出になるかも。
たいしてまとめる荷物もなく、寝台に戻ってうとうとしているうちに早朝をむかえた。予想に反してジェーニイから返信があり、午前中には登城して相談にのってくれるという。かれも
朝食の席にも夫は現れなかった。
つがいの誓いを解消するのに、そんなに大がかりな準備は必要ないはずである。どうしたことか不安に思いながらも、身支度をととのえ、自室で軽食をもらってすませた。
嵐の翌朝らしく、よく晴れそうな澄んだ空模様だった。
大きな窓から、複数の竜が滑空してくるのが見えた。来客だとすると、ずいぶん早い訪問だ。
秘書官のロギオンがやってきて、様子を説明してくれた。
「陛下のところに、竜騎手フランシェスカ卿がおいでになりました」
「そう……」
結婚となればもろもろの契約や手続きなどがあるはずで、彼女が来ることはおかしくない。が、秘書官は意外な名を続けた。「それから、竜騎手サニサイド卿、ヒュダリオン卿も登城され……」
「? どうしてその二人が?」
ロギオンは花の乙女のような顔をかたむけた。「予定にないご訪問なのは確かです」
さらに竜の影。リアナの弱い
「なんだか、騒がしいわね」
「陛下が、ナイメリオン卿とヴィクトリオン卿をお呼び戻しになったそうで」
「ヴィクとナイムを?」
思わず問い返した。かれらはつい昨日城を出たばかりだから、呼び戻すのはたやすいが……。
「いったいどうして?」
「存じませんが、リカルド卿はたいそう憤慨しておいででした」
それは、そうだろう。リアナは首をひねった。
「どうして、そんなに親族を集める必要があるの? 離婚に際して自分の有利なように親族を集める? ……まさかね」
自問自答というのか、あまり夫がやりそうなことには思えなかった。そもそも、リアナには争う点もないのである。
「いいわよ。それでわたしのほうの親族といえば、ジェーニイしかいないんだから……。あ、ルーイもいるわね。それに、エリサも」
それにしても、エクハリトス家のあの輝かしい面々とくらべると、どうにも心もとない。
「お呼びになりました?」
軽やかな声とともに、ルーイがあらわれた。すでに旅装で、子どもたちの手を引いている。色の薄い金髪を複雑に編み込んでいるのが、軽快で彼女らしかった。
「出立のごあいさつにと思ったんですけど、陛下はお忙しいみたいですね。いらっしゃらないみたい。……はいこれ、ソックス編みあがりましたよ」
リアナはかわいらしいベビーソックスを受けとりながら、むっつりと説明した。
「デイミオンが親族たちを呼び集めているのよ。……わたしたち離婚するの」
「あらまぁ」ルーイは新緑色の目を大きくまばたかせた。「
「違うわよ。本当なの。デイミオンは新しい配偶者を作る予定で」
「へえー」
ルーイは完全にひとごとの顔で、カイの帽子をなおしてやっている。今度ばかりはいつもの夫婦ゲンカじゃなく、本当のことなのに。
「今日
リアナがしゃがみこんで目線をあわせると、少年は楽しげにうなずいた。
「僕、従騎手にしてもらうんだ。白竜のライダーはみんな
「ぜひそうしてね」
そのころには、わたしはここにいないだろうけど。リアナは言葉を飲みこんで微笑んだ。
「準備もすんだし、退屈」
エリサはいつも通りの傍若無人だった。「リンゴのジュースが飲みたい」
「荷物に積んであるから、
「それ、北部に持っていくの? ずいぶん大きな荷物ね」リアナが尋ねた。少女の背には似つかわしくない、兵士の
「うん」
「それがねえ、中身は全部、リンゴなんですよ」ルーイがふくみ笑いで答えた。「ずいぶん、王都の味が気に入っちゃったみたいで。かわいいったら」
子どもたちと別れのあいさつなどしていると、竜騎手ジェーニイの来訪が告げられた。会う場所として竜車を希望しているとロギオンが報告するので、リアナは眉をひそめた。
「竜車? どうして?」
「お見せしたい場所があるとかで」
「困ったわ。まだ、デイと話が終わってないんだけど。黙って出ていくのも気が引けるし……」
リアナは、いぶかしみながら車寄せのほうへ歩いていった。ルーイたちも後をついてくる。
竜車の扉があき、中から目にもまぶしい金髪があらわれた。リアナの親族、ジェーニイは一族を代表する美貌を笑ませて、「おはよごすー」とあいさつした。一年の半分をここ王都で過ごす都会っ子なのに、北部なまりがいつまでも抜けない。
すでに顔見知りだったようで、子どもたちは自然と近づいていった。
「こめらはかわいいじゃ(子どもたちは、かわいいね)」
とろけそうな笑顔で、子どもたちの頭を撫でている。カイは、自分そっくりの親類の顔を不思議そうに見あげている。北部特有の淡い金髪に水色の瞳など、親子かと思うほどだ。エリサは興味がなさそうにリンゴを放って遊んでいる。
