第50話 急転(上)
(※暴力描写あり注意)
♢♦♢ ――リアナ――
エサル公がハヤブサの姿でふいに訪問してきてから数日が経ち、竜神祭の当日はぬけるような晴天だった。だが、白竜のライダーであるリアナは、低い気圧の近づきを感知していた。白竜たちがつかさどる祭の日は、晴天と決まっている。雨雲は追いはらわれ、風は弱められる――かれらが天候を支配していることを、王国の民に知らしめるために。
ライダーたちが力を多く使えば、〈呼ばい〉も強まる。最近、〈呼ばい病み〉しやすいリアナにとっては、憂うつな日になりそうだった。晴天を窓から眺めながら、今日という日をどうやりすごそうか、うつうつと思い悩んでいる。
「エリサはどこだ?」
部屋に入ってきたデイミオンが、開口一番にそう聞いた。竜神祭に王の仕事はないので、執務用の簡素な服装だ。淡い色のチュニックから、日焼けしたたくましい腕や、太い首筋がのぞいている。女性なら誰でもうっとりと目を細めたくなるだろう夫の姿から、リアナは意識して目をそむけた。
「ええと……竜舎にいるみたいね」
血族のあいだに存在する〈血の呼ばい〉を使い、生物学的には彼女の母親とも言える少女の居場所を見つけた。
「そうか。子どもたちに、祭を見せてやろうと思ったんだが。あとで呼ばせよう」デイミオンはうなずいた。
子どもたち。
ヴィクとナイム、それにマルは、今朝早くに王都を出立してしまった――祭で混雑する前に、次の宿泊所へ移動したいということだった。エリサとカイも、この祭が終われば北部領に戻ることになるだろう。
二人の子どもは、王都の暮らしを満喫しているらしかった。カイは王宮の華やかさや、竜たちとのふれあいに興奮しきりだったし、エリサは勉強熱心で竜術も地理や歴史なども意欲的に取り組んでいた。
デイミオンはすっかりエリサを養子に迎える気でいるようだが、さて、どうなるだろうか。リアナの見るところ、彼女はなかなか一筋縄ではいかない性格のようにも見える。……
「竜たちが祭で出払ったら、エリサもこっちに戻ってくるんじゃないかしら。そしたら、あなたのところに行くように言うわ」
「ああ。頼む」
執務の途中だったのだろう、夫はきびすを返しかけた。それから思いだしたように彼女のそばに来て、言った。「今夜は、俺がいなくて大丈夫か?」
そう声をかけ、軽い抱擁で彼女をかこった。部屋にいると涼しいくらいだったが、夫の首筋はうっすらと汗ばんでいた。清拭に使うハッカ水のさわやかな香りに混じって、デイミオン自身の匂いが感じられた。……ほかの誰にも、この匂いを嗅いでほしくない。固い筋肉も、張りのあるなめらかな肌も、誰にも触らせたくない。
……でも、もう決めたことだ。
リアナはしいて微笑んだ。
「……大丈夫よ。ブリギット卿と……フラニーにもよろしくね」
「ああ」
なにか言おうとするような間があったが、デイミオンは結局、彼女の頭頂にキスを落としただけだった。「遅くなっても、こっちに帰ってくる。先に寝ていてくれ」
「ええ」
執務に戻るために出ていくデイミオンの背中を見おくって、リアナはため息をついた。……さっきの自分は、うまくふるまえていただろうか。
♢♦♢ ――ロール――
竜たちが出払ったあとの竜舎で、竜騎手ロールは竜医師たちと定例の打ちあわせに参加していた。個体それぞれの体調、療養中の竜の経過、繁殖についての領主家からの希望など、竜医師たちと共有しておくべき情報が多々あるのだ。
打ちあわせが終わり、遅い昼食をもらいにいこうかと考えていたときだった。ロールの
「竜舎にはひさしぶりに入ったな」
「当番をサボっている証拠だな。シメオン卿にどやされるぞ、ニールン」
よくつるんでいる竜騎手の同輩たちが四人、騒がしくしゃべりながら竜舎に入ってくる。
「その点、おまえは偉いよな、ロール」
