第52話 信頼関係が大切なんだ
♢♦♢ ――フラニー――
結局、サンディが彼女に着せたかったドレスは侍女に貸していたので、フラニーは別のもっと地味なドレスで夜を待つことにした。
「なんで、あれを人に貸すんだ」
ぷりぷりと怒っていたサンディの顔を思いかえすと、おかしくて頬がゆるんでしまう。
侍女は遠縁の娘で、恋する男性の来訪を数日後にひかえていた。「一番かわいく見える服を」とけなげに選んでいる侍女を見て、フラニーはこころよく、自分のとっておきのドレスを貸してやったのだった。今年の繁殖期にそなえて仕立てたもので、流行のイーゼンテルレ風の袖と、鎖骨がきれいに見える襟ぐりのドレスだ。興奮で顔を真っ赤にさせて何度もお礼を言う姿に、良いことをしたものだと気分が晴れやかになった。
サンディはそれを聞いてまた「おまえのそういう、お人よしなところが」とお説教をはじめたが、フラニーは気にならなかった。
あの侍女くらいの年齢だった頃、フラニーはデイミオン・エクハリトスに夢中だった。彼がまだ、「黒竜大公」とか「摂政王子」とか呼ばれていた頃だ。
日に焼けたたくましい体躯に、すてきな黒髪。あの青い目に見下ろされたいと熱望していた。彼が南部の領地に視察に来ると聞けば、来訪まで指おり数えて待ったものだ。遠くから見かけるだけでも
一度、竜舎でかれと立ち話をしたときのことを、フラニーは昨日のことのように覚えている。
まだ仔竜の年齢を抜け出していないガーネットのしつけに苦労している、という話をしていたときのことだ。
性質が従順であつかいやすい姉妹とちがい、きかん気の強いこの竜は軍務に向かないのではないか、とフラニーが尋ねた。すると、
「従順さは雌竜の美点だろうが、それは
と、デイミオンは言ったのだった。
「どんな性格の竜にも、かれらなりの持ち味がある。美点を引きだし、たがいの欠点を補いあえるような信頼関係が大切なんだ」
フラニーはすっかり感動してしまって、それから竜舎で会う騎手ごとに同じ話をしたものだから、かれらにはずいぶん笑われたものだった。今になると、黒竜大公に熱をあげている小娘が面白かったのだろうと思うと、恥ずかしくて頬が熱くなる。
デイミオンは若い頃から一族の責任をになう立場だった。そのせいか自信家で高圧的にふるまうこともあったが、一対一で会話をすると意外にもの静かで思慮ぶかい一面があった。そういう点もフラニーを惹きつけた。竜が好きという共通点もあった。なにより、竜との信頼関係を説く姿に魅力を感じた。
この恋は、今夜
それとも、積年の思いに、自分で幕を引くことになるのだろうか。
もの思うフラニーの
♢♦♢
「アーダル号で来てくださったのですか」
どんな顔で会ったらいいのか、と思い悩んでいたことも忘れて、フラニーははずんだ声で王を出迎えた。邸内の応接間に、ちょうどかれも案内されてきたばかりのようだった。
「
デイミオンは口端をかるくあげて微笑んだ。
「覚えていてくださったんですか」
「ああ」
低く響く声にも、優しい表情にも、どきどきしてしまう。
小姓が駆けてきて、大柄な王の
「あいにくの雨でしたわね。……陛下のお越しを歓迎いたします」
家族の声に、フラニーはふり返った。
堂々と歩いてきたのは、フラニーの母、ブリギット卿だった。エサル公の妹で、南部の女性らしく大柄で茶髪の、生命力あふれる女性当主である。隣には父を連れている――細身で妻より小柄で、性格もおだやかなので、周囲からはブリギットの付属物のように扱われがちな父だった。
ブリギットと王は、社交的なあたりさわりない立ち話をしていた。デイミオンと会話をしても顔を赤くしたり怖気づいたりしない母を、フラニーはうらやましく思った。
「さて、あまりわたくしたちが時間をとってもいけませんわね。陛下は別のご用でいらしたのですから」
ブリギットがそう切りだした。「契約上の細かい点は、あとでもよろしいでしょう。陛下には、娘とよい時間を過ごしていただきたいものですわ」
含みを持たせた妻の言葉にうなずき、隣の父が穏やかにあとを取った。「では、あとはお若い二人の邪魔をしないようにいたしましょう。フラニー、お庭に案内してさしあげなさい」
(ついに、来てしまった)
この夜を待ち望んでいたにもかかわらず、フラニーは目の前から逃げだしたい気持ちになりかかっていた。いったいどうやって、デイミオン様をベッドに誘えばいいのだろう? 「すべてデイミオン卿に、いえ陛下におまかせしていいのですよ」と母は言っていたが。こんなに
混乱した頭でそんなことを考えていたフラニーに、「いや」と王の制止の声がかかった。
――「いや」?