「ねえジェーニイ、どうせ城は出るつもりだったけど、まだ、やることが残ってるのよ。相談にのってくれるのは助かるけど」
「えと、
――なんだか、あやしい。
腹芸のできるタイプの男ではないので、なにかたくらんでいるということはわかるのだが……どうせ、子どもだましのちょっとしたイタズラだろう。リアナはため息をついて、車内に乗りこんだ。
ところが、座席にかけたとたん、ジェーニイの姿が視界から消えた。リアナが乗りこんだのとは逆側の扉から、文字通り引きずりだされたのだ。
「ジェーニイ!」
リアナが叫ぶのと同時に、デイミオンが車内に入ってきた。「やれやれ、うまくいったか。協力感謝するぞ、ジェーニイ」
「……どういうことなの!?」
リアナは目をつりあげた。つい、怒りが親類のほうに向かう。「わたしをはめて、タダで済むと思ってないでしょうね?! ジェーニイ!」
「ひしょねえべ!!」車の窓ごしに、ジェーニイが涙目で叫んだ。「デイミオンに脅されでだんだもん!」
「どうやら、おまえの夫がどういう男か、まだわかっていないらしい」
夫は、出会った頃によく見た、人を馬鹿にしきった笑みを浮かべた。「記憶のない俺のほうは、先の行動が読めるほどおまえの性格を把握しているというのにな?」
リアナはあぜんとして、すぐにはののしる言葉も出てこなかった。
♢♦♢
そうこうしている間にも、使用人たちが荷物を運び入れたり、竜騎手たちが入れかわり立ちかわり王に報告を持ってくる。
「これはいったい――」
「なにをしてるの?」
リアナの問いを、子どもの声がさえぎった。手にリンゴを持ったまま、エリサが車に寄ってくる。
「城を建てるには、堅固たる土台が必要だ。家族というものも同じだ。夫婦の信頼関係の上に成りたつものなんだ」
デイミオンは偉そうに言った。
リアナは意味がよく呑み込めなかった。
エリサは片方の眉をあげて「つまり?」とうながした。
「私とリアナは東部で休暇を取ることにした。休暇先で、ぞんぶんに夫婦関係を修復する予定だ。……エリサ、おまえは北部に戻っていていい。機会を見て、また迎えに行く」
「ふーん?」エリサは二人の顔を交互に見て、よくわからないという顔をした。「なんで、ここで修復できないの?」
「大人の事情だ」
「休暇って……どういうこと!?」リアナはがまんできずに口を挟んだ。「フラニーのことは……それより、あなたは王なのよ!」
「それは両方解決した」デイミオンはしれっと言った。「フランシェスカを仮の王太子に
「そんなこと……頼んでやってくれるものなの!?」
リアナは目を
「別に、頼んでみるくらいはいいだろう。嫌なら嫌というだろうし、実際、快諾されたぞ」
「そんな……」リアナは絶句した。「わたしの苦労は……じゃあ、親族たちを呼んだのは……」
「仕事だ。サンディにはフランシェスカ卿の補佐をしてもらう。ナイムには王都との連絡役を頼むし、ヴィクにもまあいろいろな」
「『最後の手段』っていうのは、じゃあ……」
「やはり、盗み聞きしていたか。……王の職務をほっぽっての休暇なんだから、最後の手段だろう。もともと、その選択肢は持っていた。なるべくなら使いたくなかったが」
デイミオンは得々と説明するが、リアナはまだ信じられなかった。
「わたしは……あなたも、離婚するつもりなんだと……」
夫はすぐには答えず、窓から顔を出してエリサのほうを見た。
エリサはルーイに呼ばれて、きびすを返しかけていた。が、ふと思いついたようにふり向いて二人を見あげ、言った。
「東部には、まだ行ってない。おもしろいものある?」
デイミオンがうなずく。「黒竜の産地だ。しばらくは領地にいるから、見たければくるといい」
「わかった。気が向いたら行く」
「ああ」
エリサは彼女らしい無関心な顔つきで、リンゴを放りあげた。デイミオンはなんなくそれをキャッチした。
「あと2、3個くれ。朝食を食べそびれた」
さらに3つのリンゴが宙を行きかい、そしてエリサは肩をすくめてルーイたちの方へ戻っていった。
夫はそこでようやく、少しばかりまじめな顔になった。
「おまえは昨晩、『どうしてこんなことをはじめたの?』と聞いたな」
手にしたリンゴに目線を落とし、そう続ける。「記憶があろうがなかろうが、俺は俺自身を信じている。
リアナは胸に手を当てて考えてみた。「あなたは、そういう人だと思うわ」
デイミオンは満足そうにうなずき、リンゴを
「さて、休暇をはじめるとしよう」
そして王自身が指示を出し、車は東に向かって走りはじめた。東部のエクハリトス領へと。
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