第46話 腐ったリンゴは、隣の果実を腐らせる

 ♢♦♢ ――ロール――


 その朝、竜騎手ロレントゥスは飛竜用の竜舎にいた。まじめな彼は、勤務の前に騎竜に使う用具を手入れしようと思ったのである。

 だが、鞍を磨こうとしたロールは、古布を手に固まった。

 彼の目に入ったのは、自分の鞍になぐり書かれた、卑猥な文句だった。


 一瞬、なにかの間違いではと――誰か、同僚の鞍をまちがえてつかんだのではないかと思った。もちろん、脳の片隅では、冷静にそんなはずはないことを理解していた。どんな未熟な竜騎手も、竜を使役するための用具を粗末にあつかうことはしない。

 これは、自分にてて書かれたものなのだ。


 ご丁寧に、濃い染料で『同性愛者』だの『男にも女にも股を開く』だのと書かれていて、思わず息をつめてしまう。ほとんどは安直なののしり文句だったが『男妾』という言葉が使われている点は気がかりだった。

 自分の名誉については、同性愛者と知られた時点で、ほぼあきらめている。だが、男妾とは……。

 もし、リアナ王配の愛人という噂が広められてしまうと、彼女にとっても非常な不名誉になる。捨ておけないが、かといって自分は後ろ盾もない若造にすぎない。どうしたものだろうか。


 すれ違った女性すべてがふり返るような美貌を曇らせて考えこんでいると、「燃やせばいい」という声が聴こえた。

「え?」

 声はあまりに自分の願望を言い当てているようで、幻聴だろうと頭をめぐらせる。厩舎の入口に立っていたのは、ぼさぼさの茶髪を肩にたらした少女だった。ようやく十歳かそこらの年齢だろうが、王のように堂々と立っている。

「なぜ我慢しているの? 聞くにえない雑言ぞうごんだわ」

 紙を盗み見なくとも、黙読した内容を〈呼ばい〉でうかがい知ることはできる。この少女になら、簡単なことだろう。

 〈魔王〉〈双竜王〉と呼ばれたエリサ・ゼンデンならば。


「私は強くないからね。もめごとにしたくないんだ」ロールは当たりさわりなく答えた。


「嘘つき」少女は言った。「あたしの〈呼ばい〉も平気なのに。あなたより強い力がある人は、王都に十人もいないわ」


「それがわかったということは、ずいぶん強い〈呼ばい〉を使ったね?」

 ロールはたしなめる口調になった。

「あまり強めすぎてはいけない。……リアナさまは、〈呼ばい病み〉しやすいんだ。知ってるだろう?」

「だけど、ずっと弱めておくのは難しいわ」少女はおもしろくなさそうに言った。

「訓練すれば、できるようになるよ」

 ロールは布で鞍の目立たない場所をこすった。たぶん、濃い色で染め直せば文字は見えなくなるだろう。


「どうして、やりかえさないの?」エリサは、いらだたしげにブーツの先で乾草を散らした。

「竜騎手団は、私にとって家族のようなものだからね」

 少女の問いに、そう答えた。が、彼女のお気に召さなかったらしい。

 エリサ・ゼンデンは「家族」と鼻で笑った。

「そんな汚い言葉を使って、あなたを傷つけるような人が家族なら、家族なんて要らないでしょ」


 少女の言葉はあまりに正しく、ロールの胸をえぐった。だが、彼はあくまでも穏やかに答えた。

「私には大切な人たちだ」そして、つけくわえる。「それに、私は腐ったリンゴなんだよ」

「腐ったリンゴ?」エリサはオウム返ししてから、自分で答えを思いだしたらしかった。「『ひとつの腐ったリンゴが、たる全体をダメにする』」

「そう。……だから排除されて当たり前なんだ」


「そうやって、自分で自分に呪いをかけるの?」

 少女は、リアナと同じスミレ色の瞳で糾弾きゅうだんした。「『折檻せっかんに慣れた鳥は、鎖を外しても飛びたたない』」

 なかなか、難しい言い回しを知っているらしい。

「きみは勉強熱心なんだね」

 普通の竜騎手なら、年少の子どもに馬鹿にされたと思う場面かもしれなかった。だが、ロールは純粋に感心したし、どこかおかしみも感じた。……最近では、侮蔑の言葉にも傷つかないほど、心が擦りきれているのだった。

 

「『新しい服をあつらえたら、古い服はみすぼらしくみえる』」エリサはさらに続けた。「自分にふさわしくない場所からは出るべきだわ」


「頼もしい意見だね」ロールは拳を口にあて、くっくっと笑った。リアナもこんなに勇ましい子どもだったのだろうか。

 が……「自分にふさわしくない場所からは出るべき」か。その言葉にはロールを立ちどまらせる力があった。今まで考えてもみなかった選択肢があることに気がついたのだった。


 ♢♦♢


 さすがにあの鞍で竜に乗るわけにもいかず、その日は適当な口実をつけて鍛錬を抜けた。

「王妃の寝所にでも呼ばれてるんじゃないか?」

「出世の道が約束されていて、うらやましいよ」

 冗談にまぎらせた侮蔑が背中を追ってくる。あの嫌がらせはこいつらなのか、とロールは思った。自分より1~2節ほど年上の若い竜騎手たちだ。たがいに鍛錬しあい、酒を飲み交わすこともある仲なのに。……いや、そんな仲だからこそなのかもしれない。


