第36話 今の俺に興味がないんだろう

 数日後の夜会の警備について打ち合わせを終えると、ハダルクは退室した。残った二人は、また雑談にもどった。リアナは、領地で再会したフィルの様子をテオにつたえた。

「フィルにも、不自由な思いをさせてたのかもしれない」

 デイミオンからの連想で、つい、そんなことを口に出してしまった。「わたしの夫として暮らすのは、制約が多かっただろうし。社交づきあいも苦手みたいだったし」

 王配としての仕事につきあってくれてはいたが、もともとは気ままな生活を好む男だ。大切にしていた部隊の長もテオに譲り、いまは役職も責任もない自由を満喫しているのではないか……そう思ったのだった。


「不自由でもいいって、あの人なら言うかもしれませんね」

「フィルが?」

「そうじゃないですか? きっとこう言いますよ。『どんなに不自由だっていい。剣を捨てて、あなた一人の男になる』」


 リアナは苦く笑った。いかにも彼が言いそうなことだった。今そんなふうにフィルに告げられたら、自分は揺らがないでいられるだろうか。

「一本の剣であるより、一人の男として生きるほうが、フィルの幸せだと思ってたの。……でも、違ったのかも。自由に旅をしてまわっているほうが、わたしの夫をしているより、いいのかも……」


「あの人の幸せは、あの人が自分で決めますよ」

 褪せたような金髪をいじりながら、テオは言った。

「そうよね。傲慢な考えだったと思うわ」

「でも、あなたがそう考えてくれていることは、幸せだと思いますよ、あの人にとって」

 そうつけくわえたが、気を使ってくれていることがリアナにはわかった。


「弱気になっているんだわ。本当にわたしらしくない。フィルもそう言ってた……」

「お腹にもう一人、入ってるんですからね。俺だったら、どんなに不安になるかと思いますよ」

 テオは優しく尋ねた。「まだ言ってないんでしょう? 妊娠のこと、あの人には」


 リアナはためらいながらうなずいた。

「……フィルに言わないでね」

「俺は兵士ですよ。自分の口から、あるじの個人情報を漏らしたりはしません。それが元上官でも」テオはやや口調を強めて言い、また穏やかに続けた。「だけど、いつかは言わなきゃ」


「わかってるの。ただ、フィルは喜ばないだろうと思って……。反応を見るのが怖いの」

 続けて尋ねた。「あなたは、子どもを欲しいって思う?」

 フィルと同じ〈ハートレス〉の兵士である彼に、そう聞いてみたくなったのだった。


「子どもを持つのが怖いと思っていた時期もありましたよ。たしかに、俺は隊長とおなじ〈ハートレス〉ですから」

 テオは言葉を選びながら言った。

「でも、竜の心臓のことがあって、ハートレスはライダーの補完的な役割があると知られてきて……子どもがどちらに生まれるのかは、運なんだと言われるようになったでしょう。あれでずいぶん気持ちが楽になりました」


 それを聞いたリアナはうなずいた。デイミオンとフィルバートは、おなじ父母を持つ兄弟だ。どちらがライダーで、ハートレスに生まれてもおかしくなかった。逆の立場の二人というのは、いまでは想像もつかないが……。


「あの人が子どもを欲しくないかどうか、俺にはわかりません。でも大切な女性が自分の子を宿しているのに、蚊帳の外に置かれたいと思う男はいませんよ」

 テオは、最後に優しく念を押した。「必要なら大陸の端からでも、首に縄つけて引っ張ってきますから。……ちゃんと、ご自分の口で、報告してやってください」


 ♢♦♢



 夕食の席で、ひさしぶりに夫と顔をあわせることになった。


 リアナは少しばかり緊張しながら食卓についた。王が帰ってきての正餐だから、身内が主とはいえライダーたちも多くいて、にぎやかだった。エクハリトス家出身のグウィナやヒュダリオン。竜騎手のロールは護衛として毎日顔を合わせているが、今夜はほかにサンディやザック、フラニーもいる。夫側の縁戚ばかりではあるが、リアナとナイルの親戚であるジェーニイの顔もあった。


 ヴァーディゴのあとで着替えたらしく、その場に一人遅れてあらわれた。クリーム色の夏らしい長衣ルクヴァが、日焼けした健康的な肌を引き立てている。……ハダルクの言葉どおり、あごのまわりをヒゲが覆っていた。伸びかけの黒髪もあいまって、生来の男らしい美貌に野性味を添えていた。



「どうだ?」

 じっと見ていると、デイミオンがしたり顔で尋ねた。


「思ったより悪くないわ」リアナはにこっとして答えた。


「そうだろう」

 デイミオンは上機嫌で肉を切り分け、正餐をはじめさせた。

 試合のあとだから、男たちは話題がつきない様子だった。あの戦術はどうだ、この竜がどうだ、と盛りあがっている。


「陛下が得点袋シープと掴んだときの、あのスピードときたら!」

「あれこそまさにゴールの理想というべき形で。……リアナさまにもお見せしたかったですなぁ!」

「卿はバトンに頼りすぎる。コンタクトを避けていては、格上の相手に通じないぞ」

「肝に銘じます」

「あいかわらず、うらやましくなるほどご壮健で。一年のご不在など、まったく感じませんな」

「上王陛下とも、ますます仲睦まじく」

「ははは」


 竜騎手たちが世辞まじりの賞賛をし、王が笑顔で返す。若いライダーにアドバイスをする。

 リアナはにこにこと笑みを絶やさないまま、内心では複雑な気持ちを味わっていた。


 デイミオンが元気で、みんなが彼を元どおりだと言うのはうれしい。

 でも、わたしにとっては違う。わたしのデイじゃない。


 それはたぶん、ヒゲのせいだけではないのだ。


 『前の俺のほうが好きか?』と、不安そうに尋ねてくるのが、自分にとってのデイミオンだった。


(でも、それだって、結婚してからのデイだわ……わたしと出会う前の彼のことは知らない)

