第37話 記憶をいま、戻す方法はないのか
♢♦♢ ――デイミオン――
ヒゲのことがあって数日、二人は表面的には穏やかに過ごした。
デイミオンは、自分が女性に高圧的に当たり散らしたことが信じがたく、気まずかった。不愛想だとかぶっきらぼうだと言われることはあったが、女性を怖がらせるような態度はとらないように気をつけているつもりだった。それが、妻に対してあんなふうに声を荒げるとは。二人はこうやってよくやりあっているし別に怖くはない、とリアナは言っていたが、それはそれでどうかという気もする。
アーダルの様子を見に、天空竜舎に入ったデイミオンは、そこで妻の姿を見かけた。軽装で――というか、胸当てのついたズボン姿で、遠目には厩務員にしか見えない。ふわふわした金髪を軽く結って、手にはバケツを下げ、活動的な様子にしていた。
デイミオンは、重そうなバケツを持ってやろうとして中をのぞいた。珍しくもないパーチやら、名前のわからない地味な魚が数匹入っている。竿は持っていなかったが、彼女が釣ったらしいとわかった。
「釣りをやるのか?」
彼自身はやらないので、不思議に思って、そう聞いた。
リアナは魚をレーデルルに放ってやりながら、「たまにね」と答えた。白竜は「グエッ」と鳴き、よろこんで魚を飲み込む。小魚のほうは子竜たちへわけてやる。
「……意外だな。釣り向きの性格じゃないだろう」
「せっかちっていうこと?」
「違うのか?」
リアナは否定せず、いたずらっぽく笑った。「気分転換とか、ちょっと考えごとをしたいときにいいのよ」
「ふうん……具合はいいのか?」
「今日はいいみたい」
かがみこんで顔をのぞくと、頬にあいさつ代わりのキスをしてくれた。音だけがして、唇はふれないような軽いものだ。
身体を寄せると、草と泥にまじって汗の匂いがした。そのことに気づいたのか、リアナは「昼の謁見の前に、入浴して着替えなきゃね」と言った。
「……ああ」
彼女になにか言いたいことがあるような気がしたが、すぐには思いつかない。そうしているうちに、リアナは魚をあたえ終えて竜舎を出て行ってしまった。小柄な背中を見送り、もどかしい思いがする。
自分とリアナが釣りをしている姿が、デイミオンには想像できなかった。そのことが、なぜか心に引っかかる。
♢♦♢
エンガス卿と会う予定を早めた理由もわからない。ただどうにも落ちつかなくて、老大公がこちらに来るはずだった日程よりも数日早く、彼の居館を訪ねていた。つかみどころのない老人は長時間客を待たせることで知られているが、この日はさすがに王の立場を汲んでくれたらしい。従僕がすぐに呼びに来た。
「記憶をいま、戻す方法はないのか」
部屋に入り、デイミオンの第一声はそれだった。
声を発してしまってから、老人の異様に気づいた。書き物机に向かっているが薄いガウンだけの姿で、骨のういた腕がむきだしになっている。早く来すぎたのだろうか? ……いや、シーズン中の若者でさえもう起きだしている時間帯だ。まして、エンガス卿は老人である。
「ない」
老人は紙に目をはしらせながら即答した。『おまえの相手をしている暇はない』と顔にも態度にも出ていたが、いちおう王への礼節は見せることにしたらしい。詳しく説明をした。
「記憶はもともと、青の竜術の領域ではない。……だが、陛下の状況に心当たりはある」
「頼む」
エンガスは、棚の前に立って書きつけを取りだした。なにげない羊皮紙の束に混じっているが、手に取ると一瞬光が走った。他者に紙を触れられないようにする高度な保護の術で、黄と青のライダーにしか使えないものだ。王配の健康情報なのだから、それも当然ではあった。
彼は書きつけの一部を指して、デイミオンに見せた。
「陛下がアーダル号の制御に失敗した二度は、どちらもリアナ陛下がかかわっていた。彼女が強い〈呼ばい〉で病みやすいためだ。今回が三度目。かような偶然が、三度も続くとは思えぬ」
「……それは」
デイミオン自身も、周囲から聞き及んで気になっていたことだ。すぐには信じがたいことではあった。
なぜなら、リアナ・ゼンデンは彼自身が選んだ伴侶なのだから。
考えこんでいるデイミオンをじっくりと観察し、エンガスは薄青いガラス玉のような目を本に戻した。
「仮説のひとつとして、リアナさまの存在は、あなたが力を制御するうえで無意識の足かせになっている」
「……どういうことだ?」