 ロールは黙って、建物内へ続く回廊を進んでいった。


「なぜ言わせておくんだ。おまえが言いかえさないから、あいつらもつけあがるんだぞ。……嘲弄に許可をあたえているようなものだ」

 竜騎手サンディが追ってきて、そう発破をかけた。エリサといい、サンディといい……。どうやら自分は、よほど腑抜ふぬけで歯がゆく見えるらしい。


「それを、おまえが言うかな」ロールは神経質な笑顔を浮かべた。「いずれ広まることだったとは思うけど、きっかけはサンディだろ」


「だとしても、自分をどう扱わせるかは自分で決めろよ。おまえが殴り返さないなら、僕が代わりにやり返さないといけないのか?」

「そうしてくれと、私が頼んだことがあったか?」

 ロールは棘のある声で言った。「もう放っておいてくれよ」


 が、もちろんサニサイド・エクハリトスはそれくらいで口をつぐんだりはしなかった。長い脚でやすやすとロールに追いついて、しつこく責めたてた。

「なぜ、と努力しないんだ? 社交の場には、おまえのつがいになりたい女が山といるのに、なぜそうごのみするんだ」


「異性を愛することは普通で、同性を愛することは趣味なのか?」ロールは立ちどまり、静かに尋ねた。

 サンディも立ちどまり、いぶかしげな顔で答える。

「生殖にかかわりのない恋愛は趣味だろう。せめて一人でも女をはらませてからやればいいんだ。それなら文句を言われることもないだろうに」


 ――『一人でも女をはらませて』か。簡単に言ってくれる。

 ロールは最近では、この高慢な男になにもかもぶちまけてしまいたい衝動に駆られるようになっていた。

 どれほど努力しても女性相手に欲情することはできないこと。一方で、好意のかけらもない相手でも、男性となら性交渉できること。


(そして、夜ごとにおまえの腕と熱とを思い描いているんだ、私は)


 それを告げたら、どんなにかこの男の美貌が嫌悪に歪むかと思うと――絶対に知られたくないと思っていたのに、今では、すべてを明かして終わらせたいと夢想している。


「おまえが目立つのはおまえの責任じゃない。能力や庇護があるのは誇るべきことだ」サンディは、いかにもエクハリトス家の男らしく堂々と言った。「だけど、他人につけ入る隙を与えるな」


「わかっているよ」ロールは暗い顔で答えた。「わかっているが、もう、うんざりなんだ」

「ロール……?」

「リアナ陛下に呼ばれているんだ。失礼」

 適当な口実で、ロールは後ろも見ずに立ち去った。

 


 サンディに近づけば、ずたずたに傷つけられる。それがわかっていて、どうして松明のあかりに飛びこむ羽虫のようにふらふらと彼に引き寄せられるのだろうか。


 たぶん、傷つけられることが心地よいからなのだろう。そうやって自分を罰しているつもりなのだろう。……自身の甘さをふり返るにつけ、エリサの苛烈さをまぶしく思いだした。

 あの少女には、リアナとはまた違った種類のカリスマ性がある。弱さを受けいれつつ強く優しくあろうとするのがリアナなら、エリサは惰弱さを切り捨てておのれの信じる道を進むというような。どちらの女性につき従う者たちの気持ちも、ロールにはわかる。どちらの強さも、自分には欠けている。


 周囲に褒めそやされる美貌も、その中身は醜く腐りきっている。その事実を、なかなか自分では認められなかった。だが、もう限界だった。


(ひとつの腐ったリンゴが、たる全体をダメにする。私がいることで、竜騎手団によからぬ影響を与えているんだ)


(竜騎手団を辞そう。退団して実家の領地に戻ろう。……結局は、それが自分のためにもなる)


 跡継ぎとして自分を望んでくれた養父母には申しわけないが、事情を話せば、わかってくれるだろう。自分は跡継ぎとして子どもをもうけることはできないのだと。


(リアナさまに話そう)



 自分の進退は自分で決める。それくらいの矜持きょうじはロールも持ち合わせていた。どう切りだすかを考えながら、ロールはリアナ王配への取り次ぎを頼んだ。


 ♢♦♢



 許可を得て王の居住区に入ると、ほっと息をついた。

 

 高貴な人々の住まいに足を踏みいれて落ちつくというのもおかしな話だが、ロールはこの空間と、彼らの持つ雰囲気が好きだった。


「ほんとにペンキ塗らせるんだもんな、デイのやつ。……なーにがエッグブルーだよ。ペンキくっせえ!」

「この作業着、どこに返すのかな?」

「あー……わかんね、めんどくせぇ」

「……あ、ロール」

 わいわいと二人、にぎやかに向かってきたのは、ヴィクトリオンとナイメリオンの兄弟だった。どちらも手にペンキ缶を下げ、大きな刷毛ハケを振りまわしている。大貴族の跡取り息子たちで立派な青年たちなのだが、ここで見かける彼らは悪童そのものだ。


「ごきげんよう、閣下がた」ロールは丁重に頭を下げた。

「今日は夕勤?」

「あ、いえ、今日は非番です。ちょっとリアナ陛下にご報告が……」

 そう言いかけて、ロールは手を口もとにあてた。「デイミオン陛下も、お戻りのようですね。居室からお声が」

 夫婦の時間の最中なら、出直すべきだろうか。


「あー」「あー……」

 ロールの逡巡しゅんじゅんをよそに、青年たちはなんとも言えない表情で顔を見合わせた。

「あの人たち今、すごく残念なことになってるけど、大丈夫?」


「え?」ロールは、『夏の青空色』と称される澄んだ青色の目を、ぱちりとまばたいた。『残念なこと?』

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