第42話 仮面の下で、あなたは

※性描写あり


 ――デイミオン? それとも、サンディなの?


 とまどうリアナを面白がるように、仮面の男は口もとを笑ませた。リアナが休んでいた場所はうす暗く、広間からは半分ほどが衝立ついたてで仕切られている。そのせいもあって、いっそう男の正体がつかめない。


「以前は、あなたたち夫婦は夜会に参加していなかった」

 男はまたデキャンタを卓に置き、先ほどからの話をつづけた。「だが、今季はずいぶん多くの夜会への参加を予定されているとか」


 リアナはあいづちも打たず、黙って男を観察していた。ちょっとした手の動きや、声の調子は夫のものだ。だが、慇懃無礼いんぎんぶれいな口調はサンディを思わせる。

(どちらにしても……意図がわからないわ)


「婚姻を解消されるおつもりがあるのではと、最近は噂になっているようだ」

 仮面の下の目が、ぎろりと動いた。答えをうながすように、無言で凄む。

 リアナは即答した。「その可能性があるとして、仮面をつけた相手にわたしが打ちあけると思う?」


 男は笑みを深めた。「……あなたは政治家だな」

「そうあるべきときにはね」リアナは慎重に返した。

「だが、今はそのときじゃない」男はぴしゃりと言った。「俺の質問に答えるんだ、リアナ・ゼンデン」


 それから、彼女の座るカウチに肉食獣めいてゆっくりと近づいてきた。許可も得ずに隣に座ってくる。リアナの緊張が高まった。

「現状が続けば、その可能性はあるわ」

「ここは五公会の場か?」

 男は自分の顎に手をやって、揶揄やゆする口調になった。「のらりくらりと答えを避けるのはよせ」

「……」


 遠目に似ていても、二人の目の色は違う。デイミオンは深いブルー、サンディはハシバミだ。影を落とす仮面をはずせば、あるいは単にもっと近づけば、どちらの男か、わかるはず。伸ばしかけたリアナの手を、男の太い腕がぐっとつかんだ。

「おっと。悪い手はつかんでおこうか」


 彼女が本気でこばめば、デイミオンならそれ以上押し通すことはない。サンディなら……あのデキャンタを、頭に振り下ろしてやるわ。


 椅子の上でこれほど密着していれば、仮面などほとんど無意味に思えた。それでも……リアナには確信がなかった。

 デイミオンだとしたら、いったいどうして今、そんなことを聞くのだろう?

 今夜は彼のために出席した宴だった。記憶をなくす前、デイはリアナという伴侶の手前、夜会もダンスも好んで参加しようとしなかった。今のデイなら、うれいなく夜会を楽しめるはずだ。

 それなのに、ヴァーディゴはあんなに楽しんでいたのに、今夜はどうしたというのだろう? 仮面の夜会で、わざわざ妻に張りついておく必要があるだろうか?


 ……やっぱり、サンディなのだろうか? 先日の仕返しに、夫のフリでリアナをからかおうとしている?


「さまざまな事情で、つがいの誓いを解消する夫婦はたくさんいるわ」

「つがいの誓いは神聖なものでは?」

「誓いはおたがいの幸せのためであって、どちらかの足かせではないはず」

 言いながら、リアナは自分でも一般論にすぎると思った。


「それで、どうするんだ? 新しい夫はフィルバートか?」

「夫を取り換えるという意味ではないわ。わかるでしょ?」

「いいや」男は冷え冷えとした声で続けた。「おまえとの婚姻で、フィルバートはなにも得ていない。婚資も、領地も、政治的利益も。……がほしかったんだ」

 やはり、デイミオンだ。リアナはためらいながら念を押した。

「わたしととのあいだの話なのよ。フィルはいま関係ないわ」

「本当にそうか?」

 男が彼女のほうに身体を向けると、重みでカウチがきしんだ。


「わたしのことが原因で、は過去に三度も危険な目に遭っている。黒竜のライダーにとって、自分の竜を制御できないということがどれほど致命的かくらい、わたしにも分かってる」

 いまでは、目の前の男が夫だとほとんど確信していた。それでも、名前を呼びかけることにためらいを感じてしまう。

 こんなことは、いまのデイとも、以前の彼とも、一度も話したことがないからだ。こんなふうにこじれる前に、もっと早く話しあっておくべきだった。タナスタス卿の言葉は正しい。


「それにわたしも……わたしを必要としていないあなたと一緒に過ごすのは、つらい。二人でがんばってきたけど、……ここが行きどまりなのかも」


「もう十分だ」男は怒りに満ちた声で言った。

 だが、今が言うべきときだと思ったリアナは、かまわず続けた。「このままあなたの記憶が戻らず、わたしが竜の制御のかせになっているのなら……たぶん、つがいは解消するべきだと思う……」

「もう十分だと、俺は言ったぞ」

 喉の奥でうなるような警告の音を立てて、デイミオンの顔が近づいた。

 リアナは腕を首にまわして男を引き寄せながら、うなじにかかる紐をといて仮面をはずした。仮面が落ちるのと同時に、男の腕がもう腰にまわっている。


 顔を確かめるよりも前に顔が近づいた。鼻同士を親密にこすりつけてから、甘く口づけられる。

「……デイ……」

 目の色よりもずっと確かな、慣れた唇の動きがそこにあった。カウチの隅に押しつけられ、ゴブラン織りの生地が背中に触れてざらついた。


「逃げるなよ、リアナ・ゼンデン。誰が俺の伴侶つがいにふさわしいか決めるのは、おまえではない」

 青い目で縫いとめられてしまったようで、動けない。こんなふうに夫に見つめられるのは、いったいどれくらいぶりなのだろうか。取り繕ったような冷淡な優しさをかなぐり捨てて、ぎらぎらと彼女をにらみつけている。