ニールンと呼ばれたリーダー格の竜騎手が、彼に向きなおって声をかけた。濃茶の髪が肩に落ちてくるのを、自分でうっとうしそうにはらう。「新人に押しつけずに、まじめに竜舎当番もこなして」
「竜の世話は、騎手の大事な仕事だろう。誰でもやっている」
ロールはあたりさわりなく返した。「それに、これは別に当番じゃない。竜医師との打ちあわせで、ふつうの業務だ」
「そういう雑務に手を抜かないのが、おまえの
――じゃあ、おまえたちもその雑務をまじめにこなせばいいだろう。
そう思ったし、ふだんなら彼らに言いかえしていたかもしれない。が、今日のロールは用心深く黙っていた。ニールンの声には、どこか危険な棘が感じられる。
(サンディといい、同輩たちといい……。こちらは普通に応対しているのに、どうして皆、私に
ロールはイライラと唇を噛みしめた。
「副団長も、おまえと同じようなタイプじゃないか。家柄もコネもないから、グウィナ卿にいろいろお世話していただいたんだろうな。寝室では、いったいどんなご奉仕をしていたものやら」
ニールンの下世話な発言に、同輩たちが笑い声をたてた。
(この流れはマズいな……)
ロールはそう思ったが、さすがにハダルクへの暴言は捨てて置けない。あまり攻撃的にならないよう気をつけつつ、反論した。
「デイミオン陛下も、リアナ陛下も、公平なお方だ。竜騎手の責務をまっとうにこなしていれば、目をかけてくれる人もいるだろう」
「おまえみたいに、お偉い方々に取り入って出世できるタイプばかりじゃないんだよ」
ニールンにかわって、同輩のシディウスが割って入った。黒髪で、ニールン同様の美貌をにやつかせている。
「なにが言いたい? 当てこすりは聞きあきた。私に嫌がらせをしても、おまえたち自身が出世できるわけじゃないだろう」
(しまった、つい言ってしまった)
反発するからよけいに絡まれるのはわかっているのだが、ロール自身の反骨精神もあり、ついこうして言いかえしてしまう。
「言うなぁ」案の定、シディウスからは怒りのこもった冷たい反応が返ってきた。
「その自信、たまにはへし折ってやりたいね」
「たまには、他人の痛みを経験するのもいいものかもな」ニールンは笑顔だったが、やはり目が笑っていなかった。「実力も家柄もともなっているのに、おまえの陰に追いやられているような同輩もいる。おなじ騎手の志をもつのに、不公平だろう?」
「僕たちはちょっと、
彼らがあげた名前は、先だって自分の鞍に落書きをした犯人だった。処分は軽いものだったし、ロールも抗議はしていない。
「かわいそうに、あいつ、縁談がつぶれたんだぞ? おまえのせいで」
(そんなの、逆恨みじゃないか)
「だから……おまえにもちょっとばかり、恥をかいてもらおうというわけさ」と、ニールンが言った。
その一言で空気が変わったことが、ロールにもわかった。
(しくじった)
「ノクト、おまえは見張ってろ。あとで交代してやる」と、シディウス。ノクトと呼ばれた竜騎手が扉のほうへ向かう。
――嫌な予感は当たった。
輪をせばめるように騎手たちに追いつめられながら、ロールは頭のどこかで冷静に考えていた。
無言で引き倒され、悲鳴をあげるまもなく、目の奥に星が散った。どうやら、顔を蹴られたらしい。鼻の奥が熱くなったので、血が出ているかもしれない。ついで、脳の奥を揺さぶられるような痛みが襲ってきた。
「
「顔はやめろ、蹴るなら腹のほうがいい……」
なんて不用意なやつらなんだ。それくらい最初から決めておけ――まだはっきりしない頭で罵り文句を考えていたときだった。
「なにをしているの?」
入口近くから子どもの声がして、ロールははっと我に返った。暴行がとまるきっかけになるのではと期待したが、子どもでは、むしろ危ない。この声は。
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