「なにか引っかかりが必要なのだよ。あなたほどの者を催眠にかけ、北部まで連れ出した。その術自体は〈冬の老人たち〉のものだろうが、あなた自身の側に、引き金が必要なのだ」
「それが……リアナだと?」デイミオンは乾いた笑みを浮かべた。「まさか。だからといって、なぜ存在を忘れる?」
「竜との同期は、ライダーの不具合をも修復する。奥方の存在は、陛下とアーダル号にとっての不具合と見なされたのかもしれぬ」
「そんな馬鹿な話があるか!」デイミオンは声を荒げた。もちろん、老大公は青年王の気迫に動じたりはしなかった。
「確認する方法が必要ならいくつかある」
「先日の今日で、さすがに試したいとは思わないな」
笑みがそのまま貼りついてしまったようで、首をふってごまかす。「原因はいい。記憶を取り戻したいだけなんだ」
「なぜそうも焦っておられる? 命にかかわるようなものではないと、ご自分で言っておられたではないか」
エンガスは体温の感じられない声で言った。「自然に戻るのを待つしかないのだ」
「
「つがいで過ごした十年が消えたんだ。妻はショックを受けている。こんなふうに行き違うのは本意じゃない」
エンガス卿は司祭でも友人でもなく、デイミオンの心情をおもんぱかる気はないようだった。
「記憶のことは、私にはどうにもならぬ。……方法のないことについて思いわずらうより、奥方とよく話し合われよ。なんなら私から――」
「妻には言うな」デイミオンはさえぎった。
「リアナ・ゼンデンの問題じゃない。これは、俺の問題だ」
エンガスは細い眉を片方だけあげてみせた。「私は、奥方の問題だと思うが。陛下の意にはそむくまい」
老人は、医学的にも政治的にもすっかり興味が失せたという顔になった。
「さて、せっかくお見えになったが、そろそろお帰りいただかねばならん」
「帰る前に、従僕を呼んでくださるか……」言いかけたエンガスは、急に激しくむせこんだ。
「エンガス」デイミオンは、あわてて老人の肩をささえた。細い腕がわなわなと震えている。目を向けた王はぎょっとした。
呪われた樹木のような紋様が、老人の腕に浮かびあがっているのだった。
「なんだ、これは?!」
蛸の脚のようにうごめく不気味な黒い線に、思わず腕を放しかかる。これに似たものを、どこかで見たことがある――
「なにを驚いておられる? すべてのライダーは半死者になりうると、奥方に聞かなかったかね?」エンガスは皮肉な笑みに似たものを口端に浮かべた。「竜族の身体は、ヒトの心臓が止まっても竜の心臓だけで生命活動を継続できる。わずかなタンパク質の摂取のみで活動でき、傷はすべて修復される――だが徐々に意思を失い、異形のゾンビとなる――いま、なりつつある」
「なんということを」
デイミオンの反応は、奇しくも妻リアナと同じものだったが、彼は知らないことだった。
「なぜリアナがそれを?」
尋ねながら、デイミオンはその答えを自分ですでに知っているとわかっていた。リアナ・ゼンデンは、重傷を負うと一時的にデーグルモールに似た状態になる。こんなことまで忘れていたのか。
「あなたの奥方は、この変性を超えて生き延びる、唯一の生存者だ。彼女と私には、なにか違いがあるだろうか?」
老人は背をかがめ、うわ言のようにつぶやいた。「王国の、次代のライダーたちに、治療法を」
「エンガス卿!!」デイミオンは大声で呼び、強く肩をゆさぶった。身体は熱した鉄のようで、皮膚がぱんぱんに膨れあがりかかっている。
「王よ」エンガスは奇妙に平板な声で語りかけた。「これが最初の人体実験ではない。私はこれまでも、罪人のライダーたちを実験台に使った」
「こんなところで懺悔をするな! 本当に迷惑な老人だな」
デイミオンは舌打ちをした。
青のライダーを呼ばねば。だが、王都でもっとも力のある青のライダーは、いま、目の前で異形と化しかけている。
「ヒトの心臓が止まっている。そう言ったな? 竜の心臓は動いていると……」
そして、その竜の心臓が暴走しているのだ。「竜の心臓の暴走を止め……青のライダーの力で、ヒトの心臓を動かす……できるのか、そんなことが?」
だが、やるしかあるまい。
デイミオンは最大の出力で、王都中に〈呼ばい〉を放った。実態のないはずの念で、館内のガラス窓がすべて割れ落ちるほどの強さで。
黒竜の王に
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