「デイミオン」

 彼の怒りは、なぜかリアナの胸をしめつけた。恐ろしい、という感情よりも、涙がにじむほど安堵する感覚があった。

 フィルが第二の夫と知っても、妊娠がわかっても平然としていた夫が、はじめてこれほどの怒りを見せたのだ。それは、愛情と不安の裏返しではないだろうかと期待してしまう。


 ――前のままのデイミオンが、どこかにいるのかも……わたしの知らない、この男のなかに。


 頬をつつむようにしてじっと目の奥をのぞきこんでいると、内心を読んだように、その手をつかまれる。

「おまえの記憶のなかにいる俺ではなく、目の前の俺を見てくれ」

 手首に口づけながら、デイミオンは懇願こんがんした。「今の俺は、おまえの愛にあたいしないのか?」


 手首の敏感な皮膚を唇でたどられ、リアナは小さくあえぎながら言った。

「今のあなたは……わたしのものなの?」

「そうあろうとしている」

 その言葉は、胸にせまるものがあった。今のデイミオンの、精いっぱいの真摯しんしな表現なのだということが、リアナにもわかった。


 リアナを愛することをやめようとしているフィルと、夫であることを忘れたデイミオンとのあいだには溝が横たわっている。自分は今にも、一人そこに落ちかけている気がする。でも……今夜のデイなら、手を伸ばしてくれそうな気がする。自分が落ちないように、支えていてくれる気がした。


「もう一回キスしてくれる?」

「もうしている」

 夫の言葉どおりだった。顔をかたむけながら何度もキスを交わし、そのあいまに熱く見つめあう。

 唇がおりてきて、首すじに顔が押しつけられた。患部を確認する医師のように指でなぞってから、舐め、噛んだ。跡がくっきりと残るほど、夫にそこを吸われるのが好きだ。補食されているようで、どきどきしてしまう。……視界の端で、小姓がついたてをそっと動かして、広間とこちらをへだてようとしているのが見えた。せっかくの雰囲気を壊したくない気持ちと、他人の館でふしだらな行為に及びかけている不安とが入り混じった。

「なにを考えている? ……集中しろ」

 そのささやきは耳に注ぎこまれたので、思わず大きなあえぎ声が出てしまった。デイミオンは重く、温かい。髪が鎖骨にかかってくすぐったいが、しだいに快感の方が増してきた。

「だけど、こんなところで……」

「聞かれたくないなら、黙っていればいい」

 

 ――そんなことをしたら、面白がってよけいに激しくするくせに。

 恨みがましく背中に爪を立てるも、笑われるだけで効果はなかった。

 騎兵服のジャケットは長衣ルクヴァより短いので、リアナは裾から手を入れてデイミオンの肌に触れることができた。固くてなめらかで、引き締まった筋肉を感じ取れる。


 おたがいの肌の感触に夢中になっているうちに、ひざの高さの卓にデイミオンの長い脚が当たった。彼がぞんざいに脚で卓をおしやるのと、菓子を入れたポットが落ちたのが見えた。女主人の慧眼というべきか、器は金属製だったので、割れずにかん高い音を立てた。星の形をした菓子がぱらぱらと絨毯に落ちていって、小姓の足もとまで転がった。


 そろそろ、ついたての向こうにも気づかれるのでは、と気が気ではない。

 ……と、視界が反転して、リアナが上になっていた。黒竜の王は、どうやら姿勢を変えたいらしい。

「カウチが小さすぎる」

 そう文句を言うのがおかしかった。「あなたが大きすぎるのよ、旦那さま」


 抱えあげて膝にのせられ、夫の愛撫にまかせた。ドレスの襟ぐりを下げて、乳房のきわどいところまで舐められる。布地の上からこすられると、あえぎ声を我慢することは不可能だった。

 デイミオンはさも心地よさそうに笑った。

「立ってきたな」

 言わずもがなのことを言い、襟ぐりのあいだから舌を差し入れて、固くなった乳首を舐めた。妻を興奮させるつもりではじめたのが、自分も夢中になっている。濡れた音をたてて執拗しつようにむさぼられ、夫の黒髪にまわした指に力が入った。

「そら、どうした? ……広間のほうにも聞こえるような声を出させてやろう」

「だめよ、デイ、そんな」

 大きくあえぎながら制止しても、欲望を隠せてはいない。どれくらいの夜をへだてたのか数えられないほど、これが欲しかった。夫の前に体を差しだし、渇望のまなざしで見下ろされたい。熱い指ですみずみまで触れられ、それから、それから……。


 夫も同じ欲望の渦にとらわれつつあるようだった。リアナと同じくらい、興奮に息をはずませている。

 脚の間に膝をはさまれ、膝頭が敏感な場所に押しつけられた。ぐりぐりと刺激されると、快感で腰に力が入らなくなる。首もとにしなだれかかってきた妻を、デイミオンはうっとりと受けとめた。「ああ……これはいいな」


「帰れなくなるわ」かろうじて、リアナはそう主張した。

「最後まではしない」どうにもあやしい口調で、夫は請け合った。「運んで帰ってやるから、もう少しおまえを味わわせてくれ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る