第48話 たそがれと、最初の嘘

「夕陽を見るか。悪くないな」夫は微笑んだ。「アーダルの機嫌次第だが。……竜舎に行くか?」

「うん」リアナもあえて微笑みをつくった。


 手を引かれて籠を出る。

 彼らだけが使える通路を上がって、天空竜舎へと移動した。第一の竜アルファメイルアーダルはめずらしくそこにいて、眠ってもおらず、溶けた黄金のような目を片側だけ二人に向けた。小刀で切ったような、黒く鋭い影が点々と散っている。虹彩こうさいの部分だけでも子どもの背丈ほどの高さがある。巨大な竜だ。


 古竜は、主人である竜族よりも早く年を取る。雄竜アーダルはそろそろ壮年の域に差しかかろうとしていて、昔の血気盛んぶりはなりをひそめていた。

「アーダル。聞いていただろう。……夕暮れの散歩というのはどうだ?」

 とデイミオンが呼びかけると、黒竜はのそりと身を起こした。『まあ、よかろう』という返事なのだろう。


 つがいの竜レーデルルは朝型なので、すでに休む体勢になっていた。やんちゃ盛りの仔竜たちも一緒だ。リアナは彼女に呼びかけた。

「ルル、旦那さまを借りていくわね」

 美しい雌竜は、いつものように思慮ぶかいまばたきで主人ライダーこたえてから、リアナの夫を見た。

「先日は、おまえの主人ライダーに済まなかったな」

 デイミオンは優しく声をかけると、虹色の目のあいだの、彼女が喜ぶあたりをぽんぽんと叩いてやった。ルルも「クルルル」と喉を鳴らして和解の意を示した。


「ルルがあなたに怒ったなんて、信じられないわ」

「めずらしく激怒していた。おまえの身体が心配だったんだ。な?」最初をリアナに、最後はルルのほうに向かって呼びかける。 


〔そう。ファイアブリンガーは、もっと気を付けるべき。……羽毛の仔はとてもうれしい〕

 ルルはヒトの言葉で答えた。〔でも、お腹のなかに心臓がふたつ。わたしの身体がわからない。こまる〕

「そうなのよ」リアナは笑った。ルルが何を言っているのか、ぴんときたのが面白かったのだ。「妊娠すると、なんだか毎日、体調が違うのよね。勝手が違って困るわ」

〔でも、生まれたらうれしい。羽毛の仔はとても、とてもかわいい〕

「きっとそうでしょうね」


 それからルルは、鞍を用意しているデイミオンのほうにも話しかけた。 

〔すてきな巣、よく乾いた枝、暖める温度、たくさんの魚〕

「うん?」デイミオンは白竜の言葉に考えこんだ。「ああ……つがいの雄の心得か。わかっている。ちゃんといい寝床を用意して、たくさん食べさせよう」

〔する〕

 

 ルルが満足したようなので、二人は軽く浮きあがってアーダルの背におさまった。

「さあ、行こうか、相棒」と、デイミオンが合図する。


 アーダルが中腰になると、竜舎の高い壁でさえ手が届きそうになる。頭をぶつけないかしら……と心配する間もなく、ひゅっと前方に引っ張られた。アーダルにしてみればゆったりとした一歩なのだろうが、この巨体が動くのだから体感する速さも段違いだ。

「わっ……」

「おっと」

 もちろん危ないことはなく、背後のデイミオンがしっかりと抱えてくれている。アーダルは長いはずの通路をほんの数歩で抜け、助走もなくいきなり跳びあがった。


(アーダルは、デイの大事な相棒なんだわ)

 今さらかもしれないが、リアナはそう思った。夫がヒトに対するより竜に対するほうが優しいのは昔からだが、そのなかでも、黒竜アーダルは特別な一柱だった。使役する側とされる側というだけの関係ではない。アーダルは黒竜たちの、そしてデイミオンはライダーたちの、それぞれの群れを率いるアルファとしての責任と、それに見合う強大な力が、両者を同志として結びつけているように思える。

(アーダルを目ざめさせられて良かった)

 今回のことでリアナもデイミオンも少なからぬ犠牲をはらったが、それでも、そう思う。


 もちろん、自分だってデイミオンの大切なつがいだ。

 でも、無二のものでさえ、いずれは変わっていく。……そんなことを考えていた。


 アーダルは力強く上昇し、視界が大きく揺れた。つわりが出るようになってから竜に乗るのはやめていたので、リアナにとって久しぶりの騎行だった――リラックスしているのがいいのか、吐き気もなく、気分は上々だった。


 ――この後に、夫に言わなければいけないことさえなかったら。



 ♢♦♢


 王都タマリスは、外輪山に囲まれた地形となっている。地上をゆけば山を越えたときが「王都に入った」と感じるタイミングだろう。だが、竜の背に乗ればそれは一瞬のことだった。

 アーダルはかれらの希望どおり、西に向かってゆるやかに飛んでいる。

 二人は日没に間にあった。黄金色の強い輝きが地平線に落ちていく。眼下には灰青色に沈みつつある山と、銀色の雲。夕陽のオレンジを映した湖が散らばるのが、ひときわ美しく見えた。


「こんなふうに、二人で夕陽を見ていたんだな」

 デイミオンは確かめる口調で言った。すっぽりと抱かれる姿勢だから、どんな顔をしているのかはわからない。

「まだルルが飛べなかった頃からね」

 リアナは思い出を語った。「あなたはこうやって、わたしとタマリスを飛んでくれて……最初に見たのは、朝焼けだったかな」

 それは彼女が王になったばかりのころで、あの波乱の繁殖期シーズンの直前だった。竜を通じて二人が距離をちぢめ、美しい朝焼けを眺めていたころ……同じ空の下で、フィルは、彼女のために孤独な戦いをやり抜く決意をしていたのだった。

 そのことを思うと、いつも胸がきゅっと痛くなる。


 デイミオンは記憶をたぐりよせるように黙っていたが、ぽつりと言った。「思いだせそうな気がするんだ。本当に、あとわずかなきっかけで……」

「記憶のことは……本当に、無理しないでね」

 リアナは念を押した。「わたしのことを忘れても、あなたはあなただとわかったから」


 陽が落ちても、しばらくはぼんやりと薄明るい。掬星きくせい城にまっさきに明かりがともり、それを移すように城下街に小さな光の粒が広がっていく。二人はそれを眺めていた。

「おまえにとって、俺はなんだ?」

 ふと問われて、リアナは即答した。

「デイミオン・エクハリトス。すべての鳥と竜の王。王国一ハンサムで、自信たっぷりで、時々意地悪なわたしの夫」

「おまえのことを忘れていても?」

「わたしのことを忘れていても」


 背後からまわす腕の力が強まった。

「本音で答えてくれ。ここは、行きどまりじゃないんだな?」

「『次の春も、その次の春も、永遠に』。デイ、あなたから離れたりしないわ」

 続く言葉はなかったが、夫がほっとしたのを空気で感じた。不安をいだかせている罪悪感と、それほど求められていることの嬉しさが、同じくらいリアナのなかに存在している。

 せめて、同じくらいの誠実さで夫に返せたら。でも、誓いは永遠じゃない。そしてデイミオンにはもっと良い人生を手にする資格がある……。

 リアナはこれから自分がやろうとしていることを思い、これは『賢者の贈り物』だろうかと考えた。たがいを思っての贈りものが、その用途を失うような、陳腐な物語だろうか。……決断したはずなのに、こうして二人きりの絶好の機会で、まだ迷っている……。


(しっかりしなくちゃ)


「……ねえ、いい機会だから、今聞くんだけど」

 リアナは、ことさら明るい声を作って切りだした。「あなたの、第二配偶者の話を進めてもいい?」

 

「今、その話か? まだ早いんじゃないか?」思ったとおり、夫は渋った。「おまえがこんな時期に……」

「だけど、子どもが生まれたら、できるだけあなたに一緒に過ごしてほしいわ」

 リアナはなるべく穏やかに聞こえるように言った。「来年の春より、今のほうがいい」

 このやり取りを、何度も頭に思い描いてきた。やると決めたからには、途中で投げ出すわけにはいかない。


「そうかもしれないが」

 その計画は頭になかったようで、デイミオンは考えこむ様子になった。エサル卿からの話は伝わっているだろうし、いつまでも宙に浮かせておくわけにもいかないことは、夫にも分かっているだろう。


「去年、フィルとの婚姻を手配したときに、今年はあなたの番と決めたのよ」

 夫婦の決定であることを強調する。と、デイミオンは意外なところに言及した。

「フィルとの結婚生活は……どうだったんだ」


 リアナは一瞬、隙をつかれたように黙った。いずれ聞かれるだろうと思ってはいたが、今とは想像していなかったのだ。

 フィルとの生活。花にあふれた小さな家。焼きたてのパンと、温かいスープ。ただ一組の夫婦として愛し愛されること……。

 その、目もくらむような幸福を思いださないでいるのは難しかった。

「契約結婚は、つがいの誓いとは違うわ」

 疑われないだろうかと心配しながら、なんとかそう答えた。「わたしにはあなただけよ。……心配しないで」


「そうか」

 デイミオンはつめていた息を吐いた。「実は、おまえがフィルとの婚姻を継続したいと言いだしたらどうしようかと考えていた。……ついこの間までは、それでもいいと思っていた……あいつはおまえを支えてきたというし、子どものこともある……だが」

 言葉を一度切ってから、ためらいがちに言った。「今はもう、そう思えない。……おまえをどこにも行かせたくない。あいつのところにも、ほかのどんな竜騎手のところにも」


 夫は彼女の肩をそっと押して、顔をすくいあげ、自分のほうに向けさせた。

「記憶が完全でない今でさえ、俺はそう思っている。……おまえは本当にいいのか?」

 温かい湯のような、デイミオンの〈呼ばい〉を感じた。ずっと包まれていたいと思うような、力強く熱いエネルギーだ。いっそ、あの鳥籠に閉じこめたままにしてくれればよかったのに。そして何も考えず、ただ甘やかされるままでいたかった。


「わたしの気持ちは揺らいでいないわ」

 たそがれが、自分の嘘をうまく塗り隠してくれるのではないかと、リアナは期待した。「なにも心配しないで。わたしたちは大丈夫。……この先もずっと一緒よ」


 

 元の夫なら、リアナの嘘を見抜いただろうか。心配になるほどの間を置いてから、デイミオンはおもむろに答えた。

「……わかった。エサル卿と話してみよう」

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