ふり向くと、デイミオンは腕ぐみをして難しい表情になっていた。
「契約について、いま確認しておきたい。また
そして来客用のソファにどっかりと腰を下ろし、続けた。「契約書を持ってきてくれ。
両親は顔を見合わせた。おそらくかれらの予想と違う反応だったのだろうが、母はすなおに契約書を差しだした。
王はその紙にじっくりと目を通した。
それほど長い文面ではないが、待っているフラニーにとっては永遠と思えるほどの間に感じられた。
「さて、ブリギット卿」
その場で一人優雅に座り、長い脚を組んだまま、デイミオンは急に母に呼びかけた。
「第二配偶者との婚姻は、そもそも第一配偶者とのあいだに絶対の信頼があってはじめて成立するものだ。この場合は、私とリアナ王配の。――そうだな?」
「むろん、お言葉のとおりでございます」ブリギットは年長者らしく、自信たっぷりに答えた。
「絶対の信頼だ」
デイミオンが念を押した。
「さようで」
ブリギットも仏頂面でうなずいた。
なんの話なのかまだつかめないでいるフラニーは、いつのまにか隣に立っている父と顔を見合わせた。
「ところが――」
王の顔つきが変わった。「私はいま、妻との信頼関係を非常に疑っている。この契約書を見て、疑念が確信に変わった」
また、信頼関係だ。フラニーは奇妙な因果を感じた。なぜかはわからないが、自分は冷静さを取り戻しつつあるようだった。こんな場所まで来て、デイミオンが妻妻と連呼しているせいかもしれない。
「妻は、俺を
夫婦の問題を無関係な一家に
とにかく、「あのときのデイミオン王は、完全に目が
♢♦♢ ――リアナ――
この夜を、無事に乗り越えられるだろうか。
リアナは不安を感じながら、自室で過ごしていた。寝室にいるといろいろ考えてしまいそうで、書斎に仕事など持ちこんでいるところだ。
「今夜は、お側にいますよ」
夜勤を交代してくれたという竜騎手ロールが、優しく言った。「お部屋の中に、という意味ですけれど。〈血の呼ばい〉は無理ですが、それ以外の〈呼ばい〉を弱めます。すこしは違うといいのですが」
「ロール、ありがとう」
この竜騎手は、自身もひそかに思いを寄せる相手が男性ということもあり、繁殖期の苦悩に同情的だった。
気を紛らわそうと書類を手に取るが、内容が頭に入ってこない。さあさあと細かい雨音が聞こえ、どうやら本格的に降りだしたらしかった。
雨のせいだろうか、結局、昔のことを思いだしてしまった。デイミオンが、ほかの女性のもとを訪ねたかつての夜のこと。
当時、〈血の呼ばい〉でたがいの知覚を共有していたリアナは、彼が女性を抱くときの感覚まで体験してしまった。思いだすと、いまでも心臓が冷たくなるような感じがする。
デイミオンに恋していた十六歳の少女にとって、それはあまりにも耐えがたく、リアナは一番信頼していた相手にすがった。
そしてあの嵐の夜、フィルバート・スターバウは、彼女の初めての男になった。
『後悔していますか?』
フィルにそう尋ねられたとき、リアナは「いいえ」と即答した。今でも後悔はしていない。だが、彼の肌の感触と体温を知らなければよかった、と思ったことは、それから何度もあった。皮肉にも彼自身がそう言ったように。
(いま、もしもフィルを呼んだら)
薬指に
こんなにもフィルを必要としているときに、そばに呼んではいけないのだろうか?……冷たく甘いフィルのささやき声を思いだし、思わずそう夢想した。
「いいえ」リアナは自分自身に言い聞かせるように、答えを口に出した。「フィルには、もう頼らない。……それに、この指輪の使い
ただ一度のその機会のために、今の苦しみを耐える価値があるはずだ、と言い聞かせる。
……おそれていた〈血の呼ばい〉は、ほとんど感じ取れなかった。
それこそ、あの夜と同じくらい緊張していたリアナだが、徐々に緊張を解いていった。
黒竜の竜騎手であるロールが、うまく〈呼ばい〉を弱めてくれているのだろうか? もともと、今の二人には以前ほどの強い〈呼ばい〉は存在していない。……だが、王と後継者を結ぶ〈血の呼ばい〉は、遮断することができるような性質のものではなかったはず……。
「うまくいっていないのかしら」
リアナはしだいに別の不安をおぼえはじめた。デイミオンがフラニーと床を共にしていない場合、それはそれで別の問題が出てくるのだ。気になって立ちあがりかかったところで、ノック音に驚く。
ロールが「エリサ様がいらしたようです」と告げた。
「ねえ、デイミオンが戻ってきたら、会わせてくれない?」
それが、少女の第一声だった。「北部領に戻ろうかと思って」
「どうしたの、いきなり? こんな夜に……」
リアナは彼女に近づいていった。自分も部屋着姿だが、エリサもまだ寝間着ではなく、昼と同じ格好だ。子どもらしい大きな目をぎょろつかせて、リアナを見あげている。
「お祭りが終わったら、帰る予定だったでしょ。本がたくさんあるのはいいけどちょっと飽きたし、カイがもう帰りたいって言ってるから」
「とにかく……デイは今日は遅くなるのよ。明日にしてちょうだい」
リアナは額に手を当ててため息をついた。空気を読むタイプの子どもでないことはよくわかっているが、唐突すぎる。
「デイは帰ってくるよ」エリサはスミレ色の目をぱちりとまばたいた。「もう、アーダルが城に降りてくる」
「そんな。もう?」リアナは絶句した。
彼女にはわからない強い〈呼ばい〉が、エリサにはわかるらしい。思わずロールのほうを見ると、こちらも信じられないような顔でうなずいて同意を示した。
「
「どうやってそんなことができるの? アーダルはあんなに大きな竜なのに……」
「近隣のライダーたちの〈呼ばい〉に介入して、竜にそれらしく錯覚させるという方法があって……」
「わざと、隠れて帰ってきたっていうの?」
リアナは信じられなかった。あの夫が、こっそり隠れて戻ってくる? 部屋に入るときだって、いつも古竜みたいにどすどすと足音を立てる男なのに。
「出ていって、まだ一刻も経っていないわ。ここまでお膳立てしたんだから、二人にはうまくいってもらわないと困るのに」
「ほう」
その声に、リアナはぎくりと身を固まらせた。
「やはり、別のもくろみがあったんだな」
デイミオンが、そこに立っていた。雷雲もかくや、というほどの重苦しい空気をまとって。
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