 本来の夫がどんな男だったか、リアナはしだいに自信を失っていくのを感じていた。


 食事が済んだ。男たちが談話室へ移動するタイミングを見はからって、リアナはそっと場を抜けた。



 

「あの……ご一緒しましょうか」

 自室に戻りかけたところの廊下で、竜騎手のロールが声をかけてきた。ふだんと違う態度のせいか、もじもじと所在なさそうにしている。「このあいだの夜会は、あなたの勇気に救われました」


「いいのよ。あれはわたしが好きでやったんだから」リアナは笑顔の続きを浮かべた。「サンディのしてやられた顔を見て、すっきりしたわ。……でも、お礼はいいわよ」

 こんな時期にいらぬ誤解を受けたくないので、そう断った。美男子ぞろいの竜騎手団のなかでも、ロレントゥスは蜂蜜色の髪と空色の目の美貌でとくに人気があるのだった。当人は女性に興味がないので、人気はかえって苦痛なようだったが……。


「サンディはどう? しつこく絡んだりしてこない?」

「あ……いいえ。大勢の前で恥をかかされて、さすがに頭が冷えたようです」

 ロールは首を振った。

「私のことは放っておいてくれているので、ありがたいです。……すこしだけ残念でもありますが」

「そうなの? ……なかなか重症ね」

「はい」

 ロールも苦笑した。「心とは、ままならないもののようです」

 本当にそうだ、とリアナは思った。自分の持ち物のはずなのに、心の向く場所がままならないのは、なぜなのだろう。



***


 数日、不眠が続いたせいだろうか。この夜は夢も見ないほど深く眠った。深夜にシーツの中に入ってきた夫のことにも気づかないほどだった。


 どのみち、しばらくは夫婦の営みができる体調ではなさそうだ。……この分だとそろそろ、デイミオンの第二配偶者のことも考えなければならない。そう思うと、朝から気が沈んだ。


 天蓋てんがいをあけると、夏のさわやかな早朝だった。寝台には自分一人だったが、部屋の中にデイミオンの気配がある。


「デイ? ……」


 朝の挨拶をしようと部屋をわたっていく。夫は洗面台の前に、上半身をはだけて立っていた。昨日の上機嫌が嘘のように、広い背中から不機嫌をただよわせている。妻の姿をちらと確認すると、声をかけるでもなく鏡に向かった。骨ばったあごが、石鹸の泡ですっかりおおわれている。


 頬のあたりに剃刀をあてているのが、リアナには不思議だった。「ヒゲ、剃ってるの?」


「……」


 デイミオンは即答せず、しばらくは無言で剃刀をすべらせていた。ぞりぞりと音を立てて、泡とヒゲが一体となって洗い桶に落ちた。


 どうしてそんなに不機嫌そうなのか、わからない。リアナはもう一度尋ねた。「伸ばしてるんじゃなかったの?」


 夫は泡を水で落とすあいだ、また無言だった。顔をあげ、鏡ごしに怒りにみちた目が向けられた。

「ヒゲが嫌いだと、昨日、言わなかったじゃないか」

「え?」

 リアナは一瞬、自分の言動が思いだせなかった。だが、たしかに、今のデイには言ったおぼえがない。なんとなく気まずくなりながら答えた。

「そうだったかな」


「そうだ。よりによってサンディから聞くはめになったんだぞ」デイミオンはリネンで顔をぬぐいながら、威圧的にすごんだ。ひと言ずつを区切るように強調しながら続ける。「あんな若造から、自分の妻の好みについて、得々と聞かされたんだ。屈辱だ」


 そんなことで、朝から腹を立てているのか……。

 リアナもさすがにむっとした。「だって……それ、気に入ってたみたいだったから、言わなかったのよ。その若造たちに囲まれて喜んでたじゃないの」

「愛想笑いもせずに仏頂面でもしておけというのか?」

「今してるじゃないの。その妻に向かって」

 二人は険悪ににらみあった。


「だいたい、あなたは」

「おまえは」

 二人は同時に言いかけたが、夫の声のほうが大きかった。思わず肩を震わせたのは彼女に後ろめたいところがあったせいだったが、デイミオンは一瞬ひるんだように見えた。妻を怖がらせたと思ったようだった。


「おまえは。今の俺に興味がないんだろう」声のトーンを落とし、夫は吐き捨てるように言った。「ヒゲがあろうがなかろうが……どうでもいいんだ」


「それは……」

 違う、と言おうとして、うまく言葉にならなかった。妻の表情の変化をじっとにらみつけていたデイミオンは、その反応に失望したように、踵を返して出